内外政策評論 TheOpinion on Global & Domestic Issues

このブログは、広い視野から内外諸問題を分析し、提言を試みます。
Policy Essayist

シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)

2012-05-24 | Weblog
シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)
 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月6日の満月の日に誕生祭が行われている。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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2012-05-24 | Weblog
シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)
 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月6日の満月の日に誕生祭が行われている。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その3)―グリーン経済応援寄稿改訂版―

2012-05-24 | Weblog
電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その3)―グリーン経済応援寄稿改訂版―
 東京電力は福島原発の事故により、供給力不足を火力発電等で補うことになるが、事故処理費用や燃料代等を勘案し、工場やオフィスなど大口需要者に対し電気料金を4月から平均で17%引き上げることとしている。家庭向けについては7月より10%強の値上げを検討している。
 これに対し業界筋やマスコミは生産コストが増加し、価格への転嫁による消費や輸出に影響すると共に、円高と相俟って工場の海外移転を加速するなどとして懸念が表明されていると共に、電気代値上げに伴う企業、団体との東電の契約改定作業も利用者側の不満から50%に満たない状況となっている。一方、日本各地にある原子力発電所(福島第一原発を除き50基)の操業については安全面での確認と改善が求められ、操業再開のめどはたっておらず、電力の安定供給が日本産業の発展の上で大きな課題になっている。
 そのような中で現在、電力料金の値上げか原子力発電の操業再開か、或いは原発の存続か将来的な廃止かという2者択一が問われているが、「第3の選択」はないのだろうか。
 1、東京電力の自主再建を支持する  (その1で掲載)
 2、節電努力により電気料金の節約は可能(その2で掲載)
 3、「第3の選択」―適量生産・適量消費モデル、生活スタイルへの転換 
 節電の一方で、福島第一原発を補填する電力を確保して行かなくてはならない。そこで遊休している火力発電所の再開と共に安全が確認された原発の操業などが検討されているが、従来通りの電力需要に応えるためには地球温暖化防止のために目標とされている炭酸ガス排出基準を上回ることが予想されている。しかし地球温暖化防止は、地球上の人類及びその他生物の活動の持続可能性に係わる死活的な課題であり、先進工業国と新興経済諸国を中心として世界で真剣に取り組まなくてはならないグローバルな課題である。その努力を日本が軽々に放棄することは許されない。日本は国連気候変動枠組み条約の京都議定書で合意した温室効果ガスの排出基準にも達成していない。
 今後の東日本の復興、再生に当たっては、これまでの生産、消費モデルをそのまま復元するのではなく、化石燃料の量的制約と排出ガス削減の問題、原子力発電操業の制約や温暖化対策への国際的協力の必要性など、国内外の制約ときちんと向き合った上、東日本を含め、日本経済をリセットして新しい生産・消費モデルを構築し、エネルギー・資源の効率的使用と温暖化防止対策において世界に誇れる経済を再構築することが期待される。
 適量消費が定着すれば、価格や品質に対する消費者の目も厳しくなるので、生産者側も品質、価格に対応した適量生産に努めなくてはならなくなろう。消費は、いわば市場における総選挙のようなもので、消費者が製品、サービスを選択する。政治では1人1票しかないが、消費は個々人の予算の範囲以内で複数選択出来る。そのような消費者の選択が適量生産を促すことになる。
 そしてこのような適量消費・適量生産と生活スタイルの転換は、電力を含むエネルギー消費の節減を促す。現在福島原発被災事故の処理を巡り、高額に達すると見られる賠償費用や代替燃料のコスト問題などから、いわば電力料金の値上げか原子力発電の継続かの二者択一が提示されている。しかしこの選択肢は、従来の電力需要を前提とした選択肢であり、上記のように生産・消費モデルや生活スタイルの転換を図れば、従来型の電力への需要は減少し、従来の予測は正しくないことになる。その意味で、適量消費・適量生産と生活スタイルの転換は今後の電力問題の切り札として「第3の選択」になると共に、炭酸ガス削減を可能にする生産・消費モデルとなろう。
 
 今、国民の多くは被災地復興と電力危機への対応、原発の存廃問題で理解を得やすい状態になっている。その国民的な理解や支持があれば、これまでの大量生産・大量消費の生産モデルを適量消費・適量生産に基づき、高い電力・エネルギー効率の生産・消費モデルに転換し、世界に誇れる経済とすることは不可能ではない。そこからまた世界の市場を対象とした新しいビジネス・チャンスや製品・サービスと雇用機会が生まれるものと期待される。 (2012.05.04.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その3)―グリーン経済応援寄稿改訂版―

