てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

夏はどこから(3)

2016年07月06日 | 美術随想

〔「川村悦子展」のチケット〕

 川村悦子には、ひとことでいえば、“蓮を極めて写実的に描く画家”という印象をもっていた。同じモチーフを繰り返し取り上げるのは、現代では当たり前のことだ。そしてまた、まるで写真のような写実絵画というのも、昨今の流行のひとつといえるかもしれない。

 ただ、川村は単に写実的な蓮を描いているわけではない、とぼくは思っていた。近づいて眺めるとわかるが、彼女の作品の絵肌には、細かい傷というのか、引っかいた筋のようなものがたくさんある。古い映画のフィルムを流すと、雨が降っているように無数の線が映る、あんな感じだ。

 川村の絵画にとって、この筋は何を意味するのか・・・。ぼくなりに考えてみたが、本当のところはわからない。ただ、精密な絵画が単なる“写真の模倣”のように思われることへの、ささやかな抵抗なのではあるまいか? という気はする。写実的でありながら、やはり絵画でしか表現できないものをこそ、彼女は探求しているのではなかろうか。

 この日は猛暑だったせいか、冷房の効いた美術館でくつろぐために、意外なほど多くの来館者で賑わっていた。ただ興味深かったのは、彼らが絵の前に立つたびに、まるで言葉を忘れたように黙りこくって、じっと作品と向き合っている姿だった。いや、絵に吸い込まれそうになるのをじっとこらえている、というふうにも見えた。

 ありふれた蓮の群生という題材と、近づきがたいまでに細かく丁寧に再現された画家の技法とがあいまって、絵画ならではの混沌とした世界へ、観る者が絡めとられていく。決して難しい絵ではないのに、さりげなくやり過ごすことができないで、思わず立ち止まってしまう。これこそ、ぼくが理想とする、美術鑑賞のかたちだといっていい。

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 ぼくが知らなかった、比較的初期の作品も展示されていた。どこかの外国の景色を、高い窓から眺め下ろしている構図である。ただ、その窓ガラスは一面に結露していて、一部分だけ手で拭ったような形跡があり、そこからほんのわずかだけ鮮明な風景がのぞく。しかし大半は、曇ったガラスの向こう側に、おぼろに隠されている。

 写実という技法を採用しながら、あえて隔靴掻痒たる、もどかしさを醸し出す表現。これはヘソマガリなようにも思えるが、視覚をキャンバスに定着させるという行為に伴う試行錯誤が、そのままあらわれているともいえる。

 特筆すべきは、曇りガラスの上の水滴の表現だ。まるで画面から盛り上がっているようだと、絵を真横から眺める人が何人かいたが、もちろんそれは平面に描かれているのである。そして蓮を描いた近作では、蓮の葉の上にたまった雫として、絵に潤いを与えている。外の猛暑をほんの少しでも忘れることができたとしたら、それは美術館の空調のおかげというよりも、静謐な川村悦子の絵画世界がもたらしたものだろう。美術とは、こうやって心穏やかに眺めるのが本来の姿だ、と思いたい。

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