内外政策評論 TheOpinion on Global & Domestic Issues

このブログは、広い視野から内外諸問題を分析し、提言を試みます。
Policy Essayist

総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

2013-11-26 | Weblog

総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

 総務省統計局は、9月17日、65歳以上の「高齢者」が3000万人を超え、総人口の24.1%となり、過去最高となった旨公表した。

 従来の年齢基準での統計数値としては正しいのだろうし、1990年代より確実に進む高齢化、長寿化の傾向の中では不思議はない。しかし、65才以上になると「高齢者」、或いはお年寄りや老人と言われるのは国民の実感とはかけ離れている上、このように国民を年令により区別し、グループ化することに違和感を持つ人は少なくない。長寿化により「高齢者」の定義も変化しなくてはならない。男性にしても女性にしても、年令による身体的、精神的な状況には個人差があると共に、定年や年金受給年令に達する65歳になると制度上「高齢者」として区分され、社会への積極的な係わり合いから遠ざけ形となるので、疎外感を与えることにもなる。

 現在就労者数は約6,400万人であるので、就労者2人で「高齢者」1人を支える計算になる。長寿化が更に進めば、現在の統計基準では「高齢者」の比率がどんどん増加することになり、将来は就労者1人が「高齢者」1人を支える計算になりかねない。現在の統計基準では「高齢者」は65才以上で、‘定年退職’となり社会の生産活動から卒業し、その多くが年金生活者となる。いわば社会的な被扶養者となるが、就労者2人以下で「高齢者」1人を支えるような社会は、就労者、特に青年層にとっては負担感が重過ぎるので、誤解を与え易い統計基準と言えないだろうか。

 1、65才で老人扱いは早過ぎる

 欧米等では、年金対象年令近くになると退職し、トレーラーハウスで気楽に各地を旅して回りたいという人もいる。だが日本では65歳で退職、生産活動からの卒業となると、一つは所得が無くなることへの不安や不自由さを感じさせる一方、生きがいを求める人が多いようだ。平均寿命は、男性79.6才、女性86.4才、男女平均で約83才であるので、平均的に男性では退職後約15年間、女性では21年程の期間があり、その間「高齢者」として生産活動から卒業させられ、その多くが事実上就職の道を絶たれることになるので、社会との関係が疎遠になってしまうのが現実のようだ。1、2年程度は良いが、15年から20年間社会から遠ざけられ、所得の道を絶たれるのは長過ぎる。その上、65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とされる。しかし65才になったからといって人生これで終わりだと思っている人は少なく、多くの人は社会との関わり合いを望んでいる。65才になるとたそがれ人生になり、終活に明け暮れるのでは折角の経験が活かされない。

 特に日本は、国家公務員を含め終身雇用制を採っているので、学卒後多くの人が定年になるまで同じ会社、組織に属し、人生で最も長く会社、組織の同僚や上司や部下と接して来ているので、退職するとその接点が無くなるばかりか、65才定年制により、65才以上になると再就職なども事実上阻まれる結果となる。日本は、多くの場合学卒優先の終身雇用であり、公務員でも27才前後を新規採用の年齢制限とし、65才を定年とし、そして65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とするなど、年齢により国民を細かく分割し過ぎているように見える。それによるメリットもあるが、年令により国民を一律に細分化し、年令グループにより就職や社会保障等において制度的な差別化を図っている形となっている。

 特に国民に開かれていることが望ましい国家公務員や地方公務員について、新規採用年令を27才前後とする一方、独立行政法人など政府関係機関の役員への応募を原則65才以下とし、閣議で決めていることは、国民の行政への参加の機会を年齢で阻むものであり、望ましくない。

 人の年令には身体能力や意識の面で個人差があり、65才以上を一律に「高齢者」として仕分けし、生産活動から外すことは、多くの場合個々人の希望に沿わない。更に就労者2人、或いは将来は2人以下で「高齢者」1人を支えるような結果となる社会モデルは就労者、特に若い世代に過酷であり、統計基準としても画一的に過ぎると言えよう。65才以上の人を、一律にご高齢、老人と称するのも受け取る側にしてみるとまだまだやれるのにと思う人が多くなって来ているようだし、疎外感を与えているようでもある。

 そして70才から74才までを「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」と区分し、行政上医療費の自己負担比率を変えたり、自動車運転免許の取得、更新条件を変えたりしているが、能力、意識の上で個人差があるので余りにも一律過ぎると見られている。公務員の‘新卒採用’を27才前後でと年令制限することも合理性を欠く。また報道等においても、容疑者や犯罪者等の年令を表記するのは良いが、その家族や友人、関係者の年令を表記し、また女優タレント等の年令をその都度表記するのは、日本特有のことであり、多くの場合視聴者の関心でもないし、個人情報やプライバシーの観点から行き過ぎとも言える。映像や声で伝える場合は、視聴者が判断出来ることが多い。

 1990年代以降の日本の着実な長寿化により男女平均の寿命が現在約83才であることを考慮すると、外見上、或いは本人の意識の上で「高齢者」或いは老齢者と言って差し支えないのは、75才以上、将来的に長寿化が更に進む場合は80才としても良いのではないだろうか。75才以上の人口に占める比率は現在11%強、就労人口に占める比率は約22%であるので、国民が支えなくてはならない「高齢者」の比率としてはまだ高いが、容認出来る数値と言えよう。長寿化に伴って年令区分や意識が追い付いていないと言えそうだ。基本的には、日本社会が年令意識、年長者尊重意識(シニオリテイ・コンプレックス)が強いこともあって、年令により国民を区分し、行政上も区分化、制度化する傾向が強過ぎるのではなかろうか。

 このような観点から、65才以上については統計上“年長者”と総称し、所得の上でも体力や意識の上でも社会保障上の配慮が必要となる75才から80才以上を「高齢者」とする方が国民の実感に近いのではないだろうか。

 2、長寿化により必要な就職や社会保障面での年令区分の見直し      (その2に掲載)

(2013.11.19.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

2013-11-26 | Weblog

総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

 総務省統計局は、9月17日、65歳以上の「高齢者」が3000万人を超え、総人口の24.1%となり、過去最高となった旨公表した。

 従来の年齢基準での統計数値としては正しいのだろうし、1990年代より確実に進む高齢化、長寿化の傾向の中では不思議はない。しかし、65才以上になると「高齢者」、或いはお年寄りや老人と言われるのは国民の実感とはかけ離れている上、このように国民を年令により区別し、グループ化することに違和感を持つ人は少なくない。長寿化により「高齢者」の定義も変化しなくてはならない。男性にしても女性にしても、年令による身体的、精神的な状況には個人差があると共に、定年や年金受給年令に達する65歳になると制度上「高齢者」として区分され、社会への積極的な係わり合いから遠ざけ形となるので、疎外感を与えることにもなる。

 現在就労者数は約6,400万人であるので、就労者2人で「高齢者」1人を支える計算になる。長寿化が更に進めば、現在の統計基準では「高齢者」の比率がどんどん増加することになり、将来は就労者1人が「高齢者」1人を支える計算になりかねない。現在の統計基準では「高齢者」は65才以上で、‘定年退職’となり社会の生産活動から卒業し、その多くが年金生活者となる。いわば社会的な被扶養者となるが、就労者2人以下で「高齢者」1人を支えるような社会は、就労者、特に青年層にとっては負担感が重過ぎるので、誤解を与え易い統計基準と言えないだろうか。

 1、65才で老人扱いは早過ぎる

 欧米等では、年金対象年令近くになると退職し、トレーラーハウスで気楽に各地を旅して回りたいという人もいる。だが日本では65歳で退職、生産活動からの卒業となると、一つは所得が無くなることへの不安や不自由さを感じさせる一方、生きがいを求める人が多いようだ。平均寿命は、男性79.6才、女性86.4才、男女平均で約83才であるので、平均的に男性では退職後約15年間、女性では21年程の期間があり、その間「高齢者」として生産活動から卒業させられ、その多くが事実上就職の道を絶たれることになるので、社会との関係が疎遠になってしまうのが現実のようだ。1、2年程度は良いが、15年から20年間社会から遠ざけられ、所得の道を絶たれるのは長過ぎる。その上、65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とされる。しかし65才になったからといって人生これで終わりだと思っている人は少なく、多くの人は社会との関わり合いを望んでいる。65才になるとたそがれ人生になり、終活に明け暮れるのでは折角の経験が活かされない。

 特に日本は、国家公務員を含め終身雇用制を採っているので、学卒後多くの人が定年になるまで同じ会社、組織に属し、人生で最も長く会社、組織の同僚や上司や部下と接して来ているので、退職するとその接点が無くなるばかりか、65才定年制により、65才以上になると再就職なども事実上阻まれる結果となる。日本は、多くの場合学卒優先の終身雇用であり、公務員でも27才前後を新規採用の年齢制限とし、65才を定年とし、そして65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とするなど、年齢により国民を細かく分割し過ぎているように見える。それによるメリットもあるが、年令により国民を一律に細分化し、年令グループにより就職や社会保障等において制度的な差別化を図っている形となっている。

 特に国民に開かれていることが望ましい国家公務員や地方公務員について、新規採用年令を27才前後とする一方、独立行政法人など政府関係機関の役員への応募を原則65才以下とし、閣議で決めていることは、国民の行政への参加の機会を年齢で阻むものであり、望ましくない。