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電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その3)―グリーン経済応援寄稿改訂版―
 東京電力は福島原発の事故により、供給力不足を火力発電等で補うことになるが、事故処理費用や燃料代等を勘案し、工場やオフィスなど大口需要者に対し電気料金を4月から平均で17%引き上げることとしている。家庭向けについては7月より10%強の値上げを検討している。
 これに対し業界筋やマスコミは生産コストが増加し、価格への転嫁による消費や輸出に影響すると共に、円高と相俟って工場の海外移転を加速するなどとして懸念が表明されていると共に、電気代値上げに伴う企業、団体との東電の契約改定作業も利用者側の不満から50%に満たない状況となっている。一方、日本各地にある原子力発電所(福島第一原発を除き50基)の操業については安全面での確認と改善が求められ、操業再開のめどはたっておらず、電力の安定供給が日本産業の発展の上で大きな課題になっている。
 そのような中で現在、電力料金の値上げか原子力発電の操業再開か、或いは原発の存続か将来的な廃止かという2者択一が問われているが、「第3の選択」はないのだろうか。
 1、東京電力の自主再建を支持する  (その1で掲載)
 2、節電努力により電気料金の節約は可能(その2で掲載)
 3、「第3の選択」―適量生産・適量消費モデル、生活スタイルへの転換 
 節電の一方で、福島第一原発を補填する電力を確保して行かなくてはならない。そこで遊休している火力発電所の再開と共に安全が確認された原発の操業などが検討されているが、従来通りの電力需要に応えるためには地球温暖化防止のために目標とされている炭酸ガス排出基準を上回ることが予想されている。しかし地球温暖化防止は、地球上の人類及びその他生物の活動の持続可能性に係わる死活的な課題であり、先進工業国と新興経済諸国を中心として世界で真剣に取り組まなくてはならないグローバルな課題である。その努力を日本が軽々に放棄することは許されない。日本は国連気候変動枠組み条約の京都議定書で合意した温室効果ガスの排出基準にも達成していない。
 今後の東日本の復興、再生に当たっては、これまでの生産、消費モデルをそのまま復元するのではなく、化石燃料の量的制約と排出ガス削減の問題、原子力発電操業の制約や温暖化対策への国際的協力の必要性など、国内外の制約ときちんと向き合った上、東日本を含め、日本経済をリセットして新しい生産・消費モデルを構築し、エネルギー・資源の効率的使用と温暖化防止対策において世界に誇れる経済を再構築することが期待される。
 適量消費が定着すれば、価格や品質に対する消費者の目も厳しくなるので、生産者側も品質、価格に対応した適量生産に努めなくてはならなくなろう。消費は、いわば市場における総選挙のようなもので、消費者が製品、サービスを選択する。政治では1人1票しかないが、消費は個々人の予算の範囲以内で複数選択出来る。そのような消費者の選択が適量生産を促すことになる。
 そしてこのような適量消費・適量生産と生活スタイルの転換は、電力を含むエネルギー消費の節減を促す。現在福島原発被災事故の処理を巡り、高額に達すると見られる賠償費用や代替燃料のコスト問題などから、いわば電力料金の値上げか原子力発電の継続かの二者択一が提示されている。しかしこの選択肢は、従来の電力需要を前提とした選択肢であり、上記のように生産・消費モデルや生活スタイルの転換を図れば、従来型の電力への需要は減少し、従来の予測は正しくないことになる。その意味で、適量消費・適量生産と生活スタイルの転換は今後の電力問題の切り札として「第3の選択」になると共に、炭酸ガス削減を可能にする生産・消費モデルとなろう。
 
 今、国民の多くは被災地復興と電力危機への対応、原発の存廃問題で理解を得やすい状態になっている。その国民的な理解や支持があれば、これまでの大量生産・大量消費の生産モデルを適量消費・適量生産に基づき、高い電力・エネルギー効率の生産・消費モデルに転換し、世界に誇れる経済とすることは不可能ではない。そこからまた世界の市場を対象とした新しいビジネス・チャンスや製品・サービスと雇用機会が生まれるものと期待される。 (2012.05.04.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その3)―グリーン経済応援寄稿改訂版―

