えらい歴史認識ズレてまっせ、育鵬社はん!ー縄文~古墳時代の大阪を「ヘンな教科書/育鵬社」が描くー
子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会 共同代表 上杉 聰 (2020/6/7)
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https://www.data-box.jp/pdir/1bb4fd88535a4afeaa65b64d3a146a22
「やらせアンケートしてましてん!」
5年前(2015 年)に、中学校教科書の採択が行われた時、ある教科書出版社―育鵬社―が、 大阪府内(岸和田市)に本社のあるフジ住宅(株)を動かし、同社の社員を勤務中に大量動員し ました。たとえば大阪市内に 30 箇所以上ある教科書展示会へ「さみだれ式」に出向かせ、大 阪市教育委員会へのアンケートに、「育鵬社の教科書が一番良い」などと、同社社員1人あた り最大 25 回も書かせました。そうして、育鵬社支持の合計を 700 枚以上にする(市民全体の アンケート数は 1,153 枚)、巨大な不正行為を起こしました。その結果、大阪市をはじめ泉佐 野市・四條畷市・河内長野市などにおいて、育鵬社の歴史・公民教科書が合計約4万冊も採択 されたことは、まだ多くの方々の記憶に残っているかもしれません(以上の事実確認は、どうか 2016/2/24 前後の新聞各紙をご覧下さい。あるいは拙著『日本会議とは何か』合同出版で)。
子どもたちの教育と深く関わる教科書をめぐり、その出版会社とこれを支持する一部の企業 や宗教団体(「日本会議」などと名乗っています)が、こうした不正行為を、大阪府下の各地 で白昼堂々とおこなったことは、にわかに信じがたいことです。しかし、子どもたちの教育の場へ、こんな黒い魔の手が延びようとしている事実に、私たちは早く気づき、真剣になって警 戒をしなければならないことを5年前の事件は教えてくれています。
今年 2020年も、やがて8月には、この3月に検定合格した各教科書を、各自治体の教育委 員会が採択します。その対象の中には、育鵬社も、なぜか検定済みとして並んでいます。育鵬 社の教科書は、中を読んでみれば、多くの間違いを抱えた「欠陥教科書」であることはわかり ます。その兄弟版の教科書である自由社の歴史教科書も、今年、検定不合格となりました。しかし、この育鵬社は、政治家と巧妙に深く結びつくなどして、今回も検定をすり抜け、まだ生き残っているのです。
「今年も狙いまっせ、大阪!」
その育鵬社が今年も狙うターゲットの一つが大阪ということは、5年前と同じです。そのと き獲得したシェア(全国児童生徒の約6%)のうち 28.6 %は、他ならぬこの大阪府内から取ったからです。これを失うことはできません。しかも、この5年間に高まってきた「不正な採 択を許した」ことへの反省(たとえば大阪市は、前回1つの採択区だったため、すべてを彼らが押さえました。しかし、危険を分散化させるため、同市はすでに採択区を4つに分割しまし た)により、強い逆風を受けています。
そこで育鵬社は今年、自身の歴史教科書の冒頭において合計6頁も使い、大阪対策のキャン ペーンで埋めています(その一部を次ページに引用しました)。その内容とは、子どもたちの 「大阪の歴史ワクワク調査隊」が4班に分かれ、それぞれのテーマをもって、調べてまわる物語です。「大阪の皆さん、育鵬社は、大阪をこんなに大切に、大きく扱っています。だから、 採択してくださいよっ!」と、教育委員会や教科書の選定にあたる先生方へ呼びかけているのです。
その中でもポイントとなるのが、昨年、世界遺産として登録された大阪府堺市の「大仙古墳 (仁徳天皇陵)」は〝世界一大きい〟という誇大宣伝、もう一つが「世界最古の縄文文明」と いうシロモノです。〝世界最古の縄文文明の上に、世界最大の墓が、この大阪にはある〟というのです。しかし、ソレ本当でしょうか?子どもたちに、私たち大人は、ナンと答えたら良いのでしょうか?
「育鵬社」教科書p13・14
「とことん、張り合いまっせ!」
簡単な所から解決していきましょう。まず「大仙古墳は世界一大きいか?」です。 育鵬社の歴史教科書は、次のように書きます。「海外から船に乗り来た人は、上町台地に沿って北上して難波宮に着いた(今の大阪府庁の南ー上杉)と推測される。船上からは、まず仁徳天皇陵(大仙古墳)を目にして、その大きさにびっくり。次に、四天王寺の五重塔をみて、 またびっくり! したのではないか」(p.14)と。
ちょっと待って! 朝鮮半島から来る船は、瀬戸内という静かな内海へ西から入ると、東へ とまっすぐ走り、やがて淡路島の北端、つまり明石海峡をすり抜け、目の前にかすかに見える 難波宮へ向かったと考えられます。これが安全かつ最短の航路です。その動線からみると、大 仙古墳は直線で 15 ㎞ほど南へ逸れます。往復すると、30 ㎞ほどよけいに走ることになるのです。帆船の速度は、せいぜい 20 ㎞/時くらいですから、往き帰りに1時間半ほどかかる計算で す。
大仙古墳を眺めて反転し、もう一度北上するとき、また今度は四天王に寺の五重塔を海から 眺めながら難波宮へ入るというのは、観光旅行としてはとても面白い企画ですが、それらは海から、実際はどのように見えたのでしょうか?