 人の年令には身体能力や意識の面で個人差があり、65才以上を一律に「高齢者」として仕分けし、生産活動から外すことは、多くの場合個々人の希望に沿わない。更に就労者2人、或いは将来は2人以下で「高齢者」1人を支えるような結果となる社会モデルは就労者、特に若い世代に過酷であり、統計基準としても画一的に過ぎると言えよう。65才以上の人を、一律にご高齢、老人と称するのも受け取る側にしてみるとまだまだやれるのにと思う人が多くなって来ているようだし、疎外感を与えているようでもある。

 そして70才から74才までを「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」と区分し、行政上医療費の自己負担比率を変えたり、自動車運転免許の取得、更新条件を変えたりしているが、能力、意識の上で個人差があるので余りにも一律過ぎると見られている。公務員の‘新卒採用’を27才前後でと年令制限することも合理性を欠く。また報道等においても、容疑者や犯罪者等の年令を表記するのは良いが、その家族や友人、関係者の年令を表記し、また女優タレント等の年令をその都度表記するのは、日本特有のことであり、多くの場合視聴者の関心でもないし、個人情報やプライバシーの観点から行き過ぎとも言える。映像や声で伝える場合は、視聴者が判断出来ることが多い。

 1990年代以降の日本の着実な長寿化により男女平均の寿命が現在約83才であることを考慮すると、外見上、或いは本人の意識の上で「高齢者」或いは老齢者と言って差し支えないのは、75才以上、将来的に長寿化が更に進む場合は80才としても良いのではないだろうか。75才以上の人口に占める比率は現在11%強、就労人口に占める比率は約22%であるので、国民が支えなくてはならない「高齢者」の比率としてはまだ高いが、容認出来る数値と言えよう。長寿化に伴って年令区分や意識が追い付いていないと言えそうだ。基本的には、日本社会が年令意識、年長者尊重意識(シニオリテイ・コンプレックス)が強いこともあって、年令により国民を区分し、行政上も区分化、制度化する傾向が強過ぎるのではなかろうか。

 このような観点から、65才以上については統計上“年長者”と総称し、所得の上でも体力や意識の上でも社会保障上の配慮が必要となる75才から80才以上を「高齢者」とする方が国民の実感に近いのではないだろうか。

 2、長寿化により必要な就職や社会保障面での年令区分の見直し      (その2に掲載)

(2013.11.19.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

2013-11-26 | Weblog

 総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

 総務省統計局は、9月17日、65歳以上の「高齢者」が3000万人を超え、総人口の24.1%となり、過去最高となった旨公表した。

 従来の年齢基準での統計数値としては正しいのだろうし、1990年代より確実に進む高齢化、長寿化の傾向の中では不思議はない。しかし、65才以上になると「高齢者」、或いはお年寄りや老人と言われるのは国民の実感とはかけ離れている上、このように国民を年令により区別し、グループ化することに違和感を持つ人は少なくない。長寿化により「高齢者」の定義も変化しなくてはならない。男性にしても女性にしても、年令による身体的、精神的な状況には個人差があると共に、定年や年金受給年令に達する65歳になると制度上「高齢者」として区分され、社会への積極的な係わり合いから遠ざけ形となるので、疎外感を与えることにもなる。

 現在就労者数は約6,400万人であるので、就労者2人で「高齢者」1人を支える計算になる。長寿化が更に進めば、現在の統計基準では「高齢者」の比率がどんどん増加することになり、将来は就労者1人が「高齢者」1人を支える計算になりかねない。現在の統計基準では「高齢者」は65才以上で、‘定年退職’となり社会の生産活動から卒業し、その多くが年金生活者となる。いわば社会的な被扶養者となるが、就労者2人以下で「高齢者」1人を支えるような社会は、就労者、特に青年層にとっては負担感が重過ぎるので、誤解を与え易い統計基準と言えないだろうか。

 1、65才で老人扱いは早過ぎる

 欧米等では、年金対象年令近くになると退職し、トレーラーハウスで気楽に各地を旅して回りたいという人もいる。だが日本では65歳で退職、生産活動からの卒業となると、一つは所得が無くなることへの不安や不自由さを感じさせる一方、生きがいを求める人が多いようだ。平均寿命は、男性79.6才、女性86.4才、男女平均で約83才であるので、平均的に男性では退職後約15年間、女性では21年程の期間があり、その間「高齢者」として生産活動から卒業させられ、その多くが事実上就職の道を絶たれることになるので、社会との関係が疎遠になってしまうのが現実のようだ。1、2年程度は良いが、15年から20年間社会から遠ざけられ、所得の道を絶たれるのは長過ぎる。その上、65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とされる。しかし65才になったからといって人生これで終わりだと思っている人は少なく、多くの人は社会との関わり合いを望んでいる。65才になるとたそがれ人生になり、終活に明け暮れるのでは折角の経験が活かされない。

 特に日本は、国家公務員を含め終身雇用制を採っているので、学卒後多くの人が定年になるまで同じ会社、組織に属し、人生で最も長く会社、組織の同僚や上司や部下と接して来ているので、退職するとその接点が無くなるばかりか、65才定年制により、65才以上になると再就職なども事実上阻まれる結果となる。日本は、多くの場合学卒優先の終身雇用であり、公務員でも27才前後を新規採用の年齢制限とし、65才を定年とし、そして65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とするなど、年齢により国民を細かく分割し過ぎているように見える。それによるメリットもあるが、年令により国民を一律に細分化し、年令グループにより就職や社会保障等において制度的な差別化を図っている形となっている。

 特に国民に開かれていることが望ましい国家公務員や地方公務員について、新規採用年令を27才前後とする一方、独立行政法人など政府関係機関の役員への応募を原則65才以下とし、閣議で決めていることは、国民の行政への参加の機会を年齢で阻むものであり、望ましくない。

 人の年令には身体能力や意識の面で個人差があり、65才以上を一律に「高齢者」として仕分けし、生産活動から外すことは、多くの場合個々人の希望に沿わない。更に就労者2人、或いは将来は2人以下で「高齢者」1人を支えるような結果となる社会モデルは就労者、特に若い世代に過酷であり、統計基準としても画一的に過ぎると言えよう。65才以上の人を、一律にご高齢、老人と称するのも受け取る側にしてみるとまだまだやれるのにと思う人が多くなって来ているようだし、疎外感を与えているようでもある。

 そして70才から74才までを「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」と区分し、行政上医療費の自己負担比率を変えたり、自動車運転免許の取得、更新条件を変えたりしているが、能力、意識の上で個人差があるので余りにも一律過ぎると見られている。公務員の‘新卒採用’を27才前後でと年令制限することも合理性を欠く。また報道等においても、容疑者や犯罪者等の年令を表記するのは良いが、その家族や友人、関係者の年令を表記し、また女優タレント等の年令をその都度表記するのは、日本特有のことであり、多くの場合視聴者の関心でもないし、個人情報やプライバシーの観点から行き過ぎとも言える。映像や声で伝える場合は、視聴者が判断出来ることが多い。

 1990年代以降の日本の着実な長寿化により男女平均の寿命が現在約83才であることを考慮すると、外見上、或いは本人の意識の上で「高齢者」或いは老齢者と言って差し支えないのは、75才以上、将来的に長寿化が更に進む場合は80才としても良いのではないだろうか。75才以上の人口に占める比率は現在11%強、就労人口に占める比率は約22%であるので、国民が支えなくてはならない「高齢者」の比率としてはまだ高いが、容認出来る数値と言えよう。長寿化に伴って年令区分や意識が追い付いていないと言えそうだ。基本的には、日本社会が年令意識、年長者尊重意識(シニオリテイ・コンプレックス)が強いこともあって、年令により国民を区分し、行政上も区分化、制度化する傾向が強過ぎるのではなかろうか。

 このような観点から、65才以上については統計上“年長者”と総称し、所得の上でも体力や意識の上でも社会保障上の配慮が必要となる75才から80才以上を「高齢者」とする方が国民の実感に近いのではないだろうか。

 2、長寿化により必要な就職や社会保障面での年令区分の見直し      (その2に掲載)

(2013.11.19.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球温暖化ー融ける氷海、氷河と荒れる気候変動は止められるか

2013-11-26 | Weblog

地球温暖化ー融ける氷海、氷河と荒れる気候変動は止められるか

 環境省は、日本の温室効果ガスの削減目標を、2020年度までに2005年度比で3.8%減とする方針であり、11月11日からポーランドで開催される国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP19)で表明する旨報じられている。

 温室効果ガスの削減目標については、民主党政権が2020年度までに“1990年度比で25%削減”との目標を提示し、国連総会でも表明している。今回の目標は、基準年を2005年としているが、1990年度比で換算すると逆に約3%増となるとされており、後退感が否めない。政府当局は、‘原子力発電が再稼働されれば高い目標に修正する’としている趣であるが、果たして原子力発電頼みで良いのであろうか。

 温暖化の速度、原因などについては議論が分かれている。スイスを本拠とする民間団体「世界自然保護基金」(WWF)は、2013年から40年までに、北極圏の氷は夏期には全て消えるとの報告を出している。国連の「気候変動に関する政府間パネル」が出した07年の第4次評価報告書でも、“ヒマラヤの氷河は2035年までに解けてなくなる可能性が強い”と指摘している。同グループはゴア米元副大統領と共にノーベル賞を受賞したが、氷河学者より300mもの厚さの氷河がそんなに早くは融けないとの疑問が呈され、同グループがそれを認めるなど、信憑性が疑われている。地球がミニ氷河期に入っているとの説もある。