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電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その3)―グリーン経済応援寄稿改訂版―
 東京電力は福島原発の事故により、供給力不足を火力発電等で補うことになるが、事故処理費用や燃料代等を勘案し、工場やオフィスなど大口需要者に対し電気料金を4月から平均で17%引き上げることとしている。家庭向けについては7月より10%強の値上げを検討している。
 これに対し業界筋やマスコミは生産コストが増加し、価格への転嫁による消費や輸出に影響すると共に、円高と相俟って工場の海外移転を加速するなどとして懸念が表明されていると共に、電気代値上げに伴う企業、団体との東電の契約改定作業も利用者側の不満から50%に満たない状況となっている。一方、日本各地にある原子力発電所(福島第一原発を除き50基)の操業については安全面での確認と改善が求められ、操業再開のめどはたっておらず、電力の安定供給が日本産業の発展の上で大きな課題になっている。
 そのような中で現在、電力料金の値上げか原子力発電の操業再開か、或いは原発の存続か将来的な廃止かという2者択一が問われているが、「第3の選択」はないのだろうか。
 1、東京電力の自主再建を支持する  (その1で掲載)
 2、節電努力により電気料金の節約は可能(その2で掲載)
 3、「第3の選択」―適量生産・適量消費モデル、生活スタイルへの転換 
 節電の一方で、福島第一原発を補填する電力を確保して行かなくてはならない。そこで遊休している火力発電所の再開と共に安全が確認された原発の操業などが検討されているが、従来通りの電力需要に応えるためには地球温暖化防止のために目標とされている炭酸ガス排出基準を上回ることが予想されている。しかし地球温暖化防止は、地球上の人類及びその他生物の活動の持続可能性に係わる死活的な課題であり、先進工業国と新興経済諸国を中心として世界で真剣に取り組まなくてはならないグローバルな課題である。その努力を日本が軽々に放棄することは許されない。日本は国連気候変動枠組み条約の京都議定書で合意した温室効果ガスの排出基準にも達成していない。
 今後の東日本の復興、再生に当たっては、これまでの生産、消費モデルをそのまま復元するのではなく、化石燃料の量的制約と排出ガス削減の問題、原子力発電操業の制約や温暖化対策への国際的協力の必要性など、国内外の制約ときちんと向き合った上、東日本を含め、日本経済をリセットして新しい生産・消費モデルを構築し、エネルギー・資源の効率的使用と温暖化防止対策において世界に誇れる経済を再構築することが期待される。
 適量消費が定着すれば、価格や品質に対する消費者の目も厳しくなるので、生産者側も品質、価格に対応した適量生産に努めなくてはならなくなろう。消費は、いわば市場における総選挙のようなもので、消費者が製品、サービスを選択する。政治では1人1票しかないが、消費は個々人の予算の範囲以内で複数選択出来る。そのような消費者の選択が適量生産を促すことになる。
 そしてこのような適量消費・適量生産と生活スタイルの転換は、電力を含むエネルギー消費の節減を促す。現在福島原発被災事故の処理を巡り、高額に達すると見られる賠償費用や代替燃料のコスト問題などから、いわば電力料金の値上げか原子力発電の継続かの二者択一が提示されている。しかしこの選択肢は、従来の電力需要を前提とした選択肢であり、上記のように生産・消費モデルや生活スタイルの転換を図れば、従来型の電力への需要は減少し、従来の予測は正しくないことになる。その意味で、適量消費・適量生産と生活スタイルの転換は今後の電力問題の切り札として「第3の選択」になると共に、炭酸ガス削減を可能にする生産・消費モデルとなろう。
 
 今、国民の多くは被災地復興と電力危機への対応、原発の存廃問題で理解を得やすい状態になっている。その国民的な理解や支持があれば、これまでの大量生産・大量消費の生産モデルを適量消費・適量生産に基づき、高い電力・エネルギー効率の生産・消費モデルに転換し、世界に誇れる経済とすることは不可能ではない。そこからまた世界の市場を対象とした新しいビジネス・チャンスや製品・サービスと雇用機会が生まれるものと期待される。 (2012.05.04.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その2)―グリーン経済応援寄稿改訂版―

