てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

津高和一ふたたび(3)

2006年08月27日 | 美術随想
 あてはないけれども、とにかく歩き出すしか方法はない。ぼくは変に頭を使うことはしないで、足の向くままに歩いていくことにした。

 土曜日の昼近い住宅街は、まだ平日と週末の境目でまどろんでいるかのように、物憂い表情を見せている。あの日とはちがって、街は平穏な日常の底に沈んでいるのである。高くのぼった太陽だけが、あたりをじりじりと照らしつける。

 考えてみれば、地震が起こったのは冬のさなかであった。今でも1月17日になると、厳しい冷え込みの中、朝早くからろうそくの灯がともされ、あちこちで追悼の式典がおこなわれるのだ。ぼくが震災後の西宮をさまよっていたときも、かなり寒かったにちがいない。しかしぼくは、薄手のブレザーを一枚着込んだだけで歩き回っていたのである。寒さを感じた記憶は、なぜかまったくない。「心頭滅却すれば火もまた涼し」というのとはちょっとちがうが、あのときは寒さを感じる余裕などなかったのだろう。

   *

 どこをどう歩いたか、はっきりとは覚えていないが、やがて大きな通りに出た。道沿いにしばらく行くと、墓地があった。横目でちらりと墓碑を見ると、「津高家」などと書いてある。

 先ほど津高家の表札をたくさん見てきたので、近くに津高家代々の墓があっても驚くにはあたらない。しかしどうしても、ここに津高和一も眠っているのではないか、との思いを抑えることができなかった。見回しても、墓参りをしている人は誰もいない。ぼくは無人の墓地の中へ、ずかずか入っていった。

 やはり津高家の墓がいくつもある。古いのもあるし、比較的新しそうな墓石もある。ぼくは喉の奥で詫び言をつぶやきながら、石に刻まれた名前と没年を順々に見ていった。しかし、津高和一その人の名前はなかなか見つからなかった。

   *

 そうこうするうちに、ぼくは内心忸怩たる思いに駆られてきた。さっきからぼくのやっていることは、どうもあまりほめられたことではないようだ。こんなことをするために、西宮に来たのではなかったはずである。

 震災後のあの日には、ぼくは確かに知人の家の所在地も調べないまま、何のあてもなく西宮まで駆けつけてしまったけれども、そのときは一刻も無駄にはできないと思えるほど切羽詰まっていた(結局は相手の家を探し当てることはできず、後日改めて出直さなければならなかった)。しかし、今日は事情がちがうではないか? 火急の用事など、ありはしないのだ。

 ぼくは冷静さを欠いている自分自身に気がついて、恥ずかしくなった。「お騒がせしました」。・・・もう一度喉の奥で小さくつぶやいて、逃げるようにそこを立ち去った。

   *

 後でわかったことだが、津高和一の墓は駅からほど近い法心寺というところにあるそうである。もしまた西宮に立ち寄る機会があったら、そのときこそは必ず訪れてみたいと思う。

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