内外政策評論 TheOpinion on Global & Domestic Issues

このブログは、広い視野から内外諸問題を分析し、提言を試みます。
Policy Essayist

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その2)

2012-04-28 | Weblog
シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その2)
 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月10日前後に誕生祭が行われている。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1で掲載)
 2、ブッダ誕生の聖地を読む
 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
 ・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
 ・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
 ・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
  2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
 ・過去に存在したブッダの意味するところは?
 ・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
 ・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」出版元の東京図書出版会(026-673-8051又は03-3823-9171)。インターネット書店でもお求めに慣れます。
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (その2)

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 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月10日前後に誕生祭が行われている。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1で掲載)
 2、ブッダ誕生の聖地を読む
 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
 ・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
 ・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
 ・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
  2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
 ・過去に存在したブッダの意味するところは?
 ・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
 ・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」出版元の東京図書出版会(026-673-8051又は03-3823-9171)。インターネット書店でもお求めに慣れます。
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 2、ブッダ誕生の聖地を読む
 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
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 ・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
 ・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
 ・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
  2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
 ・過去に存在したブッダの意味するところは?
 ・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
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 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
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 ・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
 ・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
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 ・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

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 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1で掲載)
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 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
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 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1で掲載)
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 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
 ・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
 ・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
 ・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
  2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
 ・過去に存在したブッダの意味するところは?
 ・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
 ・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

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 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教 (その1で掲載)
 2、ブッダ誕生の聖地を読む
 ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
 ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
 ・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
 ・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
 ・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
  2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
 ・過去に存在したブッダの意味するところは?
 ・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
 ・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

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 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月10日前後に誕生祭が行われている。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
 確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
 その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであるコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教えの背景の一つとなっているようだ。
 そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化へ幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」(出版元 東京図書出版会026-673-8051又03-3823-9171)がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

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 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月10日前後に誕生祭が行われている。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
 確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
 その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであるコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教えの背景の一つとなっているようだ。
 そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化へ幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
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 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月10日前後に誕生祭が行われている。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
 確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
 その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであるコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教えの背景の一つとなっているようだ。
 そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化へ幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」(出版元 東京図書出版会026-673-8051又03-3823-9171)がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む (その2に掲載)
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国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (総合編)

2012-04-28 | Weblog
国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (総合編)
 4年前の2008年3月10日、チベット自治区の首府ラサで僧侶などによる北京オリンピックの開催国中国に対する抗議デモは、治安警察との衝突からで暴動に発展し、中国治安警察の鎮圧活動の過程で、死者18人(中国側発表)を含む多数の死傷者と900人を越える逮捕者を出した。
 そして本年7月27日から開催されるロンドン・オリンピックを前にしてチベットにおいて緊張感が高まっている。2008年のチベット内外での抗議活動は北京オリンピックのボイコットには繋がらなかったが、今回中国政府は抗議活動などを警戒し、ラサへの外国人記者の訪問、取材の制限など情報統制や治安維持活動を強化している。
 それは今年が4年に1度のオリンピックの年だからではない。3月10日は、高度な自治を求めるダライ・ラマ14世が1959年に中国人民軍に追われ、チベットを脱出する際に「臨時政府」の樹立を宣言した日であり、北インドのダラムサラで亡命政府が樹立された月に当たるからである。亡命政府発足30周年に当たる1989年3月にもラサで抗議行動が暴動に発展し、中国治安当局による弾圧活動が行われている。国際世論にチベットの自治・独立を訴えるために北京でオリンピックの際と同様、ロンドン・オリンピックの年に大きな抗議行動に発展する可能性がある。
 それではチベット問題の歴史的背景、根源は何か、そして今後展望は開けるのだろうか。
 1、 中国政府の主張の根拠 ―「17か条取り決め」-
 中国は、チベット自治区は「中国の一部」という主張を繰り返すであろう。その根拠として、1951年に署名された「17か条取り決め」を引き合いに出そう。
 毛沢東主席の下で中国人民軍が1950年にチベット地域に侵攻し、蒋介石総統下の国民党
勢力の影響を排除し、同地域を制圧した。米国は、共産主義の拡大阻止の観点から国民党を支持していた。その後、チベットは北京に代表を派遣し、1951年5月23日、中国代表との間で「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する取り決め」(通称「17か条取り決め」)に署名している。
「17か条取り決め」においては、「チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰」すると共に、「人民解放軍が進駐し、国防を固め」、通商貿易関係など「すべての渉外事務」は「中央政府」が処理するとしている。他方、チベットは「中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利」があり、「ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない」など、チベットの「自治」と「チベットの政治制度」の維持、「ダライ・ラマの固有の地位と職権」などが規定されており、一定の自治を想定していたことが読み取れる。しかし、清朝時代に導入された第2の宗教首領の「パンチェン・オルドニ」についても「固有の地位と職権は維持する」旨規定されており、旧来の制度に沿って「職権」を2人の宗教首領で分担するように規定されている。
ここに中国政府がチベット自治区は「中国の一部」と主張する根拠がある。
「17か条取り決め」骨子(1951年5月23日署名)
 1)(帝国主義勢力の排除に言及しつつ)チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰する。(第1条)
 2)チベット地方政府は、人民解放軍が進駐し、国防を固めることに協力する。(第2条)
    チベット軍隊は逐次改編し、中華人民共和国の国防武装力の一部となる。(第8条)
 3)チベットは、中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利がある。(第3条)
 4)チベットの現行政治制度を変更しない。ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない。(第4条)
 5)パンチェン・オルドニの固有の地位と職権は維持すべし。(第5条、6条)
   6)宗教信仰の自由を実行し、チベット人民の宗教信仰、風習習慣は尊重。(第7条、9条)
 7)中央政府は、チベット地区のすべての渉外事務を統一的に処理し、隣国と平和的に接し、
 通商貿易関係を発展させる。(第14条)    (ソース:「北京週報資料」電子版2008年3月23日)