2012-05-24 | Weblog
電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その2)―グリーン経済応援寄稿改訂版―
 東京電力は福島原発の事故により、供給力不足を火力発電等で補うことになるが、事故処理費用や燃料代等を勘案し、工場やオフィスなど大口需要者に対し電気料金を4月から平均で17%引き上げることとしている。家庭向けについては7月より10%強の値上げを検討している。
 これに対し業界筋やマスコミは生産コストが増加し、価格への転嫁による消費や輸出に影響すると共に、円高と相俟って工場の海外移転を加速するなどとして懸念が表明されていると共に、電気代値上げに伴う企業、団体との東電の契約改定作業も利用者側の不満から50%に満たない状況となっている。一方、日本各地にある原子力発電所(福島第一原発を除き50基)の操業については安全面での確認と改善が求められ、操業再開のめどはたっておらず、電力の安定供給が日本産業の発展の上で大きな課題になっている。
 そのような中で現在、電力料金の値上げか原子力発電の操業再開か、或いは原発の存続か将来的な廃止かという2者択一が問われているが、「第3の選択」はないのだろうか。
 1、東京電力の自主再建を支持する (その1で掲載)
 2、節電努力により電気料金の節約は可能
 電力料金引き上げによる利用者側の負担増を軽減するためには、東電側の引き上げ幅の縮小努力が望まれる一方、利用者側の節電が不可欠となっている。
 2011年夏の節電では、過度な節電で利用者に不便を強いたり、熱中症を出した例は見られたが、企業による土日操業や夜間操業などによる電力使用の分散、ビル内や一般的な節電により、10-15%程度の節電は達成出来ることが明らかとなった。節電は節電グッズや防熱・防寒衣料品などの新しい需要を生むと共に、ライフ・スタイルの転換を促している。中・長期的には太陽光などの自然エネルギーを利用した発電の促進により新たな市場が生まれている。
 冬を迎え節電要請が出されたが、電機事業連合会による昨年12月の電力需要速報では、電力10社合計の販売電力量で前年同月比3.5%減となっている。新たな節電グッズ、エコグッズなどの生産、需要を生みつつ更なる節電を行えば個々の電力使用料を節約出来る。
原子力発電の操業が行われない場合には、夏の電力需要が心配されており、特に原子力発電への依存度の高い関西地域においては使用制限なども検討されているが、既に本評論の初稿においても提案した通り、例えばピーク時の午後1時頃から午後6時頃までを除いて、午後6時頃からから翌日正午までや週末、祝日につき電気料金を低目に設定すれば、企業等の操業をピーク時外に誘導出来る上、それら企業等については電気料節約となる。
重要なことは、従来のように電力が無制限に使用出来るという産業モデル、生活スタイルから、適量消費のモデル、生活スタイルに転換を図って行くことであろう。それを政府や電力会社の使用規制で行うのではなく、企業・団体、消費者が自発的に節電することによって実現して行くことが出来る。
 東日本大震災からの復旧・復興、そして電力供給の制約、値上げは、日本経済をリセットする良い契機であり、下記の通り大量生産、大量消費モデルから、適量生産、適量消費のモデルに転換し、世界の模範となる経済再生を図って行くことが望まれる。
 忘れ掛けられているが、世界にはもう一つの緊要な課題がある。地球温暖化、荒々しい気候変動だ。大気だけでなく海の流れが変化しており、世界各所で異常且つ嘗て無く強力で荒々しい気候変動が起こっている。目には見えないが、大気の下で海流の変動が起こっている。北極海の氷原は夏になると縮み続けており、海流に影響を与える。また北極圏のオゾン層にも穴が確認されている。反対側の南極は陸地であるが、氷河が溶けるなど同じようなことが起こっていることが確認されている。地殻の変動だけでなく、大気や海を含め地球が変動しており、今後人類の生存と持続可能な発展を図って行くためには、地球の健康も維持して行かなくてはならない。その原因が、二酸化炭素であるか否かなどについては学問的に疑問も呈されており、また先進工業国(G8)側と中国、インド、ブラジルなど、急成長している主要開発経済諸国との間で、いずれの国が地球温暖化に責任があるのかやいずれの側がその削減のためにより多くの負担をすべきかにつき意見の対立が見られる。しかし上記の異常気象は現実に世界中で起っている現象であり、事実として受け止めなければならない。

 3、「第3の選択」―適量生産・適量消費モデル、生活スタイルへの転換 (その3に掲載)
(2012.05.04.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その2)―グリーン経済応援寄稿改訂版―