もし、船上の人々が「びっくり!した」というのであれば、せめて奈良時代から江戸時代に かけて、誰かの紀行文にその光景は描かれたことでしょう。地元の教育委員会にもこれを尋ね たところ、いろいろ探したようです。しかし、まだ1つも発見されていません。いえ、どうも 存在しないようです。それもそのはず、海からの眺めは、たいしたことないからです。 まず大仙古墳は、今の海岸線か ら、ビルが邪魔して全く見えません。古墳のいちばん高いところ(後 円部)でも、35.8 メートルしかないからです。ただし、そのすぐ南側に履中古墳があり、全国の前方後円墳で第3位の大きさです。大仙古墳と比べると、全長と高さは それぞれの76%ほどです。そし てこちらは、今も当時の海岸線(石 津川の河口付近)から眺めることができます。
それが写真1です。鉄橋の向こうにかすかに見えています。大仙古墳なら、左右はこの 1.3 倍ほど長くなります。履中古墳の高さ(27.6 メートル)は、造られた当初は、土の上に石を敷 いただけでしたから、今よりかなり低くなります。ただ逆に、今生えている樹木の高さは 10メートルほどありますから、それを加えると、大仙古墳の元の高さと同じ程度になります。大 仙古墳は、履中古墳と標高差がほとんどありませんので、当時、大仙古墳を海から見ると、高さは樹木を含んだ写真1程度、その左右の長さがその約 1.3 倍程度あったと考えることができます。しかし見栄えは、あまりパッとしませんね。
いっぽう、四天王寺の五重塔の高さは、尖塔を含めて 39 メートルありました。こちらは大仙古墳より少し高いので す。でもその姿(写真2)を見ても、たいして高く感じません。しかも、当時の海岸線は、ここから 1.5 ㎞ほど西へ離れています。遠くからお箸の高さくらいには見えたでしょうが、わざわざ他国からやってきた船を遠回りさせ、海上から眺める価値ある観光スポットとは、とても思えません。育鵬社の教科書は、観光パンフとしては失敗作です。
たしかに、高さ 35.8 メートルの大仙古墳は、周囲を歩いて近くから見上げると、今見てもかなり高く、迫力あります。しかし、それを超える墓は、当時世界中にいくらでもありました。たとえば、エジプトのクフ王のピラミッドは 146.6 メートルと高さ4倍、秦の始皇帝陵の墳墓も 76 メートル、大仙古墳の倍以上でした。大仙古墳程度なら、世界に掃いて捨てるほどあったのです。ついでに言いますが、 現在の通天閣が 108 メートル、あべのハルカスは 300 メートです。大阪にそんな見物スポットが、昔からあったというのは、妄想です。
そもそも古墳とは、石造建築のピラミッドなどと全く違い、古来から私たちの先祖が野山に 死者を埋めた「土まんじゅう」を巨大化した「小山」にすぎません。構造そのものが柔らかい ど 土から出来ていますので、そんなに高く造れないのです。外国からやってきた人々を驚かそう と思っても、そんな石造建築技術は、残念ながら当時ありませんでした。しかし、エジプトは、 大仙古墳が造られる 3000 年も前に、クフ王のピラミッドを1個 2.5 ~ 7 トンの石 230 万個を重 ねて造りました。全体が、巨大で正確な二等辺三角形、4辺の方位も、正確に東西南北を示し ています。今でもこれは困難な工法と言われます(大林組ビラミッド建設プロジェクトチーム)。 当時の圧倒的な建設技術の差は、その構造と高さによく表れているのです。
「始皇帝陵は無視させてもらいまっ!」
ただ、ピラミッドの底辺は、1辺が230.4メートルしかありません。底の面積=広さ53,084 ✕㎡ です。これと比べると大仙古墳は、タテ横が486 307メートルもあります。面積149,202㎡ です。始皇帝の墳墓も、1辺約350メートルですから、底辺の広さ122,500㎡。大仙古墳の方 が、少し始皇帝墓より大きそうです。
しかし、古墳しか見てこなかった私たち日本人からすると、その墓の範囲といえば、せいぜ い墳丘か、せめてその周りを囲む掘割までです。しかし始皇帝陵の場合、その墓を、2重の陵 園壁が囲んでいます(これだけで大仙古墳の約2倍。次頁の図参照)。さらにその内と外には、馬坑、倍葬坑、兵馬俑などがいくつも散在しています。その範囲は、全体で55平方キロメートルに及びます。この広さは、なんと東京山手線内の面積の約90%、大阪環状線内の面積なら、その183%にあたります。大仙古墳を含んで10の古墳がある大阪府堺市の「百舌鳥古墳群」と、応神古墳を含む17ほどの古墳がある「古市古墳群」(大阪府羽曳野市・藤井寺市)を合わせた広さになります。1人の皇帝の陵墓が、27人分ほどの日本列島の古墳と、ほぼ同じ広さということから、始皇帝陵の「桁違い」が明らかなのです。
もうひとつ、大阪の子どもた ちを「井の中の蛙」にしないた め、大切なことを書いておきましょう。それは、墓の高さや広 さが、そこに埋葬された人の本 当の偉さを表すとはかぎらない、えらということです。始皇帝陵は、 実は「深い」のです。
中国の古くからの考え方では、死者の体は、地底深くへ還ると考えられていました。そのため、殷や周の時代の墓は、地中深くに造られました。これが変わるのが、中国の戦国時代(BC403∼同221)ころからとされています。ただ、秦の始皇帝時代(B C247∼221)には、まだ古い形が残っていたらしく、彼の墓は、地下30メートルまで掘られていることが発掘によって明らかになりました。おまけに、水銀反応がその土から出てきたのです。司馬遷の『史記』には、始皇帝の墓室は「水銀を流して川や海とした」と書かれていることそのままかもしれない、と今考えられています。これが、今後の学術調査で厳密に確認されたなら、深さでも始皇帝陵は「世界一」ということなります。「高さや広さだけ見ていたら、墓比べの世界では勝てまへん!」というわけです。