 どの説を取るかは別として、着実に進んでいる事実がある。北極海の氷原が夏期に融けて縮小していることだ。衛星写真でも、08年においては6月末頃までは陸地まで氷海で覆われていたが、8月20日頃前後から氷海は陸地を離れ、海路が開け、砕氷船を使用すれば年間5ヶ月内外は航行可能となる。その期間は毎年伸びている。8月中旬には2-3週間程度砕氷船無しでも航行可能のようだ。6、7年前には、氷海が最も小さくなる8月下旬でも氷海は陸まで張り出ていた。

 これは今起きている現実である。短期的には夏の一定期間航行が可能になり、商業航路や観光、北極圏開発のビジネスチャンスが広がる。

 他方それは温暖化への警告でもある。北極の氷海縮小は、気流や海流による冷却効果を失わせ、地球温暖化を早め、海流や気流が激変し気候変動を激化させる恐れがある。氷海が融ければ白熊や微生物などの希少生物も死滅して行く。取り戻すことは出来ない。北極圏の環境悪化は、米、露など沿岸5か国のみの問題では無く、この地球の運命にも影響を与えている。

 現在、日本はもとより世界各地で気流や海流の動きや温度がこれまでのパターンでは予測できない荒々しい動きを示しており、局地的な豪雨や突風・竜巻、日照りや干ばつ、豪雪や吹雪などにより従来の想定を越えた被害を出している。それが世界各地で今起こっている。地球環境は、近年経験したことがない局面に入っていると言えよう。

 同時に忘れてはならないのは、反対側の南極大陸でも氷河、氷原が急速に融けているという事実だ。またヒマラヤやアルプス、キリマンジェロ等の氷河も融け、後退しているので、これらの相乗効果を考慮しなくてはならない。

 北極圏も南極同様、人類の共通の資産と位置付け、大陸棚の領有権や「線引き」の凍結や北極圏の一定の範囲を世界遺産に指定するなど、国際的な保護が必要だ。

それ以上に、地球温暖化の進行や気候変動の激化を食い止め、地球環境を保護、改善する必要性に今一度目を向けることが緊要ではないだろうか。それはこの地球自体を人類共通の遺産として保全することを意味する。

 地球環境は、政府に委ねておけば良いというものではなく、家庭や産業自体が工夫、努力しなくては改善できない。比喩的に言うと、家庭で使用する電球を10個から7個にすれば日常生活にそれほど不自由することなく節電できる。企業やオフィスビルなどについても同様で、節電を図ればコスト削減にもなり、企業利益にもプラスとなる。レジ袋や必要以上の過剰な食物などを少なくして行けば生産エネルギーの節約となる。また日本が環境技術先進国と言うのであれば、自然エネルギーの組織的な開発、活用や節エネ技術の更なる開発などで温室効果ガスの削減にそれぞれの立場から努力、貢献することが出来るのではないだろうか。またそのような努力から、地球環境にもプラスとなる生活スタイルやビジネスチャンスが生まれることが期待される。 (2013.11.7.)(All Rights Reserved.)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地球温暖化ー融ける氷海、氷河と荒れる気候変動は止められるか

2013-11-26 | Weblog

地球温暖化ー融ける氷海、氷河と荒れる気候変動は止められるか

 環境省は、日本の温室効果ガスの削減目標を、2020年度までに2005年度比で3.8%減とする方針であり、11月11日からポーランドで開催される国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP19)で表明する旨報じられている。

 温室効果ガスの削減目標については、民主党政権が2020年度までに“1990年度比で25%削減”との目標を提示し、国連総会でも表明している。今回の目標は、基準年を2005年としているが、1990年度比で換算すると逆に約3%増となるとされており、後退感が否めない。政府当局は、‘原子力発電が再稼働されれば高い目標に修正する’としている趣であるが、果たして原子力発電頼みで良いのであろうか。

 温暖化の速度、原因などについては議論が分かれている。スイスを本拠とする民間団体「世界自然保護基金」(WWF)は、2013年から40年までに、北極圏の氷は夏期には全て消えるとの報告を出している。国連の「気候変動に関する政府間パネル」が出した07年の第4次評価報告書でも、“ヒマラヤの氷河は2035年までに解けてなくなる可能性が強い”と指摘している。同グループはゴア米元副大統領と共にノーベル賞を受賞したが、氷河学者より300mもの厚さの氷河がそんなに早くは融けないとの疑問が呈され、同グループがそれを認めるなど、信憑性が疑われている。地球がミニ氷河期に入っているとの説もある。

 どの説を取るかは別として、着実に進んでいる事実がある。北極海の氷原が夏期に融けて縮小していることだ。衛星写真でも、08年においては6月末頃までは陸地まで氷海で覆われていたが、8月20日頃前後から氷海は陸地を離れ、海路が開け、砕氷船を使用すれば年間5ヶ月内外は航行可能となる。その期間は毎年伸びている。8月中旬には2-3週間程度砕氷船無しでも航行可能のようだ。6、7年前には、氷海が最も小さくなる8月下旬でも氷海は陸まで張り出ていた。

 これは今起きている現実である。短期的には夏の一定期間航行が可能になり、商業航路や観光、北極圏開発のビジネスチャンスが広がる。

 他方それは温暖化への警告でもある。北極の氷海縮小は、気流や海流による冷却効果を失わせ、地球温暖化を早め、海流や気流が激変し気候変動を激化させる恐れがある。氷海が融ければ白熊や微生物などの希少生物も死滅して行く。取り戻すことは出来ない。北極圏の環境悪化は、米、露など沿岸5か国のみの問題では無く、この地球の運命にも影響を与えている。

 現在、日本はもとより世界各地で気流や海流の動きや温度がこれまでのパターンでは予測できない荒々しい動きを示しており、局地的な豪雨や突風・竜巻、日照りや干ばつ、豪雪や吹雪などにより従来の想定を越えた被害を出している。それが世界各地で今起こっている。地球環境は、近年経験したことがない局面に入っていると言えよう。

 同時に忘れてはならないのは、反対側の南極大陸でも氷河、氷原が急速に融けているという事実だ。またヒマラヤやアルプス、キリマンジェロ等の氷河も融け、後退しているので、これらの相乗効果を考慮しなくてはならない。

 北極圏も南極同様、人類の共通の資産と位置付け、大陸棚の領有権や「線引き」の凍結や北極圏の一定の範囲を世界遺産に指定するなど、国際的な保護が必要だ。

それ以上に、地球温暖化の進行や気候変動の激化を食い止め、地球環境を保護、改善する必要性に今一度目を向けることが緊要ではないだろうか。それはこの地球自体を人類共通の遺産として保全することを意味する。

 地球環境は、政府に委ねておけば良いというものではなく、家庭や産業自体が工夫、努力しなくては改善できない。比喩的に言うと、家庭で使用する電球を10個から7個にすれば日常生活にそれほど不自由することなく節電できる。企業やオフィスビルなどについても同様で、節電を図ればコスト削減にもなり、企業利益にもプラスとなる。レジ袋や必要以上の過剰な食物などを少なくして行けば生産エネルギーの節約となる。また日本が環境技術先進国と言うのであれば、自然エネルギーの組織的な開発、活用や節エネ技術の更なる開発などで温室効果ガスの削減にそれぞれの立場から努力、貢献することが出来るのではないだろうか。またそのような努力から、地球環境にもプラスとなる生活スタイルやビジネスチャンスが生まれることが期待される。 (2013.11.7.)(All Rights Reserved.)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学の世界ランキング・アップに何が必要か?  (その5)

2013-11-26 | Weblog

大学の世界ランキング・アップに何が必要か?   (その5)

 2014年度予算の各省庁要求を政府概算要求を査定する時期になったが、文部科学省は、世界大学ランキング100校入りを支援するために、国公私立の10大学に対し毎年100億円の助成を予算要求すると伝えられている。

 現在、世界大学ランキング100校には日本の国立大学が2校入っているだけであり、一人当たりのGDPを加味すると実質的に世界第2位の経済大国である日本にとっては少し寂しいところだ。ランキング・アップには指導環境など色々な要素が必要だが、各大学の学者、研究者が“独創的な研究を行い、研究論文が内外の研究者などから引用されること”が決定的な要素となる。要するに、各大学に所属する教授ほか研究者の「独創的な研究実績」と「語学力など、対外的な発信能力」が問われていることになる。

 文科省は、10校を選定し、海外の大学との共同研究や著名な研究者の招聘を支援するなどしている。これのような研究交流や人的交流自体は良いことではあるが、新たに毎年100億円もの予算を投入して相当長期を掛けてもどの程度の効果が出るか疑問である。そもそも教育のあり方の転換や教師、研究者の資質や姿勢など、大学院の普及などの制度面、人材面の改善、即ち教育ソフト面の転換がより重要に思える。

 1、 外国大学との共同研究や研究者招聘の効果は局部的、限界的           (その1で掲載)

 2、 最も必要とされる研究成果の英語等による発表能力                    (その2で掲載)       

 3、創造性、独創性を重視した教育・入試制度など、意識と制度の転換が不可欠   (その3で掲載)     