2012-05-24 | Weblog
電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その2)―グリーン経済応援寄稿改訂版―
 東京電力は福島原発の事故により、供給力不足を火力発電等で補うことになるが、事故処理費用や燃料代等を勘案し、工場やオフィスなど大口需要者に対し電気料金を4月から平均で17%引き上げることとしている。家庭向けについては7月より10%強の値上げを検討している。
 これに対し業界筋やマスコミは生産コストが増加し、価格への転嫁による消費や輸出に影響すると共に、円高と相俟って工場の海外移転を加速するなどとして懸念が表明されていると共に、電気代値上げに伴う企業、団体との東電の契約改定作業も利用者側の不満から50%に満たない状況となっている。一方、日本各地にある原子力発電所(福島第一原発を除き50基)の操業については安全面での確認と改善が求められ、操業再開のめどはたっておらず、電力の安定供給が日本産業の発展の上で大きな課題になっている。
 そのような中で現在、電力料金の値上げか原子力発電の操業再開か、或いは原発の存続か将来的な廃止かという2者択一が問われているが、「第3の選択」はないのだろうか。
 1、東京電力の自主再建を支持する (その1で掲載)
 2、節電努力により電気料金の節約は可能
 電力料金引き上げによる利用者側の負担増を軽減するためには、東電側の引き上げ幅の縮小努力が望まれる一方、利用者側の節電が不可欠となっている。
 2011年夏の節電では、過度な節電で利用者に不便を強いたり、熱中症を出した例は見られたが、企業による土日操業や夜間操業などによる電力使用の分散、ビル内や一般的な節電により、10-15%程度の節電は達成出来ることが明らかとなった。節電は節電グッズや防熱・防寒衣料品などの新しい需要を生むと共に、ライフ・スタイルの転換を促している。中・長期的には太陽光などの自然エネルギーを利用した発電の促進により新たな市場が生まれている。
 冬を迎え節電要請が出されたが、電機事業連合会による昨年12月の電力需要速報では、電力10社合計の販売電力量で前年同月比3.5%減となっている。新たな節電グッズ、エコグッズなどの生産、需要を生みつつ更なる節電を行えば個々の電力使用料を節約出来る。
原子力発電の操業が行われない場合には、夏の電力需要が心配されており、特に原子力発電への依存度の高い関西地域においては使用制限なども検討されているが、既に本評論の初稿においても提案した通り、例えばピーク時の午後1時頃から午後6時頃までを除いて、午後6時頃からから翌日正午までや週末、祝日につき電気料金を低目に設定すれば、企業等の操業をピーク時外に誘導出来る上、それら企業等については電気料節約となる。
重要なことは、従来のように電力が無制限に使用出来るという産業モデル、生活スタイルから、適量消費のモデル、生活スタイルに転換を図って行くことであろう。それを政府や電力会社の使用規制で行うのではなく、企業・団体、消費者が自発的に節電することによって実現して行くことが出来る。
 東日本大震災からの復旧・復興、そして電力供給の制約、値上げは、日本経済をリセットする良い契機であり、下記の通り大量生産、大量消費モデルから、適量生産、適量消費のモデルに転換し、世界の模範となる経済再生を図って行くことが望まれる。
 忘れ掛けられているが、世界にはもう一つの緊要な課題がある。地球温暖化、荒々しい気候変動だ。大気だけでなく海の流れが変化しており、世界各所で異常且つ嘗て無く強力で荒々しい気候変動が起こっている。目には見えないが、大気の下で海流の変動が起こっている。北極海の氷原は夏になると縮み続けており、海流に影響を与える。また北極圏のオゾン層にも穴が確認されている。反対側の南極は陸地であるが、氷河が溶けるなど同じようなことが起こっていることが確認されている。地殻の変動だけでなく、大気や海を含め地球が変動しており、今後人類の生存と持続可能な発展を図って行くためには、地球の健康も維持して行かなくてはならない。その原因が、二酸化炭素であるか否かなどについては学問的に疑問も呈されており、また先進工業国(G8)側と中国、インド、ブラジルなど、急成長している主要開発経済諸国との間で、いずれの国が地球温暖化に責任があるのかやいずれの側がその削減のためにより多くの負担をすべきかにつき意見の対立が見られる。しかし上記の異常気象は現実に世界中で起っている現象であり、事実として受け止めなければならない。

 3、「第3の選択」―適量生産・適量消費モデル、生活スタイルへの転換 (その3に掲載)
(2012.05.04.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その2)―グリーン経済応援寄稿改訂版―

2012-05-24 | Weblog
電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その2)―グリーン経済応援寄稿改訂版―
 東京電力は福島原発の事故により、供給力不足を火力発電等で補うことになるが、事故処理費用や燃料代等を勘案し、工場やオフィスなど大口需要者に対し電気料金を4月から平均で17%引き上げることとしている。家庭向けについては7月より10%強の値上げを検討している。
 これに対し業界筋やマスコミは生産コストが増加し、価格への転嫁による消費や輸出に影響すると共に、円高と相俟って工場の海外移転を加速するなどとして懸念が表明されていると共に、電気代値上げに伴う企業、団体との東電の契約改定作業も利用者側の不満から50%に満たない状況となっている。一方、日本各地にある原子力発電所(福島第一原発を除き50基)の操業については安全面での確認と改善が求められ、操業再開のめどはたっておらず、電力の安定供給が日本産業の発展の上で大きな課題になっている。
 そのような中で現在、電力料金の値上げか原子力発電の操業再開か、或いは原発の存続か将来的な廃止かという2者択一が問われているが、「第3の選択」はないのだろうか。
 1、東京電力の自主再建を支持する (その1で掲載)
 2、節電努力により電気料金の節約は可能
 電力料金引き上げによる利用者側の負担増を軽減するためには、東電側の引き上げ幅の縮小努力が望まれる一方、利用者側の節電が不可欠となっている。
 2011年夏の節電では、過度な節電で利用者に不便を強いたり、熱中症を出した例は見られたが、企業による土日操業や夜間操業などによる電力使用の分散、ビル内や一般的な節電により、10-15%程度の節電は達成出来ることが明らかとなった。節電は節電グッズや防熱・防寒衣料品などの新しい需要を生むと共に、ライフ・スタイルの転換を促している。中・長期的には太陽光などの自然エネルギーを利用した発電の促進により新たな市場が生まれている。
 冬を迎え節電要請が出されたが、電機事業連合会による昨年12月の電力需要速報では、電力10社合計の販売電力量で前年同月比3.5%減となっている。新たな節電グッズ、エコグッズなどの生産、需要を生みつつ更なる節電を行えば個々の電力使用料を節約出来る。
原子力発電の操業が行われない場合には、夏の電力需要が心配されており、特に原子力発電への依存度の高い関西地域においては使用制限なども検討されているが、既に本評論の初稿においても提案した通り、例えばピーク時の午後1時頃から午後6時頃までを除いて、午後6時頃からから翌日正午までや週末、祝日につき電気料金を低目に設定すれば、企業等の操業をピーク時外に誘導出来る上、それら企業等については電気料節約となる。
重要なことは、従来のように電力が無制限に使用出来るという産業モデル、生活スタイルから、適量消費のモデル、生活スタイルに転換を図って行くことであろう。それを政府や電力会社の使用規制で行うのではなく、企業・団体、消費者が自発的に節電することによって実現して行くことが出来る。
 東日本大震災からの復旧・復興、そして電力供給の制約、値上げは、日本経済をリセットする良い契機であり、下記の通り大量生産、大量消費モデルから、適量生産、適量消費のモデルに転換し、世界の模範となる経済再生を図って行くことが望まれる。
 忘れ掛けられているが、世界にはもう一つの緊要な課題がある。地球温暖化、荒々しい気候変動だ。大気だけでなく海の流れが変化しており、世界各所で異常且つ嘗て無く強力で荒々しい気候変動が起こっている。目には見えないが、大気の下で海流の変動が起こっている。北極海の氷原は夏になると縮み続けており、海流に影響を与える。また北極圏のオゾン層にも穴が確認されている。反対側の南極は陸地であるが、氷河が溶けるなど同じようなことが起こっていることが確認されている。地殻の変動だけでなく、大気や海を含め地球が変動しており、今後人類の生存と持続可能な発展を図って行くためには、地球の健康も維持して行かなくてはならない。その原因が、二酸化炭素であるか否かなどについては学問的に疑問も呈されており、また先進工業国(G8)側と中国、インド、ブラジルなど、急成長している主要開発経済諸国との間で、いずれの国が地球温暖化に責任があるのかやいずれの側がその削減のためにより多くの負担をすべきかにつき意見の対立が見られる。しかし上記の異常気象は現実に世界中で起っている現象であり、事実として受け止めなければならない。