しかし、そもそも墓比べをしてどうなるというのでしょう?始皇帝陵には、いくつもの刑徒 墓があります。囚人を多数使って建設した可能性があるのです。さらに古い中国の墓には、戦 争捕虜などが「生け贄」とされ、すべて首を斬られた状態で、時には一つの墓に1,000人以上 が埋葬されています。あるいは、1人の男王の側室とみられる若い女性(13∼26歳)たち17人 が、道連れに埋められた墓も発見されています(以上については、多くを都出比呂志『王陵の 考古学』岩波新書、東京国立博物館等『特別展/始皇帝と大兵馬俑』などから得ました)。
日本の古墳についても、そうした記録があります。日本最古の大型前方後円墳の箸墓古墳(奈良県)は、造られた時期と大きさが『魏志倭人伝』の記述とほぼ一致するため、卑弥呼の墓とも推測されています。同書は「卑弥呼が死んだ。大きな塚をつくった。直径百余歩、殉死するもの百余人」としています。また大化の改新の翌年、孝徳天皇が「わが人民が貧しいのは、 ぬ ひ むやみみに立派な墓を造るためである」「およそ人が死んだときに殉死したり、あるいは殉死 を強制し、死者の馬を殉死させ…る旧俗は、ことごとく皆やめよ」と命じています(『日本書 紀』)。その頃から、古墳の造営は全国でピタリと止まります。
こうした事実を踏まえるとき、墓の大きさでその社会や指導者の偉大さを比較するほど愚か なことはありません。民衆が流した汗と涙が「墓」に含まれていることを想い、人と社会が真 に偉大であるとはいったいどのようなことなのか、を考える素材とすべきでしょう。それこそ、古墳を歴史の中でとらえる意味ではないでしょうか。大仙古墳は、そうした意味からして、や はり世界遺産なのです。
「中国、朝鮮、日本、いっしょくたで『日本』、はどないだっ?」
もしこの教科書を読み、そのまま信じたら、「アホな大阪人」と呼ばれそうな子どもたちが、 大阪に何万人も生まれそうで心配です。この「大仙古墳は世界一」のアイデアは、育鵬社歴史 教科書の前身が生まれる20年前からのものでした。その妄想を支えたひとつが「縄文時代は 世界一古い文明」という、アイデアでした。「縄文時代前期中頃…に栗の栽培など…シュメー ルなどの都市文明と同時期に、予想以上に高度の文明がわが列島内に構築されていた」(新し い歴史教科書をつくる会編『国民の歴史』扶桑社、1999年10月)。〝栗を栽培していたら、も う立派な文明!〟とまでの主張は、さすがに検定で削られましたが、〝世界最古の縄文土器〟 として、またその縄文時代の長さの誇り方については、今の育鵬社教科書に生きています。
縄文時代のはじまり
今から約1万6000年前、人々は、食物を煮炊きしたり保存したりするための土器をつくり 始めました。これらの土器は、その表面に縄目の模様(文様)がつけられることが多かった ため、のちに縄文土器とよばれることになります。縄文土器は、北海道から沖縄まで日本 列島全体から出土しています。これは世界で最古の土器の一つで、縄文土器と磨製石器が 使用されていた約 1 万 6000 年前から紀元前4世紀ごろまでを縄文時代とよび、このころ の文化を縄文文化といいます。 (育鵬社歴史教科書 p.26、ゴチック体は上杉による)
日本列島の豊かな自然と暮らし
青森県の三内丸山遺跡からは、約5000年前の巨大な(縄文-上杉)集落跡が発見され、大型の竪穴住居跡や掘立柱建物跡、さらには遠くはなれた地域との交易で手に入れたヒスイ や黒曜石などが見つかりました…人々が豊かな自然と調和して暮らし、1万年以上続いた 縄文時代は、その後の日本文化の基盤をつくりました。そして、縄文時代の人々と、その後、大陸からやってきた人々が交じり合い、しだいに共通の言葉や文化をもつ日本人が形づくられていきました。 (同前 p.27、ゴチック体は筆者による)
〝一万年以上つづいた縄文時代〟の証拠として挙げられるのが、〝 16,000 前に作られた縄文土器が(日本に)ある。1 万年以上も続いたその偉大な縄文時代の頂点に、巨大な三 内丸山遺跡もあった〟という考えです。それが、やがてあの〝世界一大きな大仙古墳〟の造営へとつながったというのです。
しかし、日本の歴史の「しょっぱな」の縄文時代から、 大きな錯覚にとらわれているようです。その幻をぬぐい去 ってもらうためには、まず「日本列島」がいつ頃生まれた かを考えると良いと思います。日本列島は、わずか 11,000 年前に生まれたものです。「おや?」と思わないでくださ いよ。それまでこの地は、ユーラシア大陸の一部でした。 巨大な湖を囲む形で、今の北海道と九州は大陸ときっちりつながり、人も動物も歩いて行き来していたのです。念のため、約3万年前の地図を上にのせておきます。
ですから、上の育鵬社教科書が書いている「約 1 万 6000 年前の土器」というのは(わずか 1つですが)、この地図の範囲に住んでいた人々が、今の日本や朝鮮、中国の関係なく、ゆる く共有してきた土器だったと考えられるのです。その証拠に、今の中国江西省の洞窟からは、 約 20,000 年前に作られた土器が出ていますし、シベリアでも 16,500 年前の土器が確認されて います。おそらく人類は、ユーラシア大陸の中心部から東端へ移動しつつ、やがて気候と食べ 物が変わる頃、各地で土器を作るようになったと考えられます。これを、あえて名づければ、〝東ユーラシア文化圏〟と呼んで良いかもしれません。