 4、 発想力、創造性を加味した就職試験の拡大の必要性                 (その4で掲載)           

 5、 大学院レベルの高等教育の普及と修士・博士号取得者への公正な処遇   

 日本は“学歴主義”と言われることがあるが、実際は、国家公務員等を含め採用が新規卒業者を対象に行われるので、どうしても出身校が差になると共に、いわゆる“終身雇用”形態となっているため、大学院への進学率は、欧米先進工業国等に比して非常に低いのが現状だ。

 人口千人当たりの大学院学生数では、日本の2人に対し、米国9人、英、仏の各8人、韓国が6人となっている(資料:教育指標の国際比較平成23年版)。また25歳以上の大学院入学者は、諸外国では平均2割程度に達するが、日本では2%以下であり、大学院への社会人入学者が非常に少ない。これを反映して、日本の大学院の規模は諸外国に比して小さく、“高度人材を育成する基盤が弱い”と見られている(経済産業省研究資料)。

 また日本の企業役員等(従業員500人以上)の最終学歴では、米国の上場企業管理職等に占める大学院修了者の比率は、人事部長クラスで約62%、営業、経理部長クラスで約45%であるのに対し、日本の大学院卒の比率は5.9%と極端に低い(経済産業省研究資料)。米国では、高校の校長になるためには修士号取得が必要なことが多い。また国連など、国際公務員の幹部クラスは修士号、博士号取得者が多いが、日本の国家公務員の政策職の幹部には大学院修了者はほとんどいない。日本では博士課程修了者の就職率も6割前後に留まっている。上記の通り主要諸国では大学院修了者への評価は高いが、日本における新卒採用の偏重と大学院修了者の社会的進出の低さが、大学院の規模や大学院進学率の阻害要因になっていると言える。

 日本における高度人材の育成を図るため、大学院制度のあり方が課題と言えよう。

 日本は今後少子化と人口減、長寿化社会を迎える一方、グローバリゼーションの流れの中で、物、人、資金の自由化が更に進み、日本への海外資本による直接投資も増加することになるので、高度技術における国際競争力の維持、促進のみならず、日本国内において経営レベルでも国際競争に晒されることになると予想されるので、経営レベルを含め高度人材の育成が課題となると予想される。

このような内外の社会変化に対応して、大学・大学院での制度や教育のあり方を再点検する時期にあると言えよう。しかし上記の通り、大学・大学院での教育や研究は、企業や行政組織及び関係団体のニーズに影響を受けることになるので、社会全体の理解と協力を得つつそのレベル・アップを図って行くことが期待される。 (2013.9.28.) 

(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学の世界ランキング・アップに何が必要か?  (その4)

2013-11-26 | Weblog

大学の世界ランキング・アップに何が必要か?   (その4)

 2014年度予算の各省庁要求を政府概算要求を査定する時期になったが、文部科学省は、世界大学ランキング100校入りを支援するために、国公私立の10大学に対し毎年100億円の助成を予算要求すると伝えられている。

 現在、世界大学ランキング100校には日本の国立大学が2校入っているだけであり、一人当たりのGDPを加味すると実質的に世界第2位の経済大国である日本にとっては少し寂しいところだ。ランキング・アップには指導環境など色々な要素が必要だが、各大学の学者、研究者が“独創的な研究を行い、研究論文が内外の研究者などから引用されること”が決定的な要素となる。要するに、各大学に所属する教授ほか研究者の「独創的な研究実績」と「語学力など、対外的な発信能力」が問われていることになる。

 文科省は、10校を選定し、海外の大学との共同研究や著名な研究者の招聘を支援するなどしている。これのような研究交流や人的交流自体は良いことではあるが、新たに毎年100億円もの予算を投入して相当長期を掛けてもどの程度の効果が出るか疑問である。そもそも教育のあり方の転換や教師、研究者の資質や姿勢など、大学院の普及などの制度面、人材面の改善、即ち教育ソフト面の転換がより重要に思える。

 1、 外国大学との共同研究や研究者招聘の効果は局部的、限界的           (その1で掲載)

 2、 最も必要とされる研究成果の英語等による発表能力                    (その2で掲載)       

 3、創造性、独創性を重視した教育・入試制度など、意識と制度の転換が不可欠   (その3で掲載)     

 4、 発想力、創造性を加味した就職試験の拡大の必要性                 

 中学、高校、大学等への進学は、最終的には公務員採用試験を含め、就職への有利性が考慮されるので、就職、採用試験が暗記、記憶力に重点が置かれている限り、学校教育でも暗記、記憶力に重点が置かれることになる。確かに学生が教師と黒板に向かい合う対峙型となり、学生はそれを記録し、記憶するという教育方式が中心となっている。

 それはそれとして良いのだが、もっと小グループで学生と教師の質疑、意見交換、小論文作成等により、双方交通の授業方式を促進し、学生の個々人の個性引き出し、表現できる授業形態が増えることが望ましい。それにより現在欠けていると見られている議論する能力やコミュニケーション能力も向上するものと期待される。

 そのためには採用、就職試験でも暗記、記憶力、応用力に加え、発想力や創造力、独創性を評価することが望まれる。それを短時間で採点することは難しいので、学校側の評価を取り入れることが現実的であろう。

 5、 大学院レベルの高等教育の普及と修士・博士号取得者への公正な処遇     (その5に掲載)

(2013.9.28.) (All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学の世界ランキング・アップに何が必要か?  (その3)

2013-11-26 | Weblog

大学の世界ランキング・アップに何が必要か?   (その3)

 2014年度予算の各省庁要求を政府概算要求を査定する時期になったが、文部科学省は、世界大学ランキング100校入りを支援するために、国公私立の10大学に対し毎年100億円の助成を予算要求すると伝えられている。

 現在、世界大学ランキング100校には日本の国立大学が2校入っているだけであり、一人当たりのGDPを加味すると実質的に世界第2位の経済大国である日本にとっては少し寂しいところだ。ランキング・アップには指導環境など色々な要素が必要だが、各大学の学者、研究者が“独創的な研究を行い、研究論文が内外の研究者などから引用されること”が決定的な要素となる。要するに、各大学に所属する教授ほか研究者の「独創的な研究実績」と「語学力など、対外的な発信能力」が問われていることになる。

 文科省は、10校を選定し、海外の大学との共同研究や著名な研究者の招聘を支援するなどしている。これのような研究交流や人的交流自体は良いことではあるが、新たに毎年100億円もの予算を投入して相当長期を掛けてもどの程度の効果が出るか疑問である。そもそも教育のあり方の転換や教師、研究者の資質や姿勢など、大学院の普及などの制度面、人材面の改善、即ち教育ソフト面の転換がより重要に思える。

 1、 外国大学との共同研究や研究者招聘の効果は局部的、限界的         (その1で掲載)

 2、 最も必要とされる研究成果の英語等による発表能力                  (その2で掲載)       

 3、創造性、独創性を重視した教育・入試制度など、意識と制度の転換が不可欠  

 海外への外国語での研究成果の発信力向上に加え、研究成果の創造性、独創性が求められることは言うまでもない。日本の教育方針や制度、試験制度は、卒業後の公務員・企業の就職試験に至るまで基本的に一貫して記憶力、暗記力に重点を置いている。“応用問題”も採用されてはいるが、これも既存知識や研究の“応用”であり、発想力や創造性、独創性を涵養するものではない。

 教える側も、既存の知識や理論等を教え与えることが主眼となっている。無論基本的な知識を蓄積することは重要ではあるが、米欧等においては、研究者や学者が研究論文を可なり頻繁に出さないとポジションを維持することが困難になるので、理工系や医学系に限らず、社会科学、人文科学系においても独創的な研究論文の発表に常に努力している。日本の場合、詰め込み授業に追われることが多く、また基本的に年功序列の昇進となるので研究成果を出す必要が必ずしもない上、自発的な留学のための休暇・休職なども取り難く、また一定年数勤務後の研究休暇(サバテイカル休暇)なども普及していない。

 従って日本の大学が国際的に高い評価を得るためには、教育姿勢や教育方針・制度など、教育ソフト面の改善、転換が不可欠と言える。

 4、 発想力、創造性を加味した就職試験の拡大の必要性                 (その4に掲載)

 5、 大学院レベルの高等教育の普及と修士・博士号取得者への公正な処遇     (その5に掲載)

(2013.9.28.) (All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学の世界ランキング・アップに何が必要か?  (その2)

2013-11-26 | Weblog

大学の世界ランキング・アップに何が必要か?   (その2)

 2014年度予算の各省庁要求を政府概算要求を査定する時期になったが、文部科学省は、世界大学ランキング100校入りを支援するために、国公私立の10大学に対し毎年100億円の助成を予算要求すると伝えられている。

 現在、世界大学ランキング100校には日本の国立大学が2校入っているだけであり、一人当たりのGDPを加味すると実質的に世界第2位の経済大国である日本にとっては少し寂しいところだ。ランキング・アップには指導環境など色々な要素が必要だが、各大学の学者、研究者が“独創的な研究を行い、研究論文が内外の研究者などから引用されること”が決定的な要素となる。要するに、各大学に所属する教授ほか研究者の「独創的な研究実績」と「語学力など、対外的な発信能力」が問われていることになる。

