街巡りから外れるが、日光東照宮に歴代将軍が社参した中で、
家光が抜きん出て多いのは、父2代目秀忠より家康を慕っていた
といわれ、尊崇に近い思い入れがあったようだ。
家康は天下を取ると、全国のほとんどの金銀鉱山を配下に納め、
それから江戸初期のゴールドラッシュが始まる。全ての金が幕府
に集まり、徳川家は当時、世界一の金持ちとなる。
3代目家光は、その財産を桁外れに浪費した。日光東照宮の造
営に57万両、日光社参の1回の費用が10万両かかっている。さ
らに、家光は父の2代目秀忠と2度、単独で1回、上洛しており、
単独行の時は数万人の大軍を従えて行っている。その時、当時の
天皇や公卿にも献金しており、京の町民にも祝儀をばらまき23
万両を使い、上洛の経費と合わせて50万両に上ったといわれて
いる。
家光一代で総計500万両が浪費されたといわれ、幕府の財源
が逼迫していく元をつくった。それでも家光が病気で亡くなった
慶安4年(1651)、幕庫にはまだ600万両残っていた。
当時の貨幣の価値を現在の価値に換算する場合は、米価や金価
格をスケールにして表されるが、当時の1両は約20万円とされ
る。ちなみに1分金は5万円、1両は4千文、1文は50円とい
うところだ。
家光が抜きん出て多いのは、父2代目秀忠より家康を慕っていた
といわれ、尊崇に近い思い入れがあったようだ。
家康は天下を取ると、全国のほとんどの金銀鉱山を配下に納め、
それから江戸初期のゴールドラッシュが始まる。全ての金が幕府
に集まり、徳川家は当時、世界一の金持ちとなる。
3代目家光は、その財産を桁外れに浪費した。日光東照宮の造
営に57万両、日光社参の1回の費用が10万両かかっている。さ
らに、家光は父の2代目秀忠と2度、単独で1回、上洛しており、
単独行の時は数万人の大軍を従えて行っている。その時、当時の
天皇や公卿にも献金しており、京の町民にも祝儀をばらまき23
万両を使い、上洛の経費と合わせて50万両に上ったといわれて
いる。
家光一代で総計500万両が浪費されたといわれ、幕府の財源
が逼迫していく元をつくった。それでも家光が病気で亡くなった
慶安4年(1651)、幕庫にはまだ600万両残っていた。
当時の貨幣の価値を現在の価値に換算する場合は、米価や金価
格をスケールにして表されるが、当時の1両は約20万円とされ
る。ちなみに1分金は5万円、1両は4千文、1文は50円とい
うところだ。