その一部(巨大湖の東南部)が、大陸から離れて列島になるのは、今から約 11,000 年前ころです。無理矢理、大陸から切り離されて列島となった地域は、大陸における文化の発展から 取り残されました。しかし、逆に列島内で、ゆるやかな纏まりをもつことができるようになり、やがて独自の道を歩み始めます。それを日本の史家が「縄文文化」としたのです。したがって、 1998 年に青森県から出土した 16,500 年前の土器に「縄の文様」はありません。上の呼び方でいけば、まだ「東ユーラシア文化圏」の土器であり、縄文時代の土器ではないのです。
「ナルホド、たんに長けりゃええんと、ちゃいまんねんな!」
といっても、それから 9,000 年ちかく、列島内へは大規模な外敵の侵入もなく、おだやかに 繋がる内発的な発展が中心となりました。時折、大陸から小さな船に乗って移住する人々がい れば、その人たちを列島で受け止めながら、大陸の文明を吸収し、長期的停滞社会を維持して きたのです。言い換えるなら、この列島地域は、「ガラパゴス化」を遂げたのでした。ダーウィンは、太平洋の東端の赤道直下にあるガラパゴス諸島に、独自に進化を遂げた動物が多数い ることを発見し、進化論のヒントを得たと言われます。日本列島も、大陸から切り離される「不幸」に見舞われながらも、それをゆるやかで独自の内的なエネルギーへと換えて歩んできたと いえます。
三内丸山遺跡が発見されたとき、〝巨大な縄文王国〟と騒がれました。1992 年から本格的 な調査が行われ、580 棟もの竪穴住居、2階建で 300 人が入れる大堂があり、この遺跡は 1,500 年も続いていたことなど分かると、縄文ブームの火がつきました。しかし、よく調べてみると、 580 棟というのは、1,500 年にわたり約 20 年ごとに建て替えられた住居の土台跡の全体数のこ とでした。平均すると、各時期に8棟程度が並んでいたにすぎず、一家5人と計算して約 40 人が暮らす集落でした。大堂に入る人数も、立ってなら 300 人ですが、座れば 120 人ほどでし た。作業場としてなら、さらにその何分の一かになります。周辺の他集落からも集まる集会場 か、ムラ全体の作業場であったと今は考えられています。40 人の住む場所なら、これはクニなどでなく、ムラです。
こうした小規模で長期の停滞状態こそ、縄文時代の本質と見るべきでしょう。というのも、 この時代、人々が自然へ働きかける力はまだ弱く、食料の確保など、多くをまだ自然環境に依存していたからです。
もともと縄文時代の始まりは、地球が約 10 万年の周期で繰り返す最後の氷期の終わる約1万年前後に生じた温暖化で、植物の種類が変化し(落葉広葉樹林が拡大)、それを基礎としてユーラシア大陸の東部のシベリア・中国長江周辺・ザバイカル地方などで「土器使用と定住の開始」と特徴付けられる初期文化圏(前農耕時代)が広がりました。これこそ、縄文時代の前提となったのでした。そして、地表の氷が大量に溶けた結果、海面は 50~100 メートルも上昇し、ユーラシア大陸から切り離された列島の中で、地理的な隔離により縄文文化がゆっくり形 成させられたのでした。列島内では、大まかに 6~8 地域へ分住し、それぞれが一定の独自性をもちつつ、少しずつ発展していきました。その人口の変化を、育鵬社歴史教科書は、下のようにまとめています。これは、たんに現在の人口学の成果をグラフ化したものなので、「ヘン」 な図ではありません。ただ、その前と後が大きく削られているので、私の方で補いましょう。
まず、左端に「縄文早期 2(万人)」とあります。そこから左に位置するけれども描かれ ていない約 4,000 年間は、ほぼ同程度の人口か、それ以下だったと考えられます。そして「縄 文中期 26(万人)」が最盛期です。今の列島内の人口を1億人とすると 400 分の1にすぎま せん。さらに「縄文晩期 8(万人)」へかけて、人口が 激減する不安定さをもって いました。これが縄文時代 の限界でした。
しかし、弥生時代になると、すぐさま縄文時代のピーク時の2倍となり、古墳 時代の初まりまでには、さらに 10 倍の人口へと達しま す。水田稲作よる変化でした。これらを見るとき、大陸からの水田稲作の移入がいかに巨大な変化をこの列島社会へ与えたか、よくわかります。また、縄文時代の貧しさと停滞性を、逆に、浮き上がらせます。
縄文時代の人々の身長は、男 158 ㎝、女 148 ㎝、平均して弥生時代より4㎝ほど低いのが特 徴です。平均寿命も 30 歳と低く、乳児死亡率の高さが平均を引き下げていたようです。ただし、当時、集団死はなく、チフスやペスト、最近のコロナウィルスのような伝染病はなかったと考えられます(なにしろソーシャル・デイスタンスが保たれていましたからね)。
「この列島は、平和で平等な時代の方が長かったんでんなーっ!」
この 9,000 年にわたる長期停滞社会だった縄文時代を、世界最古の文明へと仕立てるという のは、やはり無理なことでした。ただ、この時代の人骨を見るとき、個人的な病死や暴力死は あるが、戦争による集団死もないようです。そうした遺骨が出土するのは弥生時代になります。 弥生以降に生まれた豊かさの中で、富は一部の人間に集積され、集団の利害を、戦争で「解決」 する方向へと「文明」を持って行きました。これは、ほぼ全世界的な傾向でもあります。
「文明」とは、都市・文字・階級・冶金(高温で金属をつくる技術)などの指標で括られる社会です。しかし、この縄文時代、人々は殺人のための武器を作らず、財産の相続もなく、無 差別・無階級の時代を生きました。感染症も、人が集中する都市化の結果です。それもこの時 期には見えません。もちろん天皇もいない時期でした。この永い平和で平等な縄文時代の歴史を考えるとき、むしろ弥生時代以降の階級と差別、戦争を克服することこそ、文明を生きる私たちの課題でありつづけていることを、ここに改めて自覚させられるのではないでしょうか。 了
子どもたちに渡すな!あぶない教科書 大阪の会 共同代表 上杉 聰 (2020/6/7)
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「やらせアンケートしてましてん!」
5年前(2015 年)に、中学校教科書の採択が行われた時、ある教科書出版社―育鵬社―が、 大阪府内(岸和田市)に本社のあるフジ住宅(株)を動かし、同社の社員を勤務中に大量動員し ました。たとえば大阪市内に 30 箇所以上ある教科書展示会へ「さみだれ式」に出向かせ、大 阪市教育委員会へのアンケートに、「育鵬社の教科書が一番良い」などと、同社社員1人あた り最大 25 回も書かせました。そうして、育鵬社支持の合計を 700 枚以上にする(市民全体の アンケート数は 1,153 枚)、巨大な不正行為を起こしました。その結果、大阪市をはじめ泉佐 野市・四條畷市・河内長野市などにおいて、育鵬社の歴史・公民教科書が合計約4万冊も採択 されたことは、まだ多くの方々の記憶に残っているかもしれません(以上の事実確認は、どうか 2016/2/24 前後の新聞各紙をご覧下さい。あるいは拙著『日本会議とは何か』合同出版で)。
子どもたちの教育と深く関わる教科書をめぐり、その出版会社とこれを支持する一部の企業 や宗教団体(「日本会議」などと名乗っています)が、こうした不正行為を、大阪府下の各地 で白昼堂々とおこなったことは、にわかに信じがたいことです。しかし、子どもたちの教育の場へ、こんな黒い魔の手が延びようとしている事実に、私たちは早く気づき、真剣になって警 戒をしなければならないことを5年前の事件は教えてくれています。
今年 2020年も、やがて8月には、この3月に検定合格した各教科書を、各自治体の教育委 員会が採択します。その対象の中には、育鵬社も、なぜか検定済みとして並んでいます。育鵬 社の教科書は、中を読んでみれば、多くの間違いを抱えた「欠陥教科書」であることはわかり ます。その兄弟版の教科書である自由社の歴史教科書も、今年、検定不合格となりました。しかし、この育鵬社は、政治家と巧妙に深く結びつくなどして、今回も検定をすり抜け、まだ生き残っているのです。
「今年も狙いまっせ、大阪!」
その育鵬社が今年も狙うターゲットの一つが大阪ということは、5年前と同じです。そのと き獲得したシェア(全国児童生徒の約6%)のうち 28.6 %は、他ならぬこの大阪府内から取ったからです。これを失うことはできません。しかも、この5年間に高まってきた「不正な採 択を許した」ことへの反省(たとえば大阪市は、前回1つの採択区だったため、すべてを彼らが押さえました。しかし、危険を分散化させるため、同市はすでに採択区を4つに分割しまし た)により、強い逆風を受けています。
そこで育鵬社は今年、自身の歴史教科書の冒頭において合計6頁も使い、大阪対策のキャン ペーンで埋めています(その一部を次ページに引用しました)。その内容とは、子どもたちの 「大阪の歴史ワクワク調査隊」が4班に分かれ、それぞれのテーマをもって、調べてまわる物語です。「大阪の皆さん、育鵬社は、大阪をこんなに大切に、大きく扱っています。だから、 採択してくださいよっ!」と、教育委員会や教科書の選定にあたる先生方へ呼びかけているのです。
その中でもポイントとなるのが、昨年、世界遺産として登録された大阪府堺市の「大仙古墳 (仁徳天皇陵)」は〝世界一大きい〟という誇大宣伝、もう一つが「世界最古の縄文文明」と いうシロモノです。〝世界最古の縄文文明の上に、世界最大の墓が、この大阪にはある〟というのです。しかし、ソレ本当でしょうか?子どもたちに、私たち大人は、ナンと答えたら良いのでしょうか?
「育鵬社」教科書p13・14
「とことん、張り合いまっせ!」
簡単な所から解決していきましょう。まず「大仙古墳は世界一大きいか?」です。 育鵬社の歴史教科書は、次のように書きます。「海外から船に乗り来た人は、上町台地に沿って北上して難波宮に着いた(今の大阪府庁の南ー上杉)と推測される。船上からは、まず仁徳天皇陵(大仙古墳)を目にして、その大きさにびっくり。次に、四天王寺の五重塔をみて、 またびっくり! したのではないか」(p.14)と。
ちょっと待って! 朝鮮半島から来る船は、瀬戸内という静かな内海へ西から入ると、東へ とまっすぐ走り、やがて淡路島の北端、つまり明石海峡をすり抜け、目の前にかすかに見える 難波宮へ向かったと考えられます。これが安全かつ最短の航路です。その動線からみると、大 仙古墳は直線で 15 ㎞ほど南へ逸れます。往復すると、30 ㎞ほどよけいに走ることになるのです。帆船の速度は、せいぜい 20 ㎞/時くらいですから、往き帰りに1時間半ほどかかる計算で す。
大仙古墳を眺めて反転し、もう一度北上するとき、また今度は四天王に寺の五重塔を海から 眺めながら難波宮へ入るというのは、観光旅行としてはとても面白い企画ですが、それらは海から、実際はどのように見えたのでしょうか?
もし、船上の人々が「びっくり!した」というのであれば、せめて奈良時代から江戸時代に かけて、誰かの紀行文にその光景は描かれたことでしょう。地元の教育委員会にもこれを尋ね たところ、いろいろ探したようです。しかし、まだ1つも発見されていません。いえ、どうも 存在しないようです。それもそのはず、海からの眺めは、たいしたことないからです。 まず大仙古墳は、今の海岸線か ら、ビルが邪魔して全く見えません。古墳のいちばん高いところ(後 円部)でも、35.8 メートルしかないからです。ただし、そのすぐ南側に履中古墳があり、全国の前方後円墳で第3位の大きさです。大仙古墳と比べると、全長と高さは それぞれの76%ほどです。そし てこちらは、今も当時の海岸線(石 津川の河口付近)から眺めることができます。
それが写真1です。鉄橋の向こうにかすかに見えています。大仙古墳なら、左右はこの 1.3 倍ほど長くなります。履中古墳の高さ(27.6 メートル)は、造られた当初は、土の上に石を敷 いただけでしたから、今よりかなり低くなります。ただ逆に、今生えている樹木の高さは 10メートルほどありますから、それを加えると、大仙古墳の元の高さと同じ程度になります。大 仙古墳は、履中古墳と標高差がほとんどありませんので、当時、大仙古墳を海から見ると、高さは樹木を含んだ写真1程度、その左右の長さがその約 1.3 倍程度あったと考えることができます。しかし見栄えは、あまりパッとしませんね。
いっぽう、四天王寺の五重塔の高さは、尖塔を含めて 39 メートルありました。こちらは大仙古墳より少し高いので す。でもその姿(写真2)を見ても、たいして高く感じません。しかも、当時の海岸線は、ここから 1.5 ㎞ほど西へ離れています。遠くからお箸の高さくらいには見えたでしょうが、わざわざ他国からやってきた船を遠回りさせ、海上から眺める価値ある観光スポットとは、とても思えません。育鵬社の教科書は、観光パンフとしては失敗作です。
たしかに、高さ 35.8 メートルの大仙古墳は、周囲を歩いて近くから見上げると、今見てもかなり高く、迫力あります。しかし、それを超える墓は、当時世界中にいくらでもありました。たとえば、エジプトのクフ王のピラミッドは 146.6 メートルと高さ4倍、秦の始皇帝陵の墳墓も 76 メートル、大仙古墳の倍以上でした。大仙古墳程度なら、世界に掃いて捨てるほどあったのです。ついでに言いますが、 現在の通天閣が 108 メートル、あべのハルカスは 300 メートです。大阪にそんな見物スポットが、昔からあったというのは、妄想です。
そもそも古墳とは、石造建築のピラミッドなどと全く違い、古来から私たちの先祖が野山に 死者を埋めた「土まんじゅう」を巨大化した「小山」にすぎません。構造そのものが柔らかい ど 土から出来ていますので、そんなに高く造れないのです。外国からやってきた人々を驚かそう と思っても、そんな石造建築技術は、残念ながら当時ありませんでした。しかし、エジプトは、 大仙古墳が造られる 3000 年も前に、クフ王のピラミッドを1個 2.5 ~ 7 トンの石 230 万個を重 ねて造りました。全体が、巨大で正確な二等辺三角形、4辺の方位も、正確に東西南北を示し ています。今でもこれは困難な工法と言われます(大林組ビラミッド建設プロジェクトチーム)。 当時の圧倒的な建設技術の差は、その構造と高さによく表れているのです。
「始皇帝陵は無視させてもらいまっ!」
ただ、ピラミッドの底辺は、1辺が230.4メートルしかありません。底の面積=広さ53,084 ✕㎡ です。これと比べると大仙古墳は、タテ横が486 307メートルもあります。面積149,202㎡ です。始皇帝の墳墓も、1辺約350メートルですから、底辺の広さ122,500㎡。大仙古墳の方 が、少し始皇帝墓より大きそうです。
しかし、古墳しか見てこなかった私たち日本人からすると、その墓の範囲といえば、せいぜ い墳丘か、せめてその周りを囲む掘割までです。しかし始皇帝陵の場合、その墓を、2重の陵 園壁が囲んでいます(これだけで大仙古墳の約2倍。次頁の図参照)。さらにその内と外には、馬坑、倍葬坑、兵馬俑などがいくつも散在しています。その範囲は、全体で55平方キロメートルに及びます。この広さは、なんと東京山手線内の面積の約90%、大阪環状線内の面積なら、その183%にあたります。大仙古墳を含んで10の古墳がある大阪府堺市の「百舌鳥古墳群」と、応神古墳を含む17ほどの古墳がある「古市古墳群」(大阪府羽曳野市・藤井寺市)を合わせた広さになります。1人の皇帝の陵墓が、27人分ほどの日本列島の古墳と、ほぼ同じ広さということから、始皇帝陵の「桁違い」が明らかなのです。
もうひとつ、大阪の子どもた ちを「井の中の蛙」にしないた め、大切なことを書いておきましょう。それは、墓の高さや広 さが、そこに埋葬された人の本 当の偉さを表すとはかぎらない、えらということです。始皇帝陵は、 実は「深い」のです。
中国の古くからの考え方では、死者の体は、地底深くへ還ると考えられていました。そのため、殷や周の時代の墓は、地中深くに造られました。これが変わるのが、中国の戦国時代(BC403∼同221)ころからとされています。ただ、秦の始皇帝時代(B C247∼221)には、まだ古い形が残っていたらしく、彼の墓は、地下30メートルまで掘られていることが発掘によって明らかになりました。おまけに、水銀反応がその土から出てきたのです。司馬遷の『史記』には、始皇帝の墓室は「水銀を流して川や海とした」と書かれていることそのままかもしれない、と今考えられています。これが、今後の学術調査で厳密に確認されたなら、深さでも始皇帝陵は「世界一」ということなります。「高さや広さだけ見ていたら、墓比べの世界では勝てまへん!」というわけです。
しかし、そもそも墓比べをしてどうなるというのでしょう?始皇帝陵には、いくつもの刑徒 墓があります。囚人を多数使って建設した可能性があるのです。さらに古い中国の墓には、戦 争捕虜などが「生け贄」とされ、すべて首を斬られた状態で、時には一つの墓に1,000人以上 が埋葬されています。あるいは、1人の男王の側室とみられる若い女性(13∼26歳)たち17人 が、道連れに埋められた墓も発見されています(以上については、多くを都出比呂志『王陵の 考古学』岩波新書、東京国立博物館等『特別展/始皇帝と大兵馬俑』などから得ました)。
日本の古墳についても、そうした記録があります。日本最古の大型前方後円墳の箸墓古墳(奈良県)は、造られた時期と大きさが『魏志倭人伝』の記述とほぼ一致するため、卑弥呼の墓とも推測されています。同書は「卑弥呼が死んだ。大きな塚をつくった。直径百余歩、殉死するもの百余人」としています。また大化の改新の翌年、孝徳天皇が「わが人民が貧しいのは、 ぬ ひ むやみみに立派な墓を造るためである」「およそ人が死んだときに殉死したり、あるいは殉死 を強制し、死者の馬を殉死させ…る旧俗は、ことごとく皆やめよ」と命じています(『日本書 紀』)。その頃から、古墳の造営は全国でピタリと止まります。
こうした事実を踏まえるとき、墓の大きさでその社会や指導者の偉大さを比較するほど愚か なことはありません。民衆が流した汗と涙が「墓」に含まれていることを想い、人と社会が真 に偉大であるとはいったいどのようなことなのか、を考える素材とすべきでしょう。それこそ、古墳を歴史の中でとらえる意味ではないでしょうか。大仙古墳は、そうした意味からして、や はり世界遺産なのです。
「中国、朝鮮、日本、いっしょくたで『日本』、はどないだっ?」
もしこの教科書を読み、そのまま信じたら、「アホな大阪人」と呼ばれそうな子どもたちが、 大阪に何万人も生まれそうで心配です。この「大仙古墳は世界一」のアイデアは、育鵬社歴史 教科書の前身が生まれる20年前からのものでした。その妄想を支えたひとつが「縄文時代は 世界一古い文明」という、アイデアでした。「縄文時代前期中頃…に栗の栽培など…シュメー ルなどの都市文明と同時期に、予想以上に高度の文明がわが列島内に構築されていた」(新し い歴史教科書をつくる会編『国民の歴史』扶桑社、1999年10月)。〝栗を栽培していたら、も う立派な文明!〟とまでの主張は、さすがに検定で削られましたが、〝世界最古の縄文土器〟 として、またその縄文時代の長さの誇り方については、今の育鵬社教科書に生きています。
縄文時代のはじまり
今から約1万6000年前、人々は、食物を煮炊きしたり保存したりするための土器をつくり 始めました。これらの土器は、その表面に縄目の模様(文様)がつけられることが多かった ため、のちに縄文土器とよばれることになります。縄文土器は、北海道から沖縄まで日本 列島全体から出土しています。これは世界で最古の土器の一つで、縄文土器と磨製石器が 使用されていた約 1 万 6000 年前から紀元前4世紀ごろまでを縄文時代とよび、このころ の文化を縄文文化といいます。 (育鵬社歴史教科書 p.26、ゴチック体は上杉による)
日本列島の豊かな自然と暮らし
青森県の三内丸山遺跡からは、約5000年前の巨大な(縄文-上杉)集落跡が発見され、大型の竪穴住居跡や掘立柱建物跡、さらには遠くはなれた地域との交易で手に入れたヒスイ や黒曜石などが見つかりました…人々が豊かな自然と調和して暮らし、1万年以上続いた 縄文時代は、その後の日本文化の基盤をつくりました。そして、縄文時代の人々と、その後、大陸からやってきた人々が交じり合い、しだいに共通の言葉や文化をもつ日本人が形づくられていきました。 (同前 p.27、ゴチック体は筆者による)
〝一万年以上つづいた縄文時代〟の証拠として挙げられるのが、〝 16,000 前に作られた縄文土器が(日本に)ある。1 万年以上も続いたその偉大な縄文時代の頂点に、巨大な三 内丸山遺跡もあった〟という考えです。それが、やがてあの〝世界一大きな大仙古墳〟の造営へとつながったというのです。
しかし、日本の歴史の「しょっぱな」の縄文時代から、 大きな錯覚にとらわれているようです。その幻をぬぐい去 ってもらうためには、まず「日本列島」がいつ頃生まれた かを考えると良いと思います。日本列島は、わずか 11,000 年前に生まれたものです。「おや?」と思わないでくださ いよ。それまでこの地は、ユーラシア大陸の一部でした。 巨大な湖を囲む形で、今の北海道と九州は大陸ときっちりつながり、人も動物も歩いて行き来していたのです。念のため、約3万年前の地図を上にのせておきます。
ですから、上の育鵬社教科書が書いている「約 1 万 6000 年前の土器」というのは(わずか 1つですが)、この地図の範囲に住んでいた人々が、今の日本や朝鮮、中国の関係なく、ゆる く共有してきた土器だったと考えられるのです。その証拠に、今の中国江西省の洞窟からは、 約 20,000 年前に作られた土器が出ていますし、シベリアでも 16,500 年前の土器が確認されて います。おそらく人類は、ユーラシア大陸の中心部から東端へ移動しつつ、やがて気候と食べ 物が変わる頃、各地で土器を作るようになったと考えられます。これを、あえて名づければ、〝東ユーラシア文化圏〟と呼んで良いかもしれません。
