今日の「田中利典師曰く」は、「懺悔懺悔六根清浄」(師のブログ 2014.8.11付)、名著『体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書)』からの抜粋である。師は今、金峯山寺「千人結縁灌頂会(せんにちけちえんかんじょうえ)」の真っ最中だ。
※トップ写真は、吉野山の民家で咲いていた桜(3/28撮影)
本文で〈「懺悔(さんげ)」とはまさに神仏にひれ伏す世界。とてつもない汗が身体中から流れ出ると同時に、六根(つまり眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ)がきれい浄化されていく、そういう思いを体験するのです〉と語る。では、以下に全文を抜粋する。
「懺悔懺悔六根清浄」
山々、谷々をこだまして響きわたる「さーんげさんげ(懺悔懺悔)、ろっこんしょうじょう(六根清浄)」の掛け念仏。テレビ番組などで何度か紹介されたこともあり、ご存じの方もあるでしょう。
峻険な登り道にかかると、必ず先頭を行く奉行さんから掛け念仏の大合唱が始まります。延々と続く山坂道。一心不乱に声を出し、身体を前へ進めます。そうすることで、身も心も知らず知らずのうちに、掛け念仏と同化していく、そんな気にさせてくれる大合唱なのです。この大合唱が大切なのです。
われわれ修験者にとって、山は神仏の顕現そのものと観念します。いわゆる曼荼羅の世界。そのお山に行って、一日中、一心不乱に修行三昧に埋没します。大声を出して、山坂道に苦悩します。自分を奮い立たせ、掛け念仏を唱和します。
「懺悔」とはまさに神仏にひれ伏す世界。とてつもない汗が身体中から流れ出ると同時に、六根(つまり眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ)がきれい浄化されていく、そういう思いを体験するのです。
人間は、眼と耳と鼻と舌と身体を使って、ものを見、ものを知って、行動し、心(意)でもって判断します。意識するしないに関わらず、「身と心」でもって行為していくわけです。罪・汚れもまた、心と身体で重ねていく。
その罪・汚れを懺悔し、その罪を作るもととなる六根を清浄にしていただけるのがこのお山での一時なのです。それはまた現代風に言葉を換えれば、神仏によって「癒される」一時と言えるでしょう。
都会の雑多な喧騒を離れ、癒しの山へ入るとき、われわれの心と身体は蘇生するのです。蘇生させていただいているという実感が、山伏の入峰修行にはあります。古来より入峰修行は一度死んで生まれ変わる擬死回生の修行といわれましたが、現代でもなお、新しい意味をもって生き続けています。
そういう意味では修験道というのは、ひじょうに親切な教えであるともいえます。山伏は、山に臥し、野に臥して修行をするから山伏なわけで、山岳修行が修験道の基本です。山を曼荼羅世界、神仏在す世界と見て、「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えながら、実際に自分自身の身体を使って歩いていく。そこになにか気づきを得ることがあるのです。
ただ机の上で学んでいるだけでは、実感に結びつかないようなことでも、山の中で修行すると、誰もが実感できる、そういう世界が保たれています。
役行者の遺訓に曰く、「身の苦によって心乱れざれば証果自ずから至る」の教えそのものです。そんな役行者以来の宗教的実践を重んじるあり方はある意味、時代を越えた万人向きの親切な教えということができます。
※トップ写真は、吉野山の民家で咲いていた桜(3/28撮影)
本文で〈「懺悔(さんげ)」とはまさに神仏にひれ伏す世界。とてつもない汗が身体中から流れ出ると同時に、六根(つまり眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ)がきれい浄化されていく、そういう思いを体験するのです〉と語る。では、以下に全文を抜粋する。
「懺悔懺悔六根清浄」
山々、谷々をこだまして響きわたる「さーんげさんげ(懺悔懺悔)、ろっこんしょうじょう(六根清浄)」の掛け念仏。テレビ番組などで何度か紹介されたこともあり、ご存じの方もあるでしょう。
峻険な登り道にかかると、必ず先頭を行く奉行さんから掛け念仏の大合唱が始まります。延々と続く山坂道。一心不乱に声を出し、身体を前へ進めます。そうすることで、身も心も知らず知らずのうちに、掛け念仏と同化していく、そんな気にさせてくれる大合唱なのです。この大合唱が大切なのです。
われわれ修験者にとって、山は神仏の顕現そのものと観念します。いわゆる曼荼羅の世界。そのお山に行って、一日中、一心不乱に修行三昧に埋没します。大声を出して、山坂道に苦悩します。自分を奮い立たせ、掛け念仏を唱和します。
「懺悔」とはまさに神仏にひれ伏す世界。とてつもない汗が身体中から流れ出ると同時に、六根(つまり眼・耳・鼻・舌・身・意の六つ)がきれい浄化されていく、そういう思いを体験するのです。
人間は、眼と耳と鼻と舌と身体を使って、ものを見、ものを知って、行動し、心(意)でもって判断します。意識するしないに関わらず、「身と心」でもって行為していくわけです。罪・汚れもまた、心と身体で重ねていく。
その罪・汚れを懺悔し、その罪を作るもととなる六根を清浄にしていただけるのがこのお山での一時なのです。それはまた現代風に言葉を換えれば、神仏によって「癒される」一時と言えるでしょう。
都会の雑多な喧騒を離れ、癒しの山へ入るとき、われわれの心と身体は蘇生するのです。蘇生させていただいているという実感が、山伏の入峰修行にはあります。古来より入峰修行は一度死んで生まれ変わる擬死回生の修行といわれましたが、現代でもなお、新しい意味をもって生き続けています。
そういう意味では修験道というのは、ひじょうに親切な教えであるともいえます。山伏は、山に臥し、野に臥して修行をするから山伏なわけで、山岳修行が修験道の基本です。山を曼荼羅世界、神仏在す世界と見て、「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱えながら、実際に自分自身の身体を使って歩いていく。そこになにか気づきを得ることがあるのです。
ただ机の上で学んでいるだけでは、実感に結びつかないようなことでも、山の中で修行すると、誰もが実感できる、そういう世界が保たれています。
役行者の遺訓に曰く、「身の苦によって心乱れざれば証果自ずから至る」の教えそのものです。そんな役行者以来の宗教的実践を重んじるあり方はある意味、時代を越えた万人向きの親切な教えということができます。
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