 文科省は、10校を選定し、海外の大学との共同研究や著名な研究者の招聘を支援するなどしている。これのような研究交流や人的交流自体は良いことではあるが、新たに毎年100億円もの予算を投入して相当長期を掛けてもどの程度の効果が出るか疑問である。そもそも教育のあり方の転換や教師、研究者の資質や姿勢など、大学院の普及などの制度面、人材面の改善、即ち教育ソフト面の転換がより重要に思える。

 1、 外国大学との共同研究や研究者招聘の効果は局部的、限界的    (その1で掲載)

 2、 最も必要とされる研究成果の英語等による発表能力               

 知的活動の分野において、日本の研究成果や論文等が世界の多くの学者、研究者によって評価、引用されるようになるためには、創造性、独創性を重視した教育姿勢、試験(評価)制度と入学試験や公務員を含む就職試験のあり方(新卒者偏重、出身大学主義の採用試験制度など)と大学院レベルへの高等教育の普及と修了者への処遇の改善など、教育姿勢や教育・採用試験制度という教育ソフト面の改善が不可欠と言えよう。

しかし現実論として学者、研究者による研究成果が国際的に評価されるためには、研究成果が国際的な外国語(英語で可)による成果の発表が不可欠である。どんなに良い研究成果や作品でも日本語だけでは国際的に評価されない。外国と国境を接していない日本では外国語に接する機会は少ないので、当面英語での研究成果の発表を日常化することが望まれる。理工系や医学分野等では研究成果の英語等による発表はある程度行われているが、社会科学や人文科学分野では余り行われてない。

そのためには、学生や学者、研究者等の2年以上の主要国への留学を飛躍的に増加させることが最も効果的であろう。学生、研究者等の海外留学を促進するため、例えば海外留学(高校・専門レベルで1年、大学・大学院レベルで2年など)での取得単位を国内単位としての認定を促進することと、海外留学奨学金(原則無利子、成績優秀者等には無償など)を新設、拡充することが望まれる。その上で海外からの留学生、研究者の受け入れを促進することが、日本の研究成果の海外への発信力を高める早道と言えよう。

 もっとも日本の英語教育は、中学、高校の6年間に必修科目として行われているが、海外に行って、日本で6年間英語を習っていて英語がしゃべれないと言うと、信じられないというような顔をされる。英語を「語学」という学問の範疇で教え、試験科目にしていることが、コミュニケーション手段としての言葉なることを妨げているようだ。子供が言葉を反復しながら覚えるように、まず英語を耳で聞き、口でしゃべるようにして行き、必要に応じ高学年になってスペリングや文法などへと高めて行けば良いことであろう。外国語を世界とのコミュニケーション手段として行く上では、試験なども「語学」試験としての必須科目とはせず、生きたコミュニケーション手段として選択科目にするなどの改善が必要のようだ。

 3、創造性、独創性を重視した教育・入試制度など、意識と制度の転換が不可欠  (その3に掲載)

 4、 発想力、創造性を加味した就職試験の拡大の必要性                 (その4に掲載)

 5、 大学院レベルの高等教育の普及と修士・博士号取得者への公正な処遇     (その5に掲載)

(2013.9.28.) (All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大学の世界ランキング・アップに何が必要か?  (その1)

2013-11-26 | Weblog

大学の世界ランキング・アップに何が必要か?   (その1)

 2014年度予算の各省庁要求を政府概算要求を査定する時期になったが、文部科学省は、世界大学ランキング100校入りを支援するために、国公私立の10大学に対し毎年100億円の助成を予算要求すると伝えられている。

 現在、世界大学ランキング100校には日本の国立大学が2校入っているだけであり、一人当たりのGDPを加味すると実質的に世界第2位の経済大国である日本にとっては少し寂しいところだ。ランキング・アップには指導環境など色々な要素が必要だが、各大学の学者、研究者が“独創的な研究を行い、研究論文が内外の研究者などから引用されること”が決定的な要素となる。要するに、各大学に所属する教授ほか研究者の「独創的な研究実績」と「語学力など、対外的な発信能力」が問われていることになる。

 文科省は、10校を選定し、海外の大学との共同研究や著名な研究者の招聘を支援するなどしている。これのような研究交流や人的交流自体は良いことではあるが、新たに毎年100億円もの予算を投入して相当長期を掛けてもどの程度の効果が出るか疑問である。そもそも教育のあり方の転換や教師、研究者の資質や姿勢など、大学院の普及などの制度面、人材面の改善、即ち教育ソフト面の転換がより重要に思える。

 1、 外国大学との共同研究や研究者招聘の効果は局部的、限界的

 外国の共同研究や著名研究者の日本への招聘については、各大学の判断で実施することは大いに良いことであるが、今更という印象を受ける上、その効果は長期を要し、例えば10年間としても1,000億円の予算負担となり、費用対効果の面で疑問が残る。

 外国大学との共同研究でも、iPS細胞分野など日本側に何らかの比較優位のある分野でなければ、各分野で先端を行っているような外国人研究者は日本との共同研究は希望しないであろう。著名な外国人研究者の招聘にしても高額の招聘費が必要となろうし、日本での研究にメリットを感じなければ希望しないであろう。いずれの場合も、日本側に相当高度な研究水準と語学力がなければ得るものは少ないと判断されるであろう。

 招聘事業で一つの例を挙げよう。日本は、1985年9月のプラザ合意で急速な円高を容認し、それにより日本企業の海外進出が急増した。それに伴い海外で活動できる人材や知識等が必要となり、日本の「国際化」が必要とされた。その対策の1つとして90年代初頭より、政府は「語学指導等を行う外国青年招致事業」(JETプログラム)を開始し、当初は米国を中心とする英語圏から青年を招聘し、地方公共団体と共同して各地の学校等に英語教師として配属し、英語教育の普及を行った。その後英語圏以外も加えたほか、役割も地方公共団体の国際交流促進のための助言等の分野に広げ、当初の4カ国から40カ国ほどに拡大し招聘している。この事業は既に20年以上実施しているので、日本各地において外国語を習得し、或いは地方レベルでの国際交流を担える人材が可なり育っていることが期待される。確かに一定の効果はあったが、最大の効果は、日本に招聘された外国人の日本語能力が顕著に向上している上、各地の伝統文化だけでなく、アニメを含む若者文化や日本食、工芸品、匠の技などへの理解と評価も向上し、それが世界各地に伝えられ、日本の伝統文化、技術の水準の高さと共に、現代の庶民文化、若者文化への興味が世界に広がったことであろう。知日派、好日派外国人が増え、日本各地の草の根文化や工芸技術への評価が顕著に高まったが、本事業の本来の目的である日本での英語の普及や能力向上については、20年以上継続しているにも拘らず、それ程の効果は得られていない面がある。逆にこの制度が恒常化したことにより、地域の国際交流や外国人との関係についてはJETで招聘された外国人に実体上任され、JETへの依存性が高まり、地域住民自体の語学力向上や国際化には余り寄与していないとの弊害も見られる。

 外国大学との共同研究や研究者の日本への招聘事業が長期化することになると、JETプログラムと類似の結果となり、日本の学術研究のレベルや創造性、独創性を高め、それが世界に評価、引用されることにどれだけ貢献することになるのか疑問なしとしない。

 また新たな事業予算の追加も良いが、中・長期的な少子化の趨勢に対応し、教育姿勢と共に、国・公立学校を地域別に統廃合し、また国・公立と私立との学費格差や研究助成格差等を縮小することなど、高等教育制度自体を再点検する必要がありそうだ。また暗記重視の教育方針、試験制度から発想力や創造性、独創性を重視した教育姿勢や試験(評価)制度に優先度と資源の再配分を行い、その中で新たなニーズ、事業を加えて行くなどの工夫と先見性が必要と言えよう。中・長期的な少子化、人口減の中での長寿化社会において、新規事業や学校・学部を増加し続け、教育予算を更に拡大することは現実的に困難と見られる。

 2、 最も必要とされる研究成果の英語等による発表能力                 (その2に掲載)

 3、創造性、独創性を重視した教育・入試制度など、意識と制度の転換が不可欠  (その3に掲載)

 4、 発想力、創造性を加味した就職試験の拡大の必要性                 (その4に掲載)

 5、 大学院レベルの高等教育の普及と修士・博士号取得者への公正な処遇     (その5に掲載)

(2013.9.28.) (All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シリーズー総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

2013-11-25 | Weblog

シリーズー総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

 総務省統計局は、9月17日、65歳以上の「高齢者」が3000万人を超え、総人口の24.1%となり、過去最高となった旨公表した。

 従来の年齢基準での統計数値としては正しいのだろうし、1990年代より確実に進む高齢化、長寿化の傾向の中では不思議はない。しかし、65才以上になると「高齢者」、或いはお年寄りや老人と言われるのは国民の実感とはかけ離れている上、このように国民を年令により区別し、グループ化することに違和感を持つ人は少なくない。長寿化により「高齢者」の定義も変化しなくてはならない。男性にしても女性にしても、年令による身体的、精神的な状況には個人差があると共に、定年や年金受給年令に達する65歳になると制度上「高齢者」として区分され、社会への積極的な係わり合いから遠ざけ形となるので、疎外感を与えることにもなる。

