ある記事を見つけた。
「バカになったか、日本人?」橋本治が自民大勝とゾウリムシみたいな日本人をぶった斬り!
橋本治さんという方も知らなかったのだけど、
こんな記事を見つけた。
というか、facebookで人があげていたのだけど。
題だけ見るとすぐ敬遠したくなる自分がおるのだけど、
なぜかって「バカになったか」って自分はバカじゃない人が言っているみたいで
それをうんうんと頷いて読むとしたら自分もじゃない側の人間のように見られてしまう
だとか、とっても庶民的で安直な考えがあるものだからさ。
見られると言ったかって誰が見てるんだてなもんだけれど。
そういうしょぼいことがさっと頭の中をよぎってしまうのもあるんだべよ。
んで言いたいのは、そういうこと抜きにして、めんどうくさいからさ、
そういう話をしたいわけじゃーないんだな。
抜きにして読んで、、、。
なんかこのずばっと感、いいな~って感じたのね。
そしてわかりやすい。
色んなひとの色んな言い様があるし見方があるし考え方があるけれど、
自分の直感というのか、これは危ういぜ、とか、これおもろいぜ、とか、
そういうところ大事にしたいな。
すぐよくわからん論にもならない論になったりしてなにがなんだかわからんくなったりもする。
それは論になるだけの自分の考えなんてなかったりするから。
けれど直感てあるんだね、ただのすききらい。
わたしのくせにもなってて、すぐ偏見があってって言ってる。
それ言わなくていいって言われたけど、ほんとそうやね。
ただのすききらいがあって当然か。
それを偏見ってことばにするのとは違うかったのだ。
音楽とか一番わかりやすいよね。
顔から雰囲気からしゃべり方から、なんか好かん!うけつけません!て人いる。
音とか歌詞とか以前にそんなんで判断というのかしてしまっているところあったりするもの。
けどこの前小田和正さんのクリスマスの約束見て、よかったな~。
特にみんなでうたうところ。
あんなにうれしそうにたのしそうに音をつむいでみんなで同じビートにのって、
それってたのしいんだもんね~。
音楽をそのままずばっとやっている感じで、こっちもハッピーをもらったでした。
これ雪ふりはじめのころ。
結構積もってきたころ。
そんなんでこちら、年末行事の準備もあってじわじわやってます。
今日はみそつきになりました。
味噌から麹から自分らで作ってってるのが当たり前な感じが改めてすごいことだね。
うれしいことだなと思いますた。
ほんで明日はおもちつきだよ~~~ん。
養老孟司さんと内田樹さんの対談
天童荒太さんの「見えない子どもたち」という朝日新聞に掲載されたインタビュー記事
ふたつめの朝日新聞デジタルのは無料登録しないと最後まで読めないっぽい。
なんかわからんけど、おすすめされるからとも言えないと思うんやけど、
こういう文章読むと、おもしろさとうれしさともちろんどきりとする感覚がうまれてくるのですよね。
なんなんやろ。
みなさんいかがお過ごしでしょうか。
ここ北陸も梅雨入り宣言してましたが、その割に雨は降らない。
なんかあちーね。
つい先日、米沢英雄という方の本をおすすめされ読んだ。
「現代に忘れられたもの」という題で彼の講演録のものだから読みやすくすっと読めたのだが、
私がそうすっと読むというのもなかなか珍しくもある。
本をほとんど読まないこともあるし、なかなかおすすめされたから読めるわけでもなく、、といった感じなもので。
米沢英雄という方は明治42年生まれの医学博士なのだが、そんな彼は医学の面からお話するわけでもなく、
ただ彼のそのままの視点から人間教育についてお話してくれている。
人間教育なんて言ったらどんなこっちゃいと敬遠してしまうかもしれないが、なんというか、、。
もっと率直に言えば、人間は人間だけど実を言うと自分と呼べる人間のこともこの世界のことも何も知っちゃいないのに(何も知っちゃいないってこともないか、)何もかもわかってしまっているかのように生きてしまっていて、学問的な教育ばかり重視されている今の現状に疑問と問いを投げかけているわけであります。
と、解釈してみた私なのでありますが、、。