 2、清朝時代に遡るチベット問題
 清朝時代に中国全土をほぼ統一した中央政府は、チベットの「宗教首領」として、17世紀中頃にラサ市を中心に影響力があったダライ第5世を冊封(さくほう、地位を与える行為で、制度的に統一されたのは隋代よりと言われる)すると共に、18世紀初期には第二の都市シガツエを中心に影響力のあった「パンチェン・オルドニ」を冊封し、チベット第2の最高位のラマ僧となり、パンチェン・ラマとも言われ、2大活仏系統となった。以来、いずれも中央政府の冊封を得て初めて合法とされるが、行政上は中央より派遣されていた大臣の監督、統轄の下にある形となっていた(北京週報資料、08年3月他)。チベットを統治する上で一方に権威や勢力が集中することを避けるための歴史的な制度と見られるが、これは中国政府側からの歴史、制度であり、チベット側には「政教合一」(政教一致)に根ざした宗教的な伝統があるのであろう。
 現在でも2大活仏体系は存続している。ダライ・ラマ14世がインドに亡命した際、当時のパンチェン・ラマ10世はチベットに止まったが、「文化大革命」の時期に投獄されるなど、言動は制約される中で1989年1月、急逝した。その転生者―生まれ変わりーとして、宗教的手続きに従い6歳の子供(ゲンドゥン・チューキ・ニマ)を選び、95年5月、ダライ・ラマ14世がこれを認定する声明を出したが、中国側はこの認定を拒否した。同少年と家族はその後間もなく失踪したが、中国当局が拘束していると見られている。中国側は、別途の手続きに従い転生者を選び、同年齢のパンチェン・ラマ11世(ギエンツエン・ノルブ)を布告し、中国政府との関係などで活動している(「ダライ・ラマ日本代表事務所」資料、3月16日付新華社電他)。中国における信仰や言論の自由や人権が深い闇の中にあることを物語っている。
 人権や信仰・宗教の自由の観点からは、パンチェン・ラマ11世の拘束は重大な問題だ。更に問題は、将来ダライ・ラマ14世の転生者を選ぶ必要が生じた場合、これまでの宗教上の手続きに従うと、候補者選びは出来ても、ダライ・ラマ15世の認定声明は本来であればパンチェン11世が行うことになるが、中国側が布告したパンチェン11世が行うこととなると事態は複雑となろう。無論、ダライ・ラマ側とすればその転生者を切らすわけには行かないので、ダライ・ラマ側で転生者認定の便法が考えられることになろうが、チベットの宗教的伝統に従って後継者を選べない事態となれば、信仰の根幹に係わることであるのでこれまで以上の混乱は避けられないであろう。
 2008年4月7日、中国国家資料局は、1951年10月にダライ・ラマ14世が毛沢東主席宛に出した電報を公開した(新華社通信)。同電報は、「チベットの平和的な解放の方法に関する協議」に言及し、「51年5月23日に調印した」ことを伝え、取り決めを認める内容となっている。
 中国側としては、この「電報」をこの時期に公開することにより、ダライ・ラマ14世が「17か条取り決め」を了承していることを示し、チベットにおける中国の地位を合法化する狙いがあると見られる。しかし、「電報」については発信者側の署名、決裁のある原議が無ければ、真偽は判断出来ない。
 この「取り決め」に基づき、1951年10月、中国人民解放軍がチベットに進駐し、中国側の「民主改革、平和解放」を進め、統治を強化するにつれて、「宗教合一」などの伝統や権能を巡りチベット側との溝が深まり、59年3月10日、ダライ・ラマはチベットを去るに当たり「臨時政府」の樹立を宣言し、一方的に「17か条取り決めが破棄」され、「チベット独立が宣言された」と解釈されている(「北京週報資料」電子版2008年3月23日他)。
 3、「独立」未満、「17か条取り決め」以上のチベットの自治は可能か
 ダライ・ラマ14世は、2008年4月10日、訪米の途次、日本での記者会見において、「自治を求めているのであり、独立を求めているものではない」ことを改めて明言している。従って、中国側が、「17か条取り決め」や歴史的なチベットにおける中国の権能を根拠として、チベットは「中国の一部」であり、「独立を認めない」としているが、「17か条取り決め」がチベットにより破棄されたか否かは別として、チベット側も「独立」ではなく、「自治」を求めているということであるので、中国側とチベット側で接点を見出すことは不可能ではないのではないか。要するに、“独立未満、17か条取り決め以上のチベットの自治”の範囲やあり方を両者間で協議し、合意点を見出すことが鍵であり、早急に対話を開始することが望まれる。
 ダライ・ラマ14世は2011年10月末から11月にかけて来日し、被災地も訪問しているが、その際にも「亡命チベット政権は、チベット人が中国憲法の枠内で実質的な自治を達成できるよう、努力している」旨述べている。 (2012,03.26.)(Copy Right Reserved.)
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国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (総合編)

