典顧堂日月鈔 on blog

日記というか雑記というか…… 人様にお見せすることを前提とはしておりません。

西武が優勝したわけであるが

2004年10月11日 22時17分03秒 | Weblog
昨日は夕方、ってゆっか、夜から外出。雨の伊勢佐木町と歌舞伎町に存在して、朝帰ってきたらしい。
今日は一日中寝ていたらしい。
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貼り付けの実験を兼ねて

2004年10月11日 22時06分51秒 | Weblog
 唐の都・長安のあった中国・西安で、8世紀前半に阿倍仲麻呂らとともに遣唐使として渡りながら、現地で亡くなった日本人留学生の墓誌(死者の簡単な伝記)が見つかった。その人生や、死を惜しんだ玄宗皇帝が高官の役職を贈ったことなどが記されていた。この時代の日本人の墓誌が中国で発見されたのは初めて。古代東アジアの交流や、遣唐使の実態を伝える前例のない発見といえる。西安で10日開かれた記者会見で発表されたと、中国国営新華社通信が伝えた。
 西安の西北大学博物館が最近入手したもので、39.5センチ四方の石に、名前は「井真成」で「国号日本」など12行で171文字が刻まれていた。生まれつき優秀、国命で派遣され勉学に励み、宮廷で役職についたが、急病で開元22(734)年に36歳で死去、魂は故郷に帰るだろう、といったことが記されている。
 現存の実物資料としては国号「日本」が使用された最古の例となる。
 共同通信によると、西安市内の工事現場で見つかり個人が収蔵していたものを西北大の博物館員が収集した。
 当時の遣唐使は十数年に一度の不定期。年齢から、717年の遣唐使に19歳で留学生として参加したとみられる。奈良に都を移してから初の遣唐使にあたる。仲麻呂や吉備真備、僧玄●(●は日へんに方)(げんぼう)らに乗組員を加えた、総勢557人の回だ。
 遣唐使の参加者は、唐で活躍した仲麻呂のほかは、日本で五位以上の官位を持つ参加者しか記録されていないため、この人物に該当する記述はなく、日本名などは分からない。
 死後に皇帝から贈られたのは、その近くに仕える「尚衣奉御」(尚衣局の責任者)という、従五品上の役職。中国の官位は一~九品に分かれ、五品以上が皇帝の前に出ることができる殿上人だ。唐で役人として出世したほぼ同年齢の仲麻呂は、真成が死亡した年に従五品下に昇格しており、2人は似たコースを歩んでいた可能性が強い。仲麻呂は安南節度使(ベトナム地方の長官)にまで昇進している。
 墓誌には朝廷内の役職についていたことを示唆する記述はあるが、実際にどのような役職だったのかは記されていない。
    ◇
 氣賀澤保規・明治大教授(中国史)による銘文の抄訳は以下の通り。
 「姓は井、字(あざな)は真成、国は日本と号す。生まれつき優秀で、国命で遠く唐にやってきて、一生懸命努力した。学問を修め、正式な官僚として朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。ところが思わぬことに、急に病気になり開元22年の1月に官舎で亡くなった。36歳だった。皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。尚衣奉御の位を贈った。2月4日に万年県の川のほとりに埋葬した。体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない」
 〈町田章・奈良文化財研究所所長(考古学)の話〉 阿倍仲麻呂とともに養老元年の遣唐使で行った留学生と見て間違いないだろう。遣唐使の中でも平安に入ってからのものは比較的記録が残っているが、奈良時代の遣唐使については続日本紀などに断片的に記録が残っているだけ。留学生についても、帰ってきて政治家や高僧として成功すれば伝記や紀行文の記録が残るが、若くして向こうに渡ったとすれば日本側の資料では「その他大勢」でしかなく、名前が残らないのも当然と言える。遣唐使の歴史を解明する上で、非常に重要な発見だ。


 奈良時代、唐の都・長安(現・西安)に渡り活躍した一人の日本人の存在が浮かび上がった。中国の西安で発見された墓誌には、留学生として中国に渡り、懸命に学びながら36歳で亡くなった「井真成」の人生が記されていた。1200年以上前の、日中交流の一場面を描き出す驚きの発見。阿倍仲麻呂と同じ717年の遣唐使船に乗り合わせたとみられるが、日本では記録は見つかっていない。どんな人物だったのか、「もう一人の仲麻呂」像を描いてみると……。
 最大の手掛かりは「井」という中国姓だ。
 鈴木靖民・国学院大教授(日本古代史)は、井を日本名の痕跡と考え、「井上」という一族に注目する。現在の大阪府藤井寺市一帯を本拠とし、忌寸(いみき)という渡来系に多い姓(かばね)を与えられていた。遣唐使など外交官の任務につくものが多く出ているという。
 「遣唐使に参加できるのは、特に優秀か、特別なコネがある、限られた人物。高級官僚になるための試験・科挙にも合格したかもしれない。そのためには何より語学力が必要だった」として、「一族きっての秀才で井上真成という名前の若者だったのではないか」と考える。
 東野治之・奈良大教授(日本古代史)は渡来系の氏族、「葛井(ふじい)氏」の出身ではないかと考える。葛井寺(藤井寺市藤井寺)の創建にかかわった河内の貴族で、飛鳥から奈良時代にかけて、遣唐使などを多く出した。「ふじいのまなり――という名前だったのでは」と推定する。
 「皇帝が死を惜しんで官位を追贈したという。こうした厚遇を受けるのは非常に異例のことだ。よほど優秀な留学生だったのだろう」とみる。
 贈られた役職は「尚衣奉御」。石見清裕・早稲田大助教授(中国史)によると、殿中省尚衣局の責任者だという。殿中省は王宮内の管理が業務で、尚衣局は皇帝の衣服関係を担当。奉御はその責任者で2人いた。部下は20人程度で、「部長」的な役回りだったようだ。
 当時の長安は人口100万人の世界一の国際都市。行政や法律の仕組みなどを学ぶために渡った日本の留学生は、いつ来るかわからない次の遣唐使船を待ちながら、勉学、職務に励んだ。実際には次に遣唐使が日本を出発したのは、733年。懸命に学び知識を蓄えた井真成は734年の1月に死亡した。最初の一隻が唐からの帰国の途についたのはその年の秋。故郷に錦を飾るのを目前にした死だったようだ。墓誌には「無念」を思いやる記述が残っている。
   ◇
〈阿倍仲麻呂とは〉墓誌の人物とともに留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂は玄宗皇帝にその才能を認められ、朝衡(ちょうこう)などと名を変えて唐王朝の要職を担った。一度は帰国の途に就いたが船が難破して安南(現在のベトナム)に漂着。再び長安に戻り、安南節度使などを歴任して770年に中国で亡くなった。その名は「続日本紀」などに見える。李白や王維ら一級の文化人とも交遊し、彼らの惜別や哀悼の詩にもうたわれている。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という歌でも知られる。

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