こんなふうに一文で済ましてしまうとなんとも薄っぺらそうなものに聞こえるかもしれないから、私の言葉を丸呑みしないでもらえると有り難い。
読みながら率直に感じるのは、なんかうれしい、という気持ちだった。
さわやかな気持ちになって、気持ちよく喜ばしい、というのか。
どうしてそんな気持ちになるのか自分でもちょっとそれを説明するのは難しいし面倒でもある。
なんだろな、多分この本を読むことでまた戻っていける、帰れる、そんな気がするから多分戻りたくなったり、
戻ることがどういうことかわからなくなったときに、これを読んだら再びその感覚に近づけるという気がするからうれしいのか。
その感覚ってのがなんなのかよくわからんけれども、私にとってとても大事で必要な気がする。
何を言ってんだというくらい実に曖昧なことを言っているのはわかっているけれど、ことばにあらわすには自分でもまだよくわからない。
なんというのかね、このおおきな不思議さと出会える感覚なのかな。
それがうれしいのはなんでだろうね。
ふーむむ。
庭の丁字草
漫画の話。
漫画ってやっぱしすきだがんす。
多分読もうと思えばずっとぐうたら読めちゃうのだす。
けれどその中でも、すききらいもあるさね。
今回はこちらをご紹介したいと思うです。
作者:松本大洋
この方の漫画すきだわす。
絵もすてきやし、ひとつのコマがひとつの額に入ってるような絵みたいなときもあるし、台詞もそんなやし、漫画っぽくないときも多い。
絵と詩、みたいな。
けれど、あの独特の雰囲気がこっちを松本ワールドにワープさせてしまうものがある。
作品では、
例えばこれ。
ピンポンという漫画で、映画にもなっているし、最近アニメ化しているみたい、まだ見ていないけど、それは見たいからやっぱり見る予定。
映画では、ペコが窪塚洋介、スマイルがARATA、ドラゴンが中村獅童、というキャストでしたね。
他にはこれ。
花男という漫画。
なんかアホだけどみんなから親しみをもたれる父ちゃんと勉強ができる優秀で人からは敬遠されがちな息子のふたりの暮らしの話?。
それがなんだかじんわりきちゃう、ある意味結構きれいな話なんだけど、ああいうきれいな話を見せてくれるのってそんなにないとも思うのよね。
自分で持ってておきたくなる漫画だすね。
他にもたくさん書いてて、何作か読んだけどまだ読んでないものもあるのでやんして、それを読みたい、読まねばと思っているのでやんす。
Sunny、だとか、ZERO、だとか、、、ぐーふーふー(ドラえもん風)。
あともうひとり紹介。
作者:岩明均
この人の描く漫画は、、と言っても何作かしか読んだことないけど、なんか妙にはまらせてしまうのです。
私の場合、絵はそうだな~独特で最初は入りづらくもあった。
けど、それがどんどん読み進めていくうちにこういう絵だからこそ出てくるリアル感というのか、どきどきと自分の心音がそこにあってその場の空気を吸っているような気にさせる。
話の流れはとってもそのまんまっちゃそのまんまで、スムーズというのかな、するりと読ませる。
しっかし、この人の描く人間を見ていると、人間とは一体なんなんだろうとか、この社会は、世界は、生物は、地球は、宇宙は、と色々日々あんまり意識しないことを問われる。
それはある意味読む人を責めているような、描いてる本人が自分を責めているような突き詰め方も時にはされる。
そのもがきを垣間見るような見ないような、、見るような。
とにかく読み出したら止まんないくせに、ちょっと読み進めるのがもったいなくもなるっていうね、あるよね~。
私がこの人の作品で初めて読んだのがこれ。
苦手な人は苦手だと思う。
けど、初めて読んだときはこんな漫画があったことを今まで知らずにいたなんて!がちょちょーーーん!てくらいだった。
それくらい衝撃は大きかった。
なんかね、ストーリーはね、、、説明しようと思ったけどちょっとうまいこと言えそうになかったものやから、ウィキペディアから引用。
↓ ↓
謎の寄生生物と共生することになった、平凡な高校生「新一」の数奇な運命を描く。物語は人間の頭に寄生して人間を食べる『寄生生物』側、最初は捕食されるがままであったが後に反撃に転ずる『人間』側、そしてその中間者として存在する『新一とミギー』側という三者の構図で成立するが、話の焦点は新一に置かれている。