 現在就労者数は約6,400万人であるので、就労者2人で「高齢者」1人を支える計算になる。長寿化が更に進めば、現在の統計基準では「高齢者」の比率がどんどん増加することになり、将来は就労者1人が「高齢者」1人を支える計算になりかねない。現在の統計基準では「高齢者」は65才以上で、‘定年退職’となり社会の生産活動から卒業し、その多くが年金生活者となる。いわば社会的な被扶養者となるが、就労者2人以下で「高齢者」1人を支えるような社会は、就労者、特に青年層にとっては負担感が重過ぎるので、誤解を与え易い統計基準と言えないだろうか。

 1、65才で老人扱いは早過ぎる

 欧米等では、年金対象年令近くになると退職し、トレーラーハウスで気楽に各地を旅して回りたいという人もいる。だが日本では65歳で退職、生産活動からの卒業となると、一つは所得が無くなることへの不安や不自由さを感じさせる一方、生きがいを求める人が多いようだ。平均寿命は、男性79.6才、女性86.4才、男女平均で約83才であるので、平均的に男性では退職後約15年間、女性では21年程の期間があり、その間「高齢者」として生産活動から卒業させられ、その多くが事実上就職の道を絶たれることになるので、社会との関係が疎遠になってしまうのが現実のようだ。1、2年程度は良いが、15年から20年間社会から遠ざけられ、所得の道を絶たれるのは長過ぎる。その上、65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とされる。しかし65才になったからといって人生これで終わりだと思っている人は少なく、多くの人は社会との関わり合いを望んでいる。65才になるとたそがれ人生になり、終活に明け暮れるのでは折角の経験が活かされない。

 特に日本は、国家公務員を含め終身雇用制を採っているので、学卒後多くの人が定年になるまで同じ会社、組織に属し、人生で最も長く会社、組織の同僚や上司や部下と接して来ているので、退職するとその接点が無くなるばかりか、65才定年制により、65才以上になると再就職なども事実上阻まれる結果となる。日本は、多くの場合学卒優先の終身雇用であり、公務員でも27才前後を新規採用の年齢制限とし、65才を定年とし、そして65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とするなど、年齢により国民を細かく分割し過ぎているように見える。それによるメリットもあるが、年令により国民を一律に細分化し、年令グループにより就職や社会保障等において制度的な差別化を図っている形となっている。

 特に国民に開かれていることが望ましい国家公務員や地方公務員について、新規採用年令を27才前後とする一方、独立行政法人など政府関係機関の役員への応募を原則65才以下とし、閣議で決めていることは、国民の行政への参加の機会を年齢で阻むものであり、望ましくない。

 人の年令には身体能力や意識の面で個人差があり、65才以上を一律に「高齢者」として仕分けし、生産活動から外すことは、多くの場合個々人の希望に沿わない。更に就労者2人、或いは将来は2人以下で「高齢者」1人を支えるような結果となる社会モデルは就労者、特に若い世代に過酷であり、統計基準としても画一的に過ぎると言えよう。65才以上の人を、一律にご高齢、老人と称するのも受け取る側にしてみるとまだまだやれるのにと思う人が多くなって来ているようだし、疎外感を与えているようでもある。

 そして70才から74才までを「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」と区分し、行政上医療費の自己負担比率を変えたり、自動車運転免許の取得、更新条件を変えたりしているが、能力、意識の上で個人差があるので余りにも一律過ぎると見られている。公務員の‘新卒採用’を27才前後でと年令制限することも合理性を欠く。また報道等においても、容疑者や犯罪者等の年令を表記するのは良いが、その家族や友人、関係者の年令を表記し、また女優タレント等の年令をその都度表記するのは、日本特有のことであり、多くの場合視聴者の関心でもないし、個人情報やプライバシーの観点から行き過ぎとも言える。映像や声で伝える場合は、視聴者が判断出来ることが多い。

 1990年代以降の日本の着実な長寿化により男女平均の寿命が現在約83才であることを考慮すると、外見上、或いは本人の意識の上で「高齢者」或いは老齢者と言って差し支えないのは、75才以上、将来的に長寿化が更に進む場合は80才としても良いのではないだろうか。75才以上の人口に占める比率は現在11%強、就労人口に占める比率は約22%であるので、国民が支えなくてはならない「高齢者」の比率としてはまだ高いが、容認出来る数値と言えよう。長寿化に伴って年令区分や意識が追い付いていないと言えそうだ。基本的には、日本社会が年令意識、年長者尊重意識(シニオリテイ・コンプレックス)が強いこともあって、年令により国民を区分し、行政上も区分化、制度化する傾向が強過ぎるのではなかろうか。

 このような観点から、65才以上については統計上“年長者”と総称し、所得の上でも体力や意識の上でも社会保障上の配慮が必要となる75才から80才以上を「高齢者」とする方が国民の実感に近いのではないだろうか。

 2、長寿化により必要な就職や社会保障面での年令区分の見直し      (その2に掲載)

(2013.11.19.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シリーズー総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

2013-11-25 | Weblog

シリーズー総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

 総務省統計局は、9月17日、65歳以上の「高齢者」が3000万人を超え、総人口の24.1%となり、過去最高となった旨公表した。

 従来の年齢基準での統計数値としては正しいのだろうし、1990年代より確実に進む高齢化、長寿化の傾向の中では不思議はない。しかし、65才以上になると「高齢者」、或いはお年寄りや老人と言われるのは国民の実感とはかけ離れている上、このように国民を年令により区別し、グループ化することに違和感を持つ人は少なくない。長寿化により「高齢者」の定義も変化しなくてはならない。男性にしても女性にしても、年令による身体的、精神的な状況には個人差があると共に、定年や年金受給年令に達する65歳になると制度上「高齢者」として区分され、社会への積極的な係わり合いから遠ざけ形となるので、疎外感を与えることにもなる。

 現在就労者数は約6,400万人であるので、就労者2人で「高齢者」1人を支える計算になる。長寿化が更に進めば、現在の統計基準では「高齢者」の比率がどんどん増加することになり、将来は就労者1人が「高齢者」1人を支える計算になりかねない。現在の統計基準では「高齢者」は65才以上で、‘定年退職’となり社会の生産活動から卒業し、その多くが年金生活者となる。いわば社会的な被扶養者となるが、就労者2人以下で「高齢者」1人を支えるような社会は、就労者、特に青年層にとっては負担感が重過ぎるので、誤解を与え易い統計基準と言えないだろうか。

 1、65才で老人扱いは早過ぎる

 欧米等では、年金対象年令近くになると退職し、トレーラーハウスで気楽に各地を旅して回りたいという人もいる。だが日本では65歳で退職、生産活動からの卒業となると、一つは所得が無くなることへの不安や不自由さを感じさせる一方、生きがいを求める人が多いようだ。平均寿命は、男性79.6才、女性86.4才、男女平均で約83才であるので、平均的に男性では退職後約15年間、女性では21年程の期間があり、その間「高齢者」として生産活動から卒業させられ、その多くが事実上就職の道を絶たれることになるので、社会との関係が疎遠になってしまうのが現実のようだ。1、2年程度は良いが、15年から20年間社会から遠ざけられ、所得の道を絶たれるのは長過ぎる。その上、65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とされる。しかし65才になったからといって人生これで終わりだと思っている人は少なく、多くの人は社会との関わり合いを望んでいる。65才になるとたそがれ人生になり、終活に明け暮れるのでは折角の経験が活かされない。

 特に日本は、国家公務員を含め終身雇用制を採っているので、学卒後多くの人が定年になるまで同じ会社、組織に属し、人生で最も長く会社、組織の同僚や上司や部下と接して来ているので、退職するとその接点が無くなるばかりか、65才定年制により、65才以上になると再就職なども事実上阻まれる結果となる。日本は、多くの場合学卒優先の終身雇用であり、公務員でも27才前後を新規採用の年齢制限とし、65才を定年とし、そして65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とするなど、年齢により国民を細かく分割し過ぎているように見える。それによるメリットもあるが、年令により国民を一律に細分化し、年令グループにより就職や社会保障等において制度的な差別化を図っている形となっている。

 特に国民に開かれていることが望ましい国家公務員や地方公務員について、新規採用年令を27才前後とする一方、独立行政法人など政府関係機関の役員への応募を原則65才以下とし、閣議で決めていることは、国民の行政への参加の機会を年齢で阻むものであり、望ましくない。

 人の年令には身体能力や意識の面で個人差があり、65才以上を一律に「高齢者」として仕分けし、生産活動から外すことは、多くの場合個々人の希望に沿わない。更に就労者2人、或いは将来は2人以下で「高齢者」1人を支えるような結果となる社会モデルは就労者、特に若い世代に過酷であり、統計基準としても画一的に過ぎると言えよう。65才以上の人を、一律にご高齢、老人と称するのも受け取る側にしてみるとまだまだやれるのにと思う人が多くなって来ているようだし、疎外感を与えているようでもある。

 そして70才から74才までを「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」と区分し、行政上医療費の自己負担比率を変えたり、自動車運転免許の取得、更新条件を変えたりしているが、能力、意識の上で個人差があるので余りにも一律過ぎると見られている。公務員の‘新卒採用’を27才前後でと年令制限することも合理性を欠く。また報道等においても、容疑者や犯罪者等の年令を表記するのは良いが、その家族や友人、関係者の年令を表記し、また女優タレント等の年令をその都度表記するのは、日本特有のことであり、多くの場合視聴者の関心でもないし、個人情報やプライバシーの観点から行き過ぎとも言える。映像や声で伝える場合は、視聴者が判断出来ることが多い。