2012-04-28 | Weblog
国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (総合編)
 4年前の2008年3月10日、チベット自治区の首府ラサで僧侶などによる北京オリンピックの開催国中国に対する抗議デモは、治安警察との衝突からで暴動に発展し、中国治安警察の鎮圧活動の過程で、死者18人(中国側発表)を含む多数の死傷者と900人を越える逮捕者を出した。
 そして本年7月27日から開催されるロンドン・オリンピックを前にしてチベットにおいて緊張感が高まっている。2008年のチベット内外での抗議活動は北京オリンピックのボイコットには繋がらなかったが、今回中国政府は抗議活動などを警戒し、ラサへの外国人記者の訪問、取材の制限など情報統制や治安維持活動を強化している。
 それは今年が4年に1度のオリンピックの年だからではない。3月10日は、高度な自治を求めるダライ・ラマ14世が1959年に中国人民軍に追われ、チベットを脱出する際に「臨時政府」の樹立を宣言した日であり、北インドのダラムサラで亡命政府が樹立された月に当たるからである。亡命政府発足30周年に当たる1989年3月にもラサで抗議行動が暴動に発展し、中国治安当局による弾圧活動が行われている。国際世論にチベットの自治・独立を訴えるために北京でオリンピックの際と同様、ロンドン・オリンピックの年に大きな抗議行動に発展する可能性がある。
 それではチベット問題の歴史的背景、根源は何か、そして今後展望は開けるのだろうか。
 1、 中国政府の主張の根拠 ―「17か条取り決め」-
 中国は、チベット自治区は「中国の一部」という主張を繰り返すであろう。その根拠として、1951年に署名された「17か条取り決め」を引き合いに出そう。
 毛沢東主席の下で中国人民軍が1950年にチベット地域に侵攻し、蒋介石総統下の国民党
勢力の影響を排除し、同地域を制圧した。米国は、共産主義の拡大阻止の観点から国民党を支持していた。その後、チベットは北京に代表を派遣し、1951年5月23日、中国代表との間で「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する取り決め」(通称「17か条取り決め」)に署名している。
「17か条取り決め」においては、「チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰」すると共に、「人民解放軍が進駐し、国防を固め」、通商貿易関係など「すべての渉外事務」は「中央政府」が処理するとしている。他方、チベットは「中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利」があり、「ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない」など、チベットの「自治」と「チベットの政治制度」の維持、「ダライ・ラマの固有の地位と職権」などが規定されており、一定の自治を想定していたことが読み取れる。しかし、清朝時代に導入された第2の宗教首領の「パンチェン・オルドニ」についても「固有の地位と職権は維持する」旨規定されており、旧来の制度に沿って「職権」を2人の宗教首領で分担するように規定されている。
ここに中国政府がチベット自治区は「中国の一部」と主張する根拠がある。
「17か条取り決め」骨子(1951年5月23日署名)
 1)(帝国主義勢力の排除に言及しつつ)チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰する。(第1条)
 2)チベット地方政府は、人民解放軍が進駐し、国防を固めることに協力する。(第2条)
    チベット軍隊は逐次改編し、中華人民共和国の国防武装力の一部となる。(第8条)
 3)チベットは、中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利がある。(第3条)
 4)チベットの現行政治制度を変更しない。ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない。(第4条)
 5)パンチェン・オルドニの固有の地位と職権は維持すべし。(第5条、6条)
   6)宗教信仰の自由を実行し、チベット人民の宗教信仰、風習習慣は尊重。(第7条、9条)
 7)中央政府は、チベット地区のすべての渉外事務を統一的に処理し、隣国と平和的に接し、
 通商貿易関係を発展させる。(第14条)    (ソース:「北京週報資料」電子版2008年3月23日)