ミギーというのは、この新一という主人公と彼の右腕だけにしか寄生できなかった(いわば失敗した)寄生生物、その彼を右腕にちなんでミギーという名前になった彼のこと。
その寄生生物、パラサイトとも呼ばれるが、彼らは高い学習能力によって言葉や知識を急速に獲得し、人間社会に対応していて、
ミギーがどんどん学習していく様を見るのが大きなたのしみのひとつだと思う。
ミギーがどんどんかわいく見えてくるもんだから、おかしなもんで。
ウィキペディアを見て初めて知ったのだけど、今年中に映画化するらしいではないですか。
しかも新一役に、染谷将太。
彼の独特な雰囲気すきやからうれしいな~とも思うけど、ーー化はあんまし好まないと思いつつ、いいやつはいいからな~。
あと、昨日読んだのがこれ。
話の展開がすーっとしているよね。
あんなどでかい話をしていたかと思うと、するっと小さくもできててふしぎに自由自在な感じ。
うーん。
最終巻の終わりの内田樹さんの解説がまたおもしろかった。
割愛させてもらって書かせていただきますと。
ーーー
ーーー僕はこのところずっと「センチネル、歩哨」という人類学的な装置について考えてきていて、岩明さんのマンガもまたどうやら「センチネル」を描いているように思える。
センチネルというのは、人間的な尺度では理解できない法則が支配し、人間的感覚では感知できないものたちがうごめく「外部」と人間たちの世界を隔てる境界線を守るもののことである。センチネルの仕事は境界線の無効から侵入してくる「何ものか」を感知し、触れ合い、対話し、交渉し、できることならなるべく波風立てずに「お引き取り願う」ことである。太古から、すべての人間集団は、この職能を担うものがいた。センチネルがいないと人間集団は維持できないからである。
ーーー
もう一つ岩明さんの「人間と人間ならざるものの共生」の特徴は、岩明さんが描くセンチネルたち(「寄生獣」の新一、「七夕の国」の南丸くん)の「肩の抜け方」である。脱力感と言ってもいいし、ノンシャランスと言ってもいいし、「気楽さ」と言ってもいい。たぶん、岩明さんは、「力まないこと」がセンチネルにとって必須の資質なのだと知っているのである。
だって、センチネルたちは人間の世界と人間の条理が通らない世界の「あわい」に立っているのである。人間的な条理だけで話を進めてゆけば、自分が投じられている状況の意味も、自分が果たすべき仕事も、何もかもわからなくなる。それでは仕事にならない。ーーーあるがままを受け容れ、外界から到来するものの発する信号を受信し、その波長に同調し、響き合い、和音を奏でる。「非人間的なもの」は知性的には理解できないし、受容できない。それは生身の身体でしか受け止めることができない。人間的条理のさらに一段階深いところに、身体的な条理が存在する。「生物的な条理」と言ってもいい。知性的には飲み込めない事態でも、生物である限り、細胞レベルでは飲み込むことができる。「原始のスープ」の中を泳いでいた頃に、人間の祖先である単細胞生物たちは要録隊やミトコンドリアのような異物を受け容れ、共生を始めた。それによって生命は現在のようなかたちになった。だとすれば、私たちの生物学的組成の深層には「人間ならざるものとの共生」を受け容れるための回路がまだ残存しているのである。
センチネルとは、おそらくそのような太古の生物の記憶をいまだに体内に色濃く残している個体のことである。そして、センチネルについて物語を語り継ぐ作家たちもまたそうなのだと僕は思う。
ちょっと抜粋どころか、ってくらい書き出しすぎたかもだす。
んま、ええやんけ。
そんな感じで~~、
最近彼のマンガで最も興味があるのは、「ヒストリエ」というもの。
これはー、紀元前4世紀のギリシアやマケドニア王国・アケメネス朝ペルシアを舞台に、古代オリエント世界を描いた作品。なのでありまして。
んーーー、これはね、ほんとに読み始めてまだ数巻なのですが、必見て感じだね。
面白くて読み進めるのがもったいないくらい。
そんなこんなで近況のマンガ話はこれにて終了。