 3、「第3の選択」―適量生産・適量消費モデル、生活スタイルへの転換 (その3に掲載)
(2012.05.04.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その1)―グリーン経済応援寄稿改訂版―

2012-05-24 | Weblog
電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その1)―グリーン経済応援寄稿改訂版―
 東京電力は福島原発の事故により、供給力不足を火力発電等で補うことになるが、事故処理費用や燃料代等を勘案し、工場やオフィスなど大口需要者に対し電気料金を4月から平均で17%引き上げることとしている。家庭向けについては7月より10%強の値上げを検討している。
 これに対し業界筋やマスコミは生産コストが増加し、価格への転嫁による消費や輸出に影響すると共に、円高と相俟って工場の海外移転を加速するなどとして懸念が表明されていると共に、電気代値上げに伴う企業、団体との東電の契約改定作業も利用者側の不満から50%に満たない状況となっている。一方、日本各地にある原子力発電所(福島第一原発を除き50基)の操業については安全面での確認と改善が求められ、操業再開のめどはたっておらず、電力の安定供給が日本産業の発展の上で大きな課題になっている。
 そのような中で現在、電力料金の値上げか原子力発電の操業再開か、或いは原発の存続か将来的な廃止かという2者択一が問われているが、「第3の選択」はないのだろうか。
 1、東京電力の自主再建を支持する
東京電力は、政府機関である原子力賠償支援機構と共に、原発事故の賠償問題と電力の安定供給を見据えた「総合事業計画」を策定し、経済産業省に提出した。基本的には東電は支援機構を通じて1兆円規模の公的資本の注入、従って事実上の国有化を受け入れると共に、主要金融機関よりの1兆円規模の融資を受ける一方、リストラの他、電気料金の値上げや安全確認を前提として福島以外の原発の再稼動などで2014年3月期に赤字を克服することを目指すとしている。
電気料金値上げへの懸念は当然であり、何らかの配慮が必要である。しかし東電自体、福島原発事故により周辺住民に与えた損害賠償を抱え、原子炉の管理・処理という長期の負担を負いながらの再建である上、そもそも東電も自然災害の被害者でもあるので、再建過程における一定の値上げは容認し、早期の再建を促さざるを得ないのではなかろうか。
他方、中小企業などへの影響を考えると値上げ幅については東電側の更なる簡素化、コスト削減などの企業努力により縮小することが望まれる。政府資金を更に投入して値上げを回避するとの考え方もあるようだが、結果的には一般納税者への負担となるので、受益者負担の原則に従って利用者が負担することが望ましい。消費者負担が市場経済のルールである。
同時に、電力の生産、供給が東電などの独占状態になっていることが料金を引上げることに繋がるので、日本の今後の電力供給の多様化、安定化のためにも規制を撤廃し新規参入を図って行くことが急務であろう。
 2、節電努力により電気料金の節約は可能 (その2に掲載)
 3、「第3の選択」―適量生産・適量消費モデル、生活スタイルへの転換 (その3に掲載)
(2012.05.04.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その1)―グリーン経済応援寄稿改訂版―