 2、清朝時代に遡るチベット問題
 清朝時代に中国全土をほぼ統一した中央政府は、チベットの「宗教首領」として、17世紀中頃にラサ市を中心に影響力があったダライ第5世を冊封(さくほう、地位を与える行為で、制度的に統一されたのは隋代よりと言われる)すると共に、18世紀初期には第二の都市シガツエを中心に影響力のあった「パンチェン・オルドニ」を冊封し、チベット第2の最高位のラマ僧となり、パンチェン・ラマとも言われ、2大活仏系統となった。以来、いずれも中央政府の冊封を得て初めて合法とされるが、行政上は中央より派遣されていた大臣の監督、統轄の下にある形となっていた(北京週報資料、08年3月他)。チベットを統治する上で一方に権威や勢力が集中することを避けるための歴史的な制度と見られるが、これは中国政府側からの歴史、制度であり、チベット側には「政教合一」(政教一致)に根ざした宗教的な伝統があるのであろう。
 現在でも2大活仏体系は存続している。ダライ・ラマ14世がインドに亡命した際、当時のパンチェン・ラマ10世はチベットに止まったが、「文化大革命」の時期に投獄されるなど、言動は制約される中で1989年1月、急逝した。その転生者―生まれ変わりーとして、宗教的手続きに従い6歳の子供(ゲンドゥン・チューキ・ニマ)を選び、95年5月、ダライ・ラマ14世がこれを認定する声明を出したが、中国側はこの認定を拒否した。同少年と家族はその後間もなく失踪したが、中国当局が拘束していると見られている。中国側は、別途の手続きに従い転生者を選び、同年齢のパンチェン・ラマ11世(ギエンツエン・ノルブ)を布告し、中国政府との関係などで活動している(「ダライ・ラマ日本代表事務所」資料、3月16日付新華社電他)。中国における信仰や言論の自由や人権が深い闇の中にあることを物語っている。
 人権や信仰・宗教の自由の観点からは、パンチェン・ラマ11世の拘束は重大な問題だ。更に問題は、将来ダライ・ラマ14世の転生者を選ぶ必要が生じた場合、これまでの宗教上の手続きに従うと、候補者選びは出来ても、ダライ・ラマ15世の認定声明は本来であればパンチェン11世が行うことになるが、中国側が布告したパンチェン11世が行うこととなると事態は複雑となろう。無論、ダライ・ラマ側とすればその転生者を切らすわけには行かないので、ダライ・ラマ側で転生者認定の便法が考えられることになろうが、チベットの宗教的伝統に従って後継者を選べない事態となれば、信仰の根幹に係わることであるのでこれまで以上の混乱は避けられないであろう。
 2008年4月7日、中国国家資料局は、1951年10月にダライ・ラマ14世が毛沢東主席宛に出した電報を公開した(新華社通信)。同電報は、「チベットの平和的な解放の方法に関する協議」に言及し、「51年5月23日に調印した」ことを伝え、取り決めを認める内容となっている。
 中国側としては、この「電報」をこの時期に公開することにより、ダライ・ラマ14世が「17か条取り決め」を了承していることを示し、チベットにおける中国の地位を合法化する狙いがあると見られる。しかし、「電報」については発信者側の署名、決裁のある原議が無ければ、真偽は判断出来ない。
 この「取り決め」に基づき、1951年10月、中国人民解放軍がチベットに進駐し、中国側の「民主改革、平和解放」を進め、統治を強化するにつれて、「宗教合一」などの伝統や権能を巡りチベット側との溝が深まり、59年3月10日、ダライ・ラマはチベットを去るに当たり「臨時政府」の樹立を宣言し、一方的に「17か条取り決めが破棄」され、「チベット独立が宣言された」と解釈されている(「北京週報資料」電子版2008年3月23日他)。
 3、「独立」未満、「17か条取り決め」以上のチベットの自治は可能か
 ダライ・ラマ14世は、2008年4月10日、訪米の途次、日本での記者会見において、「自治を求めているのであり、独立を求めているものではない」ことを改めて明言している。従って、中国側が、「17か条取り決め」や歴史的なチベットにおける中国の権能を根拠として、チベットは「中国の一部」であり、「独立を認めない」としているが、「17か条取り決め」がチベットにより破棄されたか否かは別として、チベット側も「独立」ではなく、「自治」を求めているということであるので、中国側とチベット側で接点を見出すことは不可能ではないのではないか。要するに、“独立未満、17か条取り決め以上のチベットの自治”の範囲やあり方を両者間で協議し、合意点を見出すことが鍵であり、早急に対話を開始することが望まれる。
 ダライ・ラマ14世は2011年10月末から11月にかけて来日し、被災地も訪問しているが、その際にも「亡命チベット政権は、チベット人が中国憲法の枠内で実質的な自治を達成できるよう、努力している」旨述べている。 (2012,03.26.)(Copy Right Reserved.)