 1990年代以降の日本の着実な長寿化により男女平均の寿命が現在約83才であることを考慮すると、外見上、或いは本人の意識の上で「高齢者」或いは老齢者と言って差し支えないのは、75才以上、将来的に長寿化が更に進む場合は80才としても良いのではないだろうか。75才以上の人口に占める比率は現在11%強、就労人口に占める比率は約22%であるので、国民が支えなくてはならない「高齢者」の比率としてはまだ高いが、容認出来る数値と言えよう。長寿化に伴って年令区分や意識が追い付いていないと言えそうだ。基本的には、日本社会が年令意識、年長者尊重意識(シニオリテイ・コンプレックス)が強いこともあって、年令により国民を区分し、行政上も区分化、制度化する傾向が強過ぎるのではなかろうか。

 このような観点から、65才以上については統計上“年長者”と総称し、所得の上でも体力や意識の上でも社会保障上の配慮が必要となる75才から80才以上を「高齢者」とする方が国民の実感に近いのではないだろうか。

 2、長寿化により必要な就職や社会保障面での年令区分の見直し      (その2に掲載)

(2013.11.19.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シリーズー総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

2013-11-25 | Weblog

シリーズー総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

 総務省統計局は、9月17日、65歳以上の「高齢者」が3000万人を超え、総人口の24.1%となり、過去最高となった旨公表した。

 従来の年齢基準での統計数値としては正しいのだろうし、1990年代より確実に進む高齢化、長寿化の傾向の中では不思議はない。しかし、65才以上になると「高齢者」、或いはお年寄りや老人と言われるのは国民の実感とはかけ離れている上、このように国民を年令により区別し、グループ化することに違和感を持つ人は少なくない。長寿化により「高齢者」の定義も変化しなくてはならない。男性にしても女性にしても、年令による身体的、精神的な状況には個人差があると共に、定年や年金受給年令に達する65歳になると制度上「高齢者」として区分され、社会への積極的な係わり合いから遠ざけ形となるので、疎外感を与えることにもなる。

 現在就労者数は約6,400万人であるので、就労者2人で「高齢者」1人を支える計算になる。長寿化が更に進めば、現在の統計基準では「高齢者」の比率がどんどん増加することになり、将来は就労者1人が「高齢者」1人を支える計算になりかねない。現在の統計基準では「高齢者」は65才以上で、‘定年退職’となり社会の生産活動から卒業し、その多くが年金生活者となる。いわば社会的な被扶養者となるが、就労者2人以下で「高齢者」1人を支えるような社会は、就労者、特に青年層にとっては負担感が重過ぎるので、誤解を与え易い統計基準と言えないだろうか。

 1、65才で老人扱いは早過ぎる

 欧米等では、年金対象年令近くになると退職し、トレーラーハウスで気楽に各地を旅して回りたいという人もいる。だが日本では65歳で退職、生産活動からの卒業となると、一つは所得が無くなることへの不安や不自由さを感じさせる一方、生きがいを求める人が多いようだ。平均寿命は、男性79.6才、女性86.4才、男女平均で約83才であるので、平均的に男性では退職後約15年間、女性では21年程の期間があり、その間「高齢者」として生産活動から卒業させられ、その多くが事実上就職の道を絶たれることになるので、社会との関係が疎遠になってしまうのが現実のようだ。1、2年程度は良いが、15年から20年間社会から遠ざけられ、所得の道を絶たれるのは長過ぎる。その上、65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とされる。しかし65才になったからといって人生これで終わりだと思っている人は少なく、多くの人は社会との関わり合いを望んでいる。65才になるとたそがれ人生になり、終活に明け暮れるのでは折角の経験が活かされない。

 特に日本は、国家公務員を含め終身雇用制を採っているので、学卒後多くの人が定年になるまで同じ会社、組織に属し、人生で最も長く会社、組織の同僚や上司や部下と接して来ているので、退職するとその接点が無くなるばかりか、65才定年制により、65才以上になると再就職なども事実上阻まれる結果となる。日本は、多くの場合学卒優先の終身雇用であり、公務員でも27才前後を新規採用の年齢制限とし、65才を定年とし、そして65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とするなど、年齢により国民を細かく分割し過ぎているように見える。それによるメリットもあるが、年令により国民を一律に細分化し、年令グループにより就職や社会保障等において制度的な差別化を図っている形となっている。

 特に国民に開かれていることが望ましい国家公務員や地方公務員について、新規採用年令を27才前後とする一方、独立行政法人など政府関係機関の役員への応募を原則65才以下とし、閣議で決めていることは、国民の行政への参加の機会を年齢で阻むものであり、望ましくない。

 人の年令には身体能力や意識の面で個人差があり、65才以上を一律に「高齢者」として仕分けし、生産活動から外すことは、多くの場合個々人の希望に沿わない。更に就労者2人、或いは将来は2人以下で「高齢者」1人を支えるような結果となる社会モデルは就労者、特に若い世代に過酷であり、統計基準としても画一的に過ぎると言えよう。65才以上の人を、一律にご高齢、老人と称するのも受け取る側にしてみるとまだまだやれるのにと思う人が多くなって来ているようだし、疎外感を与えているようでもある。

 そして70才から74才までを「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」と区分し、行政上医療費の自己負担比率を変えたり、自動車運転免許の取得、更新条件を変えたりしているが、能力、意識の上で個人差があるので余りにも一律過ぎると見られている。公務員の‘新卒採用’を27才前後でと年令制限することも合理性を欠く。また報道等においても、容疑者や犯罪者等の年令を表記するのは良いが、その家族や友人、関係者の年令を表記し、また女優タレント等の年令をその都度表記するのは、日本特有のことであり、多くの場合視聴者の関心でもないし、個人情報やプライバシーの観点から行き過ぎとも言える。映像や声で伝える場合は、視聴者が判断出来ることが多い。

 1990年代以降の日本の着実な長寿化により男女平均の寿命が現在約83才であることを考慮すると、外見上、或いは本人の意識の上で「高齢者」或いは老齢者と言って差し支えないのは、75才以上、将来的に長寿化が更に進む場合は80才としても良いのではないだろうか。75才以上の人口に占める比率は現在11%強、就労人口に占める比率は約22%であるので、国民が支えなくてはならない「高齢者」の比率としてはまだ高いが、容認出来る数値と言えよう。長寿化に伴って年令区分や意識が追い付いていないと言えそうだ。基本的には、日本社会が年令意識、年長者尊重意識(シニオリテイ・コンプレックス)が強いこともあって、年令により国民を区分し、行政上も区分化、制度化する傾向が強過ぎるのではなかろうか。

 このような観点から、65才以上については統計上“年長者”と総称し、所得の上でも体力や意識の上でも社会保障上の配慮が必要となる75才から80才以上を「高齢者」とする方が国民の実感に近いのではないだろうか。

 2、長寿化により必要な就職や社会保障面での年令区分の見直し      (その2に掲載)

(2013.11.19.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シリーズー総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

2013-11-25 | Weblog

シリーズー総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

 総務省統計局は、9月17日、65歳以上の「高齢者」が3000万人を超え、総人口の24.1%となり、過去最高となった旨公表した。

 従来の年齢基準での統計数値としては正しいのだろうし、1990年代より確実に進む高齢化、長寿化の傾向の中では不思議はない。しかし、65才以上になると「高齢者」、或いはお年寄りや老人と言われるのは国民の実感とはかけ離れている上、このように国民を年令により区別し、グループ化することに違和感を持つ人は少なくない。長寿化により「高齢者」の定義も変化しなくてはならない。男性にしても女性にしても、年令による身体的、精神的な状況には個人差があると共に、定年や年金受給年令に達する65歳になると制度上「高齢者」として区分され、社会への積極的な係わり合いから遠ざけ形となるので、疎外感を与えることにもなる。

 現在就労者数は約6,400万人であるので、就労者2人で「高齢者」1人を支える計算になる。長寿化が更に進めば、現在の統計基準では「高齢者」の比率がどんどん増加することになり、将来は就労者1人が「高齢者」1人を支える計算になりかねない。現在の統計基準では「高齢者」は65才以上で、‘定年退職’となり社会の生産活動から卒業し、その多くが年金生活者となる。いわば社会的な被扶養者となるが、就労者2人以下で「高齢者」1人を支えるような社会は、就労者、特に青年層にとっては負担感が重過ぎるので、誤解を与え易い統計基準と言えないだろうか。

 1、65才で老人扱いは早過ぎる

 欧米等では、年金対象年令近くになると退職し、トレーラーハウスで気楽に各地を旅して回りたいという人もいる。だが日本では65歳で退職、生産活動からの卒業となると、一つは所得が無くなることへの不安や不自由さを感じさせる一方、生きがいを求める人が多いようだ。平均寿命は、男性79.6才、女性86.4才、男女平均で約83才であるので、平均的に男性では退職後約15年間、女性では21年程の期間があり、その間「高齢者」として生産活動から卒業させられ、その多くが事実上就職の道を絶たれることになるので、社会との関係が疎遠になってしまうのが現実のようだ。1、2年程度は良いが、15年から20年間社会から遠ざけられ、所得の道を絶たれるのは長過ぎる。その上、65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とされる。しかし65才になったからといって人生これで終わりだと思っている人は少なく、多くの人は社会との関わり合いを望んでいる。65才になるとたそがれ人生になり、終活に明け暮れるのでは折角の経験が活かされない。