2012-05-24 | Weblog
電力問題、原発存廃問題の第3の選択!(その1)―グリーン経済応援寄稿改訂版―
 東京電力は福島原発の事故により、供給力不足を火力発電等で補うことになるが、事故処理費用や燃料代等を勘案し、工場やオフィスなど大口需要者に対し電気料金を4月から平均で17%引き上げることとしている。家庭向けについては7月より10%強の値上げを検討している。
 これに対し業界筋やマスコミは生産コストが増加し、価格への転嫁による消費や輸出に影響すると共に、円高と相俟って工場の海外移転を加速するなどとして懸念が表明されていると共に、電気代値上げに伴う企業、団体との東電の契約改定作業も利用者側の不満から50%に満たない状況となっている。一方、日本各地にある原子力発電所(福島第一原発を除き50基)の操業については安全面での確認と改善が求められ、操業再開のめどはたっておらず、電力の安定供給が日本産業の発展の上で大きな課題になっている。
 そのような中で現在、電力料金の値上げか原子力発電の操業再開か、或いは原発の存続か将来的な廃止かという2者択一が問われているが、「第3の選択」はないのだろうか。
 1、東京電力の自主再建を支持する
東京電力は、政府機関である原子力賠償支援機構と共に、原発事故の賠償問題と電力の安定供給を見据えた「総合事業計画」を策定し、経済産業省に提出した。基本的には東電は支援機構を通じて1兆円規模の公的資本の注入、従って事実上の国有化を受け入れると共に、主要金融機関よりの1兆円規模の融資を受ける一方、リストラの他、電気料金の値上げや安全確認を前提として福島以外の原発の再稼動などで2014年3月期に赤字を克服することを目指すとしている。
電気料金値上げへの懸念は当然であり、何らかの配慮が必要である。しかし東電自体、福島原発事故により周辺住民に与えた損害賠償を抱え、原子炉の管理・処理という長期の負担を負いながらの再建である上、そもそも東電も自然災害の被害者でもあるので、再建過程における一定の値上げは容認し、早期の再建を促さざるを得ないのではなかろうか。
他方、中小企業などへの影響を考えると値上げ幅については東電側の更なる簡素化、コスト削減などの企業努力により縮小することが望まれる。政府資金を更に投入して値上げを回避するとの考え方もあるようだが、結果的には一般納税者への負担となるので、受益者負担の原則に従って利用者が負担することが望ましい。消費者負担が市場経済のルールである。
同時に、電力の生産、供給が東電などの独占状態になっていることが料金を引上げることに繋がるので、日本の今後の電力供給の多様化、安定化のためにも規制を撤廃し新規参入を図って行くことが急務であろう。
 2、節電努力により電気料金の節約は可能 (その2に掲載)
 3、「第3の選択」―適量生産・適量消費モデル、生活スタイルへの転換 (その3に掲載)
(2012.05.04.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)

2012-05-22 | Weblog
シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)
 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月6日の満月の日に誕生祭が行われている。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)

2012-05-22 | Weblog
シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)
 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月6日の満月の日に誕生祭が行われている。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)

