てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

寄り道しながらボルゲーゼへ(1)

2009年12月19日 | 美術随想

シモーネ・フェリーチェ・デリーノ(原画)、ジョヴァンニ・ジャコモ・デ・ロッシ(刷り)
『ピンチアーナ門外ヴィラ・ボルゲーゼ卿の庭園景観図』(ボルゲーゼ美術館蔵)

 京都で開催された「ボルゲーゼ美術館展」を観た。

 実はこの展覧会が開幕する2日ほど前に所用で岡崎公園を歩いたのだが、会場の入口前に三角屋根のついた巨大な看板が作られ、スタッフが円柱に造花を巻きつけている現場に遭遇した。展覧会を広く宣伝するだけでなく、一抹の品位も添えようという試みだろうが、そんなものを作るカネがあったら少しでも入場料を安くしてくれればいいのに、というのがぼくの本音だ。

 なぜこんなイヤミったらしいことを書くかというと、ちょっとしたわけがある。京阪沿線に住むようになったので、駅のチラシにある「京阪交通社主要営業所で前売割引券発売中」という言葉を信じて三条駅で券を買おうとしたのだが、「ここでは扱っておりません」とけんもほろろなあいさつをされたのだ。三条が主要な駅ではないというのなら話はわかるが、どうもそうは思えない。いったいどうなっているのであろうか?(ちなみに前売券は、このあと美術館のそばにある画材屋で無事に入手した。来年の頭に行くつもりの「日展」の券とともに。博宝堂さん、いつもお世話になります。)

                    ***


ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿の胸像』(ボルゲーゼ美術館蔵)

 さてボルゲーゼといえば、イタリアの作曲家レスピーギの『ローマの松』の冒頭に登場する「ボルゲーゼ荘の松」を思い出す。それぐらいの知識しか、ぼくにはない。

 ただ、レスピーギが描写したそれは、高音のホルンやトランペットが聴く者の耳をつんざき、ラチェットという打楽器がガラガラと神経をかきむしる、まことにやかましく品のない音楽である。戯れる子供たちを描いたのだ、とレスピーギ自身は解説しているようだが、どこの国でも子供というのはかくも騒々しく御しがたいものなのかと思う。こんな場所からラファエロやカラヴァッジョの高貴な名画が来日した、といわれても、あまりピンとこない。

 調べてみると、ボルゲーゼ美術館の建物はシピオーネ・ボルゲーゼという男の別荘だったという。彼は貴族であり枢機卿でもあり、当時の芸術家の一大パトロンだったということだ。展覧会場にはベルニーニが刻んだ大理石によるボルゲーゼの胸像が出品されていた(上図)。


参考画像:ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ『アポロンとダフネ』(ボルゲーゼ美術館蔵)

 ベルニーニといえば、いつぞや写真で見た『アポロンとダフネ』という名作をすぐに思い出す。アポロンの手から逃れようとするダフネの指先や足もとは、すでに月桂樹に変貌しはじめている。静止した瞬間をあらわすものと思い込んでいた彫刻に、これほどダイナミックな時間の変化(たとえば映画の大魔神で、腕が顔の前を横切るとたちまち憤怒の形相に変わるシーンがあるが、あの数秒間をひとつの造形に凝縮させたような)を盛り込むなど、ぼくには人間わざと思えなかった。のちに京都国立博物館で木彫の『宝誌和尚立像』と出会い、人物の顔が真っ二つに割れて観音様の顔がのぞくという斬新な描写に背筋が凍ったときは、これぞ東西の“動ける彫刻”の二大傑作ではないかと断じざるを得なかった。弓を引き絞るブールデルのヘラクレスだって、ロダンの『歩く男』だって、ここまで劇的な時間性は含まれていないような気がする。


参考画像:『宝誌和尚立像』(部分、京都国立博物館寄託)

 しかし今度の展覧会に出品されているベルニーニは、恰幅のよいパトロンの肖像ひとつだった。男は正式な枢機卿の服装をしているようで、大理石製ではあるが実際には真紅の角帽とマントを身につけていたのだろう。滑らかな衣の襞の表現はため息が出るほど見事で、ベルニーニは天才であると認めざるを得ないが、やはり物足りない。『アポロンとダフネ』や『プロセルピナの略奪』といった大作が海を越えて来日するには、イタリア大使館肝煎りのプロジェクト「日本におけるイタリア2009・秋」といえども力及ばなかったようである。

つづきを読む


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。