てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

夏はどこから(4)

2016年07月08日 | 美術随想

〔美術館裏の庭園を歩く〕

 この美術館から帰る前の習慣として、建物を取り巻く庭園を一周することにしている。今日は暑かったが、天気がいいので、ついふらふらと足が向いた。実は、あまり人と出会うことのない穴場でもある。

 庭のある美術館というと島根の足立美術館が世界的に知られているようだが、遠くの山々や滝まで取り入れたその広大な庭園に比べると、こちらの庭はこぢんまりとしている。周辺にある住宅地や小学校 ― あの村上春樹を輩出した学校だそうだ ― から目隠しをするため、庭のぐるりは壁で囲われているけれど、さまざまな植物といくつかの彫刻作品を眺め、ときに水の流れに耳をなぶらせつつ散策するひとときは、眠っていた五感を眼覚めさせてくれる。


〔途中には水琴窟もある。水を滴らせて響きを楽しむのも一興〕


〔ひっそりと咲くガクアジサイ〕

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 あちこちに石灯籠が見え、和の空間を醸し出そうとしているのかと思いきや、そうでもない。茶室もあるが、外観はとてもモダンだ。園内の随所に、山口牧生(まきお)や元永定正といった現代の彫刻も点在している。署名はないが、かつてこのブログで紹介した、津高和一の彫刻もある。

 自然石にほんのちょっと手を加えたように見える山口の作品は、それこそ間違い探しのように、草むらのなかや木の根もとなど、さりげないところに置かれている。ぼくは山口の展覧会というものを観たことはなく、これまで野外彫刻に接したことがあるだけだが ― たしか芦屋にも、滋賀にもあったはずだ ― こういう場所で展示されたほうが、彼の作風が際立って感じられるのは不思議なことだ。自然を模しながら、自然になり切れない、ささやかな“人工”のかたち。たとえれば、古代の墓や、ストーンヘンジなどと近いものすら感じられる。


〔元永定正の彫刻は草に埋もれている〕

 それとは一変して、カラフルに彩色された元永の彫刻は、明らかな“違和感”として、そこにある。つまりは、まったく不自然なのである。ただ、その奇妙な相性のわるさが、次第に心地よく感じられてくるからおもしろいのだ。

 はるか昔、ぼくが子どものころに「ひらけ!ポンキッキ」という番組で見た、歌の背景に流れる映像を思い出す。そこでは公園のような広場の中央に、ミロの巨大な彫刻が鎮座していて、まるで“公園のヌシ”といったようなおもむきで周囲を睥睨しているのだ。しかし子供たちは、やがてそのミロとも仲よくなり、分け隔てなく遊びはじめるのだろう。まだ幼かったぼくが、真っ先にミロの作品を好きになり、そこを入口にして美術の奥深い世界へはまり込んでいったことを考えてみれば、まことに示唆的である。

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岡本太郎『午後の日』(1967年)

 庭園を一周すると、そこに待っているのが、岡本太郎の有名な『午後の日』である。小学生のころ、ミロ展から数年して太郎のこの作品と出会い、夢中になったことを覚えている。実際には丸っこい顔と、それを支える両手しか作られていないのだが、ぼくには顔の向こうに彼の胴体と、その両足すら見えるような気がする。ついでながら、東京の多磨霊園にある太郎の墓標は、これと同じかたちをしているらしい。ということは、太郎の自画像(自刻像)といってもいいのだろうか。

 この美術館には、意外なことだが、この彫刻のほかにも岡本太郎の作品が収蔵されているようである。何年か前、ふと思い立って所蔵品展に足を運んだところ、太郎のものがいくつかあって、思わず心のなかで歓喜の声を上げた。太郎の絵や彫刻を観ると、まだ理屈ではなく、感性のままに美術を享受していた、かつての楽しかった日々が思い起こされるのだ。

 この日も、岡本太郎に見送られて、美術館の門を出た。例によって暑苦しい外気がすぐに全身を包んだが、そのなかをひとり進むぼくは、たった今生まれ落ちたばかりのように、見るもの聞くものすべてが楽しくて仕方ないのだった。

(了)


DATA:
 「川村悦子展 ― ありふれた季節」
 2016年6月11日~7月31日
 西宮市大谷記念美術館

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