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 4年前の2008年3月10日、チベット自治区の首府ラサで僧侶などによる北京オリンピックの開催国中国に対する抗議デモは、治安警察との衝突からで暴動に発展し、中国治安警察の鎮圧活動の過程で、死者18人(中国側発表)を含む多数の死傷者と900人を越える逮捕者を出した。
 そして本年7月27日から開催されるロンドン・オリンピックを前にしてチベットにおいて緊張感が高まっている。2008年のチベット内外での抗議活動は北京オリンピックのボイコットには繋がらなかったが、今回中国政府は抗議活動などを警戒し、ラサへの外国人記者の訪問、取材の制限など情報統制や治安維持活動を強化している。
 それは今年が4年に1度のオリンピックの年だからではない。3月10日は、高度な自治を求めるダライ・ラマ14世が1959年に中国人民軍に追われ、チベットを脱出する際に「臨時政府」の樹立を宣言した日であり、北インドのダラムサラで亡命政府が樹立された月に当たるからである。亡命政府発足30周年に当たる1989年3月にもラサで抗議行動が暴動に発展し、中国治安当局による弾圧活動が行われている。国際世論にチベットの自治・独立を訴えるために北京でオリンピックの際と同様、ロンドン・オリンピックの年に大きな抗議行動に発展する可能性がある。
 それではチベット問題の歴史的背景、根源は何か、そして今後展望は開けるのだろうか。
 1、 中国政府の主張の根拠 ―「17か条取り決め」-
 中国は、チベット自治区は「中国の一部」という主張を繰り返すであろう。その根拠として、1951年に署名された「17か条取り決め」を引き合いに出そう。
 毛沢東主席の下で中国人民軍が1950年にチベット地域に侵攻し、蒋介石総統下の国民党
勢力の影響を排除し、同地域を制圧した。米国は、共産主義の拡大阻止の観点から国民党を支持していた。その後、チベットは北京に代表を派遣し、1951年5月23日、中国代表との間で「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する取り決め」(通称「17か条取り決め」)に署名している。
「17か条取り決め」においては、「チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰」すると共に、「人民解放軍が進駐し、国防を固め」、通商貿易関係など「すべての渉外事務」は「中央政府」が処理するとしている。他方、チベットは「中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利」があり、「ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない」など、チベットの「自治」と「チベットの政治制度」の維持、「ダライ・ラマの固有の地位と職権」などが規定されており、一定の自治を想定していたことが読み取れる。しかし、清朝時代に導入された第2の宗教首領の「パンチェン・オルドニ」についても「固有の地位と職権は維持する」旨規定されており、旧来の制度に沿って「職権」を2人の宗教首領で分担するように規定されている。
ここに中国政府がチベット自治区は「中国の一部」と主張する根拠がある。
「17か条取り決め」骨子(1951年5月23日署名)
 1)(帝国主義勢力の排除に言及しつつ)チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰する。(第1条)
 2)チベット地方政府は、人民解放軍が進駐し、国防を固めることに協力する。(第2条)
    チベット軍隊は逐次改編し、中華人民共和国の国防武装力の一部となる。(第8条)
 3)チベットは、中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利がある。(第3条)
 4)チベットの現行政治制度を変更しない。ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない。(第4条)
 5)パンチェン・オルドニの固有の地位と職権は維持すべし。(第5条、6条)
   6)宗教信仰の自由を実行し、チベット人民の宗教信仰、風習習慣は尊重。(第7条、9条)
 7)中央政府は、チベット地区のすべての渉外事務を統一的に処理し、隣国と平和的に接し、
 通商貿易関係を発展させる。(第14条)    (ソース:「北京週報資料」電子版2008年3月23日)

 2、清朝時代に遡るチベット問題
 清朝時代に中国全土をほぼ統一した中央政府は、チベットの「宗教首領」として、17世紀中頃にラサ市を中心に影響力があったダライ第5世を冊封(さくほう、地位を与える行為で、制度的に統一されたのは隋代よりと言われる)すると共に、18世紀初期には第二の都市シガツエを中心に影響力のあった「パンチェン・オルドニ」を冊封し、チベット第2の最高位のラマ僧となり、パンチェン・ラマとも言われ、2大活仏系統となった。以来、いずれも中央政府の冊封を得て初めて合法とされるが、行政上は中央より派遣されていた大臣の監督、統轄の下にある形となっていた(北京週報資料、08年3月他)。チベットを統治する上で一方に権威や勢力が集中することを避けるための歴史的な制度と見られるが、これは中国政府側からの歴史、制度であり、チベット側には「政教合一」(政教一致)に根ざした宗教的な伝統があるのであろう。
 現在でも2大活仏体系は存続している。ダライ・ラマ14世がインドに亡命した際、当時のパンチェン・ラマ10世はチベットに止まったが、「文化大革命」の時期に投獄されるなど、言動は制約される中で1989年1月、急逝した。その転生者―生まれ変わりーとして、宗教的手続きに従い6歳の子供(ゲンドゥン・チューキ・ニマ)を選び、95年5月、ダライ・ラマ14世がこれを認定する声明を出したが、中国側はこの認定を拒否した。同少年と家族はその後間もなく失踪したが、中国当局が拘束していると見られている。中国側は、別途の手続きに従い転生者を選び、同年齢のパンチェン・ラマ11世(ギエンツエン・ノルブ)を布告し、中国政府との関係などで活動している(「ダライ・ラマ日本代表事務所」資料、3月16日付新華社電他)。中国における信仰や言論の自由や人権が深い闇の中にあることを物語っている。
 人権や信仰・宗教の自由の観点からは、パンチェン・ラマ11世の拘束は重大な問題だ。更に問題は、将来ダライ・ラマ14世の転生者を選ぶ必要が生じた場合、これまでの宗教上の手続きに従うと、候補者選びは出来ても、ダライ・ラマ15世の認定声明は本来であればパンチェン11世が行うことになるが、中国側が布告したパンチェン11世が行うこととなると事態は複雑となろう。無論、ダライ・ラマ側とすればその転生者を切らすわけには行かないので、ダライ・ラマ側で転生者認定の便法が考えられることになろうが、チベットの宗教的伝統に従って後継者を選べない事態となれば、信仰の根幹に係わることであるのでこれまで以上の混乱は避けられないであろう。
 2008年4月7日、中国国家資料局は、1951年10月にダライ・ラマ14世が毛沢東主席宛に出した電報を公開した(新華社通信)。同電報は、「チベットの平和的な解放の方法に関する協議」に言及し、「51年5月23日に調印した」ことを伝え、取り決めを認める内容となっている。
 中国側としては、この「電報」をこの時期に公開することにより、ダライ・ラマ14世が「17か条取り決め」を了承していることを示し、チベットにおける中国の地位を合法化する狙いがあると見られる。しかし、「電報」については発信者側の署名、決裁のある原議が無ければ、真偽は判断出来ない。
 この「取り決め」に基づき、1951年10月、中国人民解放軍がチベットに進駐し、中国側の「民主改革、平和解放」を進め、統治を強化するにつれて、「宗教合一」などの伝統や権能を巡りチベット側との溝が深まり、59年3月10日、ダライ・ラマはチベットを去るに当たり「臨時政府」の樹立を宣言し、一方的に「17か条取り決めが破棄」され、「チベット独立が宣言された」と解釈されている(「北京週報資料」電子版2008年3月23日他)。
 3、「独立」未満、「17か条取り決め」以上のチベットの自治は可能か
 ダライ・ラマ14世は、2008年4月10日、訪米の途次、日本での記者会見において、「自治を求めているのであり、独立を求めているものではない」ことを改めて明言している。従って、中国側が、「17か条取り決め」や歴史的なチベットにおける中国の権能を根拠として、チベットは「中国の一部」であり、「独立を認めない」としているが、「17か条取り決め」がチベットにより破棄されたか否かは別として、チベット側も「独立」ではなく、「自治」を求めているということであるので、中国側とチベット側で接点を見出すことは不可能ではないのではないか。要するに、“独立未満、17か条取り決め以上のチベットの自治”の範囲やあり方を両者間で協議し、合意点を見出すことが鍵であり、早急に対話を開始することが望まれる。
 ダライ・ラマ14世は2011年10月末から11月にかけて来日し、被災地も訪問しているが、その際にも「亡命チベット政権は、チベット人が中国憲法の枠内で実質的な自治を達成できるよう、努力している」旨述べている。 (2012,03.26.)(Copy Right Reserved.)
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国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (総合編)

2012-04-28 | Weblog
国際シリーズ チベット問題の根源と今後の動向 (総合編)
 4年前の2008年3月10日、チベット自治区の首府ラサで僧侶などによる北京オリンピックの開催国中国に対する抗議デモは、治安警察との衝突からで暴動に発展し、中国治安警察の鎮圧活動の過程で、死者18人(中国側発表)を含む多数の死傷者と900人を越える逮捕者を出した。
 そして本年7月27日から開催されるロンドン・オリンピックを前にしてチベットにおいて緊張感が高まっている。2008年のチベット内外での抗議活動は北京オリンピックのボイコットには繋がらなかったが、今回中国政府は抗議活動などを警戒し、ラサへの外国人記者の訪問、取材の制限など情報統制や治安維持活動を強化している。
 それは今年が4年に1度のオリンピックの年だからではない。3月10日は、高度な自治を求めるダライ・ラマ14世が1959年に中国人民軍に追われ、チベットを脱出する際に「臨時政府」の樹立を宣言した日であり、北インドのダラムサラで亡命政府が樹立された月に当たるからである。亡命政府発足30周年に当たる1989年3月にもラサで抗議行動が暴動に発展し、中国治安当局による弾圧活動が行われている。国際世論にチベットの自治・独立を訴えるために北京でオリンピックの際と同様、ロンドン・オリンピックの年に大きな抗議行動に発展する可能性がある。
 それではチベット問題の歴史的背景、根源は何か、そして今後展望は開けるのだろうか。
 1、 中国政府の主張の根拠 ―「17か条取り決め」-
 中国は、チベット自治区は「中国の一部」という主張を繰り返すであろう。その根拠として、1951年に署名された「17か条取り決め」を引き合いに出そう。
 毛沢東主席の下で中国人民軍が1950年にチベット地域に侵攻し、蒋介石総統下の国民党
勢力の影響を排除し、同地域を制圧した。米国は、共産主義の拡大阻止の観点から国民党を支持していた。その後、チベットは北京に代表を派遣し、1951年5月23日、中国代表との間で「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放の方法に関する取り決め」(通称「17か条取り決め」)に署名している。
「17か条取り決め」においては、「チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰」すると共に、「人民解放軍が進駐し、国防を固め」、通商貿易関係など「すべての渉外事務」は「中央政府」が処理するとしている。他方、チベットは「中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利」があり、「ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない」など、チベットの「自治」と「チベットの政治制度」の維持、「ダライ・ラマの固有の地位と職権」などが規定されており、一定の自治を想定していたことが読み取れる。しかし、清朝時代に導入された第2の宗教首領の「パンチェン・オルドニ」についても「固有の地位と職権は維持する」旨規定されており、旧来の制度に沿って「職権」を2人の宗教首領で分担するように規定されている。
ここに中国政府がチベット自治区は「中国の一部」と主張する根拠がある。
「17か条取り決め」骨子(1951年5月23日署名)
 1)(帝国主義勢力の排除に言及しつつ)チベット人民は中華人民共和国の祖国大家庭に復帰する。(第1条)
 2)チベット地方政府は、人民解放軍が進駐し、国防を固めることに協力する。(第2条)
    チベット軍隊は逐次改編し、中華人民共和国の国防武装力の一部となる。(第8条)
 3)チベットは、中央人民政府の統一的指導の下で、民族区域自治を実行する権利がある。(第3条)
 4)チベットの現行政治制度を変更しない。ダライ・ラマの固有の地位と職権も変更しない。(第4条)
 5)パンチェン・オルドニの固有の地位と職権は維持すべし。(第5条、6条)
   6)宗教信仰の自由を実行し、チベット人民の宗教信仰、風習習慣は尊重。(第7条、9条)
 7)中央政府は、チベット地区のすべての渉外事務を統一的に処理し、隣国と平和的に接し、
 通商貿易関係を発展させる。(第14条)    (ソース:「北京週報資料」電子版2008年3月23日)

 2、清朝時代に遡るチベット問題
 清朝時代に中国全土をほぼ統一した中央政府は、チベットの「宗教首領」として、17世紀中頃にラサ市を中心に影響力があったダライ第5世を冊封(さくほう、地位を与える行為で、制度的に統一されたのは隋代よりと言われる)すると共に、18世紀初期には第二の都市シガツエを中心に影響力のあった「パンチェン・オルドニ」を冊封し、チベット第2の最高位のラマ僧となり、パンチェン・ラマとも言われ、2大活仏系統となった。以来、いずれも中央政府の冊封を得て初めて合法とされるが、行政上は中央より派遣されていた大臣の監督、統轄の下にある形となっていた(北京週報資料、08年3月他)。チベットを統治する上で一方に権威や勢力が集中することを避けるための歴史的な制度と見られるが、これは中国政府側からの歴史、制度であり、チベット側には「政教合一」(政教一致)に根ざした宗教的な伝統があるのであろう。
 現在でも2大活仏体系は存続している。ダライ・ラマ14世がインドに亡命した際、当時のパンチェン・ラマ10世はチベットに止まったが、「文化大革命」の時期に投獄されるなど、言動は制約される中で1989年1月、急逝した。その転生者―生まれ変わりーとして、宗教的手続きに従い6歳の子供(ゲンドゥン・チューキ・ニマ)を選び、95年5月、ダライ・ラマ14世がこれを認定する声明を出したが、中国側はこの認定を拒否した。同少年と家族はその後間もなく失踪したが、中国当局が拘束していると見られている。中国側は、別途の手続きに従い転生者を選び、同年齢のパンチェン・ラマ11世(ギエンツエン・ノルブ)を布告し、中国政府との関係などで活動している(「ダライ・ラマ日本代表事務所」資料、3月16日付新華社電他)。中国における信仰や言論の自由や人権が深い闇の中にあることを物語っている。
 人権や信仰・宗教の自由の観点からは、パンチェン・ラマ11世の拘束は重大な問題だ。更に問題は、将来ダライ・ラマ14世の転生者を選ぶ必要が生じた場合、これまでの宗教上の手続きに従うと、候補者選びは出来ても、ダライ・ラマ15世の認定声明は本来であればパンチェン11世が行うことになるが、中国側が布告したパンチェン11世が行うこととなると事態は複雑となろう。無論、ダライ・ラマ側とすればその転生者を切らすわけには行かないので、ダライ・ラマ側で転生者認定の便法が考えられることになろうが、チベットの宗教的伝統に従って後継者を選べない事態となれば、信仰の根幹に係わることであるのでこれまで以上の混乱は避けられないであろう。
 2008年4月7日、中国国家資料局は、1951年10月にダライ・ラマ14世が毛沢東主席宛に出した電報を公開した(新華社通信)。同電報は、「チベットの平和的な解放の方法に関する協議」に言及し、「51年5月23日に調印した」ことを伝え、取り決めを認める内容となっている。
 中国側としては、この「電報」をこの時期に公開することにより、ダライ・ラマ14世が「17か条取り決め」を了承していることを示し、チベットにおける中国の地位を合法化する狙いがあると見られる。しかし、「電報」については発信者側の署名、決裁のある原議が無ければ、真偽は判断出来ない。
 この「取り決め」に基づき、1951年10月、中国人民解放軍がチベットに進駐し、中国側の「民主改革、平和解放」を進め、統治を強化するにつれて、「宗教合一」などの伝統や権能を巡りチベット側との溝が深まり、59年3月10日、ダライ・ラマはチベットを去るに当たり「臨時政府」の樹立を宣言し、一方的に「17か条取り決めが破棄」され、「チベット独立が宣言された」と解釈されている(「北京週報資料」電子版2008年3月23日他)。
 3、「独立」未満、「17か条取り決め」以上のチベットの自治は可能か
 ダライ・ラマ14世は、2008年4月10日、訪米の途次、日本での記者会見において、「自治を求めているのであり、独立を求めているものではない」ことを改めて明言している。従って、中国側が、「17か条取り決め」や歴史的なチベットにおける中国の権能を根拠として、チベットは「中国の一部」であり、「独立を認めない」としているが、「17か条取り決め」がチベットにより破棄されたか否かは別として、チベット側も「独立」ではなく、「自治」を求めているということであるので、中国側とチベット側で接点を見出すことは不可能ではないのではないか。要するに、“独立未満、17か条取り決め以上のチベットの自治”の範囲やあり方を両者間で協議し、合意点を見出すことが鍵であり、早急に対話を開始することが望まれる。
 ダライ・ラマ14世は2011年10月末から11月にかけて来日し、被災地も訪問しているが、その際にも「亡命チベット政権は、チベット人が中国憲法の枠内で実質的な自治を達成できるよう、努力している」旨述べている。 (2012,03.26.)(Copy Right Reserved.)
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ブッダ誕生の聖地を読む (その1)

2012-04-27 | Weblog
ブッダ誕生の聖地を読む (その1)
 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月10日前後に誕生祭が行われている。
 1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
 確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
 その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであるコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教えの背景の一つとなっているようだ。
 そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化へ幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」(出版元 東京図書出版会026-673-8051又03-3823-9171)がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む (その2に掲載)
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