 特に日本は、国家公務員を含め終身雇用制を採っているので、学卒後多くの人が定年になるまで同じ会社、組織に属し、人生で最も長く会社、組織の同僚や上司や部下と接して来ているので、退職するとその接点が無くなるばかりか、65才定年制により、65才以上になると再就職なども事実上阻まれる結果となる。日本は、多くの場合学卒優先の終身雇用であり、公務員でも27才前後を新規採用の年齢制限とし、65才を定年とし、そして65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とするなど、年齢により国民を細かく分割し過ぎているように見える。それによるメリットもあるが、年令により国民を一律に細分化し、年令グループにより就職や社会保障等において制度的な差別化を図っている形となっている。

 特に国民に開かれていることが望ましい国家公務員や地方公務員について、新規採用年令を27才前後とする一方、独立行政法人など政府関係機関の役員への応募を原則65才以下とし、閣議で決めていることは、国民の行政への参加の機会を年齢で阻むものであり、望ましくない。

 人の年令には身体能力や意識の面で個人差があり、65才以上を一律に「高齢者」として仕分けし、生産活動から外すことは、多くの場合個々人の希望に沿わない。更に就労者2人、或いは将来は2人以下で「高齢者」1人を支えるような結果となる社会モデルは就労者、特に若い世代に過酷であり、統計基準としても画一的に過ぎると言えよう。65才以上の人を、一律にご高齢、老人と称するのも受け取る側にしてみるとまだまだやれるのにと思う人が多くなって来ているようだし、疎外感を与えているようでもある。

 そして70才から74才までを「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」と区分し、行政上医療費の自己負担比率を変えたり、自動車運転免許の取得、更新条件を変えたりしているが、能力、意識の上で個人差があるので余りにも一律過ぎると見られている。公務員の‘新卒採用’を27才前後でと年令制限することも合理性を欠く。また報道等においても、容疑者や犯罪者等の年令を表記するのは良いが、その家族や友人、関係者の年令を表記し、また女優タレント等の年令をその都度表記するのは、日本特有のことであり、多くの場合視聴者の関心でもないし、個人情報やプライバシーの観点から行き過ぎとも言える。映像や声で伝える場合は、視聴者が判断出来ることが多い。

 1990年代以降の日本の着実な長寿化により男女平均の寿命が現在約83才であることを考慮すると、外見上、或いは本人の意識の上で「高齢者」或いは老齢者と言って差し支えないのは、75才以上、将来的に長寿化が更に進む場合は80才としても良いのではないだろうか。75才以上の人口に占める比率は現在11%強、就労人口に占める比率は約22%であるので、国民が支えなくてはならない「高齢者」の比率としてはまだ高いが、容認出来る数値と言えよう。長寿化に伴って年令区分や意識が追い付いていないと言えそうだ。基本的には、日本社会が年令意識、年長者尊重意識(シニオリテイ・コンプレックス)が強いこともあって、年令により国民を区分し、行政上も区分化、制度化する傾向が強過ぎるのではなかろうか。

 このような観点から、65才以上については統計上“年長者”と総称し、所得の上でも体力や意識の上でも社会保障上の配慮が必要となる75才から80才以上を「高齢者」とする方が国民の実感に近いのではないだろうか。

 2、長寿化により必要な就職や社会保障面での年令区分の見直し      (その2に掲載)

(2013.11.19.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シリーズー総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

2013-11-25 | Weblog

シリーズー総人口の約25%「高齢者」は正しいか?!    (その1)

 総務省統計局は、9月17日、65歳以上の「高齢者」が3000万人を超え、総人口の24.1%となり、過去最高となった旨公表した。

 従来の年齢基準での統計数値としては正しいのだろうし、1990年代より確実に進む高齢化、長寿化の傾向の中では不思議はない。しかし、65才以上になると「高齢者」、或いはお年寄りや老人と言われるのは国民の実感とはかけ離れている上、このように国民を年令により区別し、グループ化することに違和感を持つ人は少なくない。長寿化により「高齢者」の定義も変化しなくてはならない。男性にしても女性にしても、年令による身体的、精神的な状況には個人差があると共に、定年や年金受給年令に達する65歳になると制度上「高齢者」として区分され、社会への積極的な係わり合いから遠ざけ形となるので、疎外感を与えることにもなる。

 現在就労者数は約6,400万人であるので、就労者2人で「高齢者」1人を支える計算になる。長寿化が更に進めば、現在の統計基準では「高齢者」の比率がどんどん増加することになり、将来は就労者1人が「高齢者」1人を支える計算になりかねない。現在の統計基準では「高齢者」は65才以上で、‘定年退職’となり社会の生産活動から卒業し、その多くが年金生活者となる。いわば社会的な被扶養者となるが、就労者2人以下で「高齢者」1人を支えるような社会は、就労者、特に青年層にとっては負担感が重過ぎるので、誤解を与え易い統計基準と言えないだろうか。

 1、65才で老人扱いは早過ぎる

 欧米等では、年金対象年令近くになると退職し、トレーラーハウスで気楽に各地を旅して回りたいという人もいる。だが日本では65歳で退職、生産活動からの卒業となると、一つは所得が無くなることへの不安や不自由さを感じさせる一方、生きがいを求める人が多いようだ。平均寿命は、男性79.6才、女性86.4才、男女平均で約83才であるので、平均的に男性では退職後約15年間、女性では21年程の期間があり、その間「高齢者」として生産活動から卒業させられ、その多くが事実上就職の道を絶たれることになるので、社会との関係が疎遠になってしまうのが現実のようだ。1、2年程度は良いが、15年から20年間社会から遠ざけられ、所得の道を絶たれるのは長過ぎる。その上、65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とされる。しかし65才になったからといって人生これで終わりだと思っている人は少なく、多くの人は社会との関わり合いを望んでいる。65才になるとたそがれ人生になり、終活に明け暮れるのでは折角の経験が活かされない。

 特に日本は、国家公務員を含め終身雇用制を採っているので、学卒後多くの人が定年になるまで同じ会社、組織に属し、人生で最も長く会社、組織の同僚や上司や部下と接して来ているので、退職するとその接点が無くなるばかりか、65才定年制により、65才以上になると再就職なども事実上阻まれる結果となる。日本は、多くの場合学卒優先の終身雇用であり、公務員でも27才前後を新規採用の年齢制限とし、65才を定年とし、そして65から74才までが「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」とするなど、年齢により国民を細かく分割し過ぎているように見える。それによるメリットもあるが、年令により国民を一律に細分化し、年令グループにより就職や社会保障等において制度的な差別化を図っている形となっている。

 特に国民に開かれていることが望ましい国家公務員や地方公務員について、新規採用年令を27才前後とする一方、独立行政法人など政府関係機関の役員への応募を原則65才以下とし、閣議で決めていることは、国民の行政への参加の機会を年齢で阻むものであり、望ましくない。

 人の年令には身体能力や意識の面で個人差があり、65才以上を一律に「高齢者」として仕分けし、生産活動から外すことは、多くの場合個々人の希望に沿わない。更に就労者2人、或いは将来は2人以下で「高齢者」1人を支えるような結果となる社会モデルは就労者、特に若い世代に過酷であり、統計基準としても画一的に過ぎると言えよう。65才以上の人を、一律にご高齢、老人と称するのも受け取る側にしてみるとまだまだやれるのにと思う人が多くなって来ているようだし、疎外感を与えているようでもある。

 そして70才から74才までを「前期高齢者」、75才以上を「後期高齢者」と区分し、行政上医療費の自己負担比率を変えたり、自動車運転免許の取得、更新条件を変えたりしているが、能力、意識の上で個人差があるので余りにも一律過ぎると見られている。公務員の‘新卒採用’を27才前後でと年令制限することも合理性を欠く。また報道等においても、容疑者や犯罪者等の年令を表記するのは良いが、その家族や友人、関係者の年令を表記し、また女優タレント等の年令をその都度表記するのは、日本特有のことであり、多くの場合視聴者の関心でもないし、個人情報やプライバシーの観点から行き過ぎとも言える。映像や声で伝える場合は、視聴者が判断出来ることが多い。

 1990年代以降の日本の着実な長寿化により男女平均の寿命が現在約83才であることを考慮すると、外見上、或いは本人の意識の上で「高齢者」或いは老齢者と言って差し支えないのは、75才以上、将来的に長寿化が更に進む場合は80才としても良いのではないだろうか。75才以上の人口に占める比率は現在11%強、就労人口に占める比率は約22%であるので、国民が支えなくてはならない「高齢者」の比率としてはまだ高いが、容認出来る数値と言えよう。長寿化に伴って年令区分や意識が追い付いていないと言えそうだ。基本的には、日本社会が年令意識、年長者尊重意識(シニオリテイ・コンプレックス)が強いこともあって、年令により国民を区分し、行政上も区分化、制度化する傾向が強過ぎるのではなかろうか。

 このような観点から、65才以上については統計上“年長者”と総称し、所得の上でも体力や意識の上でも社会保障上の配慮が必要となる75才から80才以上を「高齢者」とする方が国民の実感に近いのではないだろうか。

 2、長寿化により必要な就職や社会保障面での年令区分の見直し      (その2に掲載)

(2013.11.19.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする