玉作、といへば『続日本紀』神亀五年四月丁丑条に「改丹取軍団為玉作団」とあるのを初見とし、天平九年「玉造柵」、宝亀十一年「玉作城」、延暦八年「玉造塞」と見える地点があって、宮城県古川市の名生館遺跡に比定されているのであるが、蝦夷対策の拠点のひとつとなった場所である。「元慶の乱」については、わたしはじぇんじぇん知らないんだけど、朝廷側についた蝦夷は秋田城管轄の俘囚らしいので、上記木簡や元慶の乱の「玉作」さんは、かなり早い段階で朝廷に「帰順」し、出羽国に移住させられた蝦夷、ということになるのだろうか?
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