ことばにならない風の声

今日もどこからか風はやってきてやがてまたどこかへいくだろう。
何に向かっているのか己でさえもわからずに、、。

自分を支えるもの。

2013-04-30 23:14:18 | 日記



前から少し思っていたこと。
そういう人にはまたそういう人に、そういうものに出会ってしまうものなのか、ということ。


なんじゃそりゃ、と言われてしまうようなよくわからん曖昧なことを言っている文章だ。


なんていうのか、例をあげるのもなかなかこれというのがなく、難しいのだけど。

例えば、だれだれは自分のことをとても馬鹿にする。

だとか、

例えば、多分みんな私のことを一番ダメなやつだと思っている。

だとか。


それは本人は本当にそう感じているみたいだ。本当にそう思うから思いつめて落ち込んだりする。

もしかするとその人の言うとおり、そのだれだれさんは本当にその人を馬鹿にしているのかもしれないし、ダメなやつだと思っているのかもしれない。
少なくともそういうことを思わせる言葉や態度