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シリーズ ブッダ誕生の聖地を読む (総合編)
 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月6日の満月の日に誕生祭が行われている。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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 4月8日はブッダ(仏陀、通称お釈迦様)の誕生日として知られ、ブッダ教が普及している諸国や地域で花祭りなどが行われ、またブッダの誕生地ルンビニのあるネパールでは5月6日の満月の日に誕生祭が行われている。
1、飛鳥時代の朝廷に受け入れられた仏教
 ブッダ教が日本に伝来したのは、「日本書紀」に飛鳥時代の552年、百済の聖明王よりブッダの金銅像と経論他が欽明天皇に献上されたことが記されており、これが仏教公伝とされている。しかし元興寺建立の経緯などが記されている「元興寺伽藍縁起」の記述から538年に仏教が伝えられたと見られている。経論などは中国で漢語訳されていたことから、
仏教、仏陀など漢字表記となっている。
確かに、百済王の使節が倭の国(日本)の天皇への献上品としてブッダ像や経典などを持参したとすれば、日本に珍重される物と判断してのことであろうから、ブッダ教が日本に、少なくても朝廷周辺においてある程度知られていたと見るべきであろう。これらの記述から日本最古の本格的な寺院とされている元興寺の前身である法興寺が蘇我馬子により飛鳥に建立されたとされている。当時朝廷は、蘇我氏を中心とする西部グループと物部氏を中心とする伝統派グループが血を血で洗う勢力争いをしていたと言われているが、蘇我馬子が平安、平穏を祈り百済から伝えられたブッダ教を敬ったと伝えられている。
その後蘇我氏グループが物部氏グループを倒し、朝廷に平穏が戻ったが、推古天皇が仏教を普及するようにとの勅令を出し、聖徳太も17条憲法(西暦604年)で僧侶を敬うようにとの趣旨を含めて以来、仏教は朝廷に受け入れられた。それは、アショカ王が紀元前2世紀半ばにインドのほぼ全域を統一しマウリア王朝の全盛期を築いたが、カリンガの闘いで多くの死者を出したことへの償いか、死後地獄に送られあらゆる苦しみに課されることを恐れたのか、深くブッダ教に帰依した姿に重なるところがある。紀元前5世紀にインドの16大国の一つであったコーサラ国のビルダカ王がシャキア王国を殲滅したが、ビルダカ王は凱旋後、火事に遭い、苦しみの中で地獄に落ち、その地獄であらゆる苦しみを課されたと伝承されており、これがブッダ教の不殺生、非暴力の教え、戒めの背景の一つとなっているようだ。
そして武家勢力の伸張に伴い、仏教は武家、庶民へと普及し、江戸時代には檀家制度や寺子屋などを通じ統治機構の末端の役割を果たす仏教制度として制度化され、日本の思想、文化に幅広い影響を与えている。その後明治政府となり、天皇制が復活し神道が重視されることとなり、全国で廃仏毀釈が行われ、寺院数は減少したものの、もともと仏教は朝廷により受け入れられ、日本仏教として普及、発展して来たものであるので、広く日本の思想、文化の中に浸透してると言える。国勢調査においても、仏教の系統が9,600万人、総人口の約74%にものぼる。
 ところが仏教の創始者であるブッダ(通称お釈迦様)誕生の歴史的、社会的背景などについては、生誕地がネパールのルンビニであることはある程度知られているが、29歳までシャキア(釈迦)王国の王子として育った城都カピラバスツやそのシャキア王国が何故歴史から消えたのかなど、余り知られていない。学校教育などにおいても、仏教系の学校は別として、ほとんど教えられていない。
 それ以上に、生誕地のルンビニについては1997年にUNESCOの世界遺産として認定され国際的に確立しているが、城都カピラバスツ、通称カピラ城の位置については、未だにネパール説とインド説があり明らかになっていない。
 著書「お釈迦様のルーツの謎」がそのような歴史的、社会的背景を明らかにし、いわば新常識を提示している。

 2、ブッダ誕生の聖地を読む
ブッダは、紀元前6世紀から5世紀にかけて現在のネパール南部ルンビニで誕生し、29歳までシャキア(釈迦)族の部族王国の王子としてカピラバスツ城で育ち、29才で悟りの道を求めて城を後にした。王子の名はシッダールタ・ゴータマ、そしてその部族名(シャキア)からお釈迦様の名で親しまれている。シッダールタ王子は後に悟りを開き、ブッダ(悟りを開いた者の意)となり、ブッダ教(仏教)の創始者になった。
ところが城都カピラバスツの所在地については、ネパール説とインド説があり、いまだに未決着であり、またシャキア王国が何故滅亡したのかなど、謎が多い。日本などでは、経典など仏教研究は進んでいるが、日本はもとより世界でも、そのルーツなど歴史的な事実について正しく理解されていないことが多い。あるアジアの国の僧侶が、城都カピラバスツの所在地については、2つの仏典にそれぞれ別の場所が記されているので、カピラバスツは2箇所にあったと話している。仏典は宗教、信仰の基礎であるので、信者にとってはそういうことなのであろう。しかし2つの仏典は、同時に非常に重要なことを伝えている。仏典にはそれぞれ異なる場所が記されているが、それぞれ一つの場所が記されているということであり、カピラバスツは2箇所にあるとは記されてはいないようだ。それを明らかにするのが、歴史や科学なのであろう。
著書「お釈迦様のルーツの謎」は、ブッダの生誕からカピラバスツ城の場所、シャキア王国滅亡などの真相に迫り、その所在地を中心としてブッダ誕生の歴史的、社会的な背景を描いたもので、それをベースとしてブッダの今日的意味を提示している。
「お釈迦様のルーツの謎」は、次のような諸点を明らかにし、「新常識」を数多く提示している。
・シャキヤ王国を建国したシャキヤ(釈迦)族は何処から来たか、そして種族は?
・ブッダの生誕地ルンビニはどのようにして何時発見されたのか?
・シッダールタ王子が育ったカピラバスツ城の所在地は、ネパールかインドか?
 2つのカピラ城が存在する謎。一方がカピラ城跡とすると、もう一方の遺跡は何か?
・過去に存在したブッダの意味するところは?
・シャキヤ王国は何故滅亡したのか? ブッダはその時何をしていたのか?
・インドを統一したアショカ王は何故あれほど熱心にブッダに帰依したのかなど。

 著書「お釈迦様のルーツの謎」は、出版元の東京図書出版(026-673-8051又は03-3823-9171)の他、インターネットを通じお求めになれます。
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