その一部(巨大湖の東南部)が、大陸から離れて列島になるのは、今から約 11,000 年前ころです。無理矢理、大陸から切り離されて列島となった地域は、大陸における文化の発展から 取り残されました。しかし、逆に列島内で、ゆるやかな纏まりをもつことができるようになり、やがて独自の道を歩み始めます。それを日本の史家が「縄文文化」としたのです。したがって、 1998 年に青森県から出土した 16,500 年前の土器に「縄の文様」はありません。上の呼び方でいけば、まだ「東ユーラシア文化圏」の土器であり、縄文時代の土器ではないのです。
「ナルホド、たんに長けりゃええんと、ちゃいまんねんな!」
といっても、それから 9,000 年ちかく、列島内へは大規模な外敵の侵入もなく、おだやかに 繋がる内発的な発展が中心となりました。時折、大陸から小さな船に乗って移住する人々がい れば、その人たちを列島で受け止めながら、大陸の文明を吸収し、長期的停滞社会を維持して きたのです。言い換えるなら、この列島地域は、「ガラパゴス化」を遂げたのでした。ダーウィンは、太平洋の東端の赤道直下にあるガラパゴス諸島に、独自に進化を遂げた動物が多数い ることを発見し、進化論のヒントを得たと言われます。日本列島も、大陸から切り離される「不幸」に見舞われながらも、それをゆるやかで独自の内的なエネルギーへと換えて歩んできたと いえます。
三内丸山遺跡が発見されたとき、〝巨大な縄文王国〟と騒がれました。1992 年から本格的 な調査が行われ、580 棟もの竪穴住居、2階建で 300 人が入れる大堂があり、この遺跡は 1,500 年も続いていたことなど分かると、縄文ブームの火がつきました。しかし、よく調べてみると、 580 棟というのは、1,500 年にわたり約 20 年ごとに建て替えられた住居の土台跡の全体数のこ とでした。平均すると、各時期に8棟程度が並んでいたにすぎず、一家5人と計算して約 40 人が暮らす集落でした。大堂に入る人数も、立ってなら 300 人ですが、座れば 120 人ほどでし た。作業場としてなら、さらにその何分の一かになります。周辺の他集落からも集まる集会場 か、ムラ全体の作業場であったと今は考えられています。40 人の住む場所なら、これはクニなどでなく、ムラです。
こうした小規模で長期の停滞状態こそ、縄文時代の本質と見るべきでしょう。というのも、 この時代、人々が自然へ働きかける力はまだ弱く、食料の確保など、多くをまだ自然環境に依存していたからです。
もともと縄文時代の始まりは、地球が約 10 万年の周期で繰り返す最後の氷期の終わる約1万年前後に生じた温暖化で、植物の種類が変化し(落葉広葉樹林が拡大)、それを基礎としてユーラシア大陸の東部のシベリア・中国長江周辺・ザバイカル地方などで「土器使用と定住の開始」と特徴付けられる初期文化圏(前農耕時代)が広がりました。これこそ、縄文時代の前提となったのでした。そして、地表の氷が大量に溶けた結果、海面は 50~100 メートルも上昇し、ユーラシア大陸から切り離された列島の中で、地理的な隔離により縄文文化がゆっくり形 成させられたのでした。列島内では、大まかに 6~8 地域へ分住し、それぞれが一定の独自性をもちつつ、少しずつ発展していきました。その人口の変化を、育鵬社歴史教科書は、下のようにまとめています。これは、たんに現在の人口学の成果をグラフ化したものなので、「ヘン」 な図ではありません。ただ、その前と後が大きく削られているので、私の方で補いましょう。
まず、左端に「縄文早期 2(万人)」とあります。そこから左に位置するけれども描かれ ていない約 4,000 年間は、ほぼ同程度の人口か、それ以下だったと考えられます。そして「縄 文中期 26(万人)」が最盛期です。今の列島内の人口を1億人とすると 400 分の1にすぎま せん。さらに「縄文晩期 8(万人)」へかけて、人口が 激減する不安定さをもって いました。これが縄文時代 の限界でした。
しかし、弥生時代になると、すぐさま縄文時代のピーク時の2倍となり、古墳 時代の初まりまでには、さらに 10 倍の人口へと達しま す。水田稲作よる変化でした。これらを見るとき、大陸からの水田稲作の移入がいかに巨大な変化をこの列島社会へ与えたか、よくわかります。また、縄文時代の貧しさと停滞性を、逆に、浮き上がらせます。
縄文時代の人々の身長は、男 158 ㎝、女 148 ㎝、平均して弥生時代より4㎝ほど低いのが特 徴です。平均寿命も 30 歳と低く、乳児死亡率の高さが平均を引き下げていたようです。ただし、当時、集団死はなく、チフスやペスト、最近のコロナウィルスのような伝染病はなかったと考えられます(なにしろソーシャル・デイスタンスが保たれていましたからね)。
「この列島は、平和で平等な時代の方が長かったんでんなーっ!」
この 9,000 年にわたる長期停滞社会だった縄文時代を、世界最古の文明へと仕立てるという のは、やはり無理なことでした。ただ、この時代の人骨を見るとき、個人的な病死や暴力死は あるが、戦争による集団死もないようです。そうした遺骨が出土するのは弥生時代になります。 弥生以降に生まれた豊かさの中で、富は一部の人間に集積され、集団の利害を、戦争で「解決」 する方向へと「文明」を持って行きました。これは、ほぼ全世界的な傾向でもあります。
「文明」とは、都市・文字・階級・冶金(高温で金属をつくる技術)などの指標で括られる社会です。しかし、この縄文時代、人々は殺人のための武器を作らず、財産の相続もなく、無 差別・無階級の時代を生きました。感染症も、人が集中する都市化の結果です。それもこの時 期には見えません。もちろん天皇もいない時期でした。この永い平和で平等な縄文時代の歴史を考えるとき、むしろ弥生時代以降の階級と差別、戦争を克服することこそ、文明を生きる私たちの課題でありつづけていることを、ここに改めて自覚させられるのではないでしょうか。 了