NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2024.6.13)掲載されたのは〈秀長、多武峰から遷座/大織冠鎌足神社(大和郡山市)〉。この神社は、再来年のNHK大河ドラマの主人公・豊臣秀長ゆかりの神社だ。
※トップ写真は、大織冠鎌足神社の拝殿=大和郡山市南郡山町で
執筆されたのは大和郡山市在住で、「大和郡山市観光ボランティアガイドクラブ」メンバーの森田康義さんだった。森田さんは私の勤務先の先輩でもある。では、全文を以下に紹介する。
秀長、多武峰から遷座 大織冠鎌足神社(大和郡山市)
郡山城(大和郡山市)の西北の丘陵地に、祭神を藤原鎌足公とする大織冠鎌足(たいしょくかんかまたり)神社が鎮座します。大織冠は鎌足公の冠位、尊称です。
談山神社文書(「大和志料」所収)などによると、1585(天正13)年9月郡山の地に百万石の太守として入城した豊臣秀長は、豊臣政権の権威付けと郡山城の鎮守として桜井市の多武峰(とうのみね)にある大織冠鎌足公の御神霊を郡山に移そうとしました。
ところが多武峰一山の反対にあい、なかなか実現しませんでした。そこで秀長は1587(天正15)年11月郡山新多武峰の社殿を郡山城の西方丘陵地に造営し、翌年4月に遷座させるという強硬手段に訴えました。
しかし、帰山運動が起こり、秀長の病気に際しても大織冠の祟(たた)りであると訴え、ついに1590(天正18)年12月帰山が許されました。郡山遷座はわずか3年足らずに終わったのです。帰山後も一部の衆徒(しゅと)や地元の人々によって鎌足公の御分霊を祭り、大織冠宮と称していました。
1789(寛政元)年、郡山城主柳澤保光により現在地に移されたのが今の大織冠鎌足神社で、霊験あらたかな神として崇拝されてきました。今も郡山に「大職冠」、「藤原町」の鎌足公由来の地名を留めています。(奈良まほろばソムリエの会会員 森田康義)
(住 所)大和郡山市南郡山町697
(祭 神)藤原鎌足公
(例 祭)10月16日
(交 通)近鉄郡山駅から奈良交通バス・大和小泉駅東口行きなどで「大職冠」下車。西北へ徒歩約10分。駐車場なし
(拝 観)境内自由
※トップ写真は、大織冠鎌足神社の拝殿=大和郡山市南郡山町で
執筆されたのは大和郡山市在住で、「大和郡山市観光ボランティアガイドクラブ」メンバーの森田康義さんだった。森田さんは私の勤務先の先輩でもある。では、全文を以下に紹介する。
秀長、多武峰から遷座 大織冠鎌足神社(大和郡山市)
郡山城(大和郡山市)の西北の丘陵地に、祭神を藤原鎌足公とする大織冠鎌足(たいしょくかんかまたり)神社が鎮座します。大織冠は鎌足公の冠位、尊称です。
談山神社文書(「大和志料」所収)などによると、1585(天正13)年9月郡山の地に百万石の太守として入城した豊臣秀長は、豊臣政権の権威付けと郡山城の鎮守として桜井市の多武峰(とうのみね)にある大織冠鎌足公の御神霊を郡山に移そうとしました。
ところが多武峰一山の反対にあい、なかなか実現しませんでした。そこで秀長は1587(天正15)年11月郡山新多武峰の社殿を郡山城の西方丘陵地に造営し、翌年4月に遷座させるという強硬手段に訴えました。
しかし、帰山運動が起こり、秀長の病気に際しても大織冠の祟(たた)りであると訴え、ついに1590(天正18)年12月帰山が許されました。郡山遷座はわずか3年足らずに終わったのです。帰山後も一部の衆徒(しゅと)や地元の人々によって鎌足公の御分霊を祭り、大織冠宮と称していました。
1789(寛政元)年、郡山城主柳澤保光により現在地に移されたのが今の大織冠鎌足神社で、霊験あらたかな神として崇拝されてきました。今も郡山に「大職冠」、「藤原町」の鎌足公由来の地名を留めています。(奈良まほろばソムリエの会会員 森田康義)
(住 所)大和郡山市南郡山町697
(祭 神)藤原鎌足公
(例 祭)10月16日
(交 通)近鉄郡山駅から奈良交通バス・大和小泉駅東口行きなどで「大職冠」下車。西北へ徒歩約10分。駐車場なし
(拝 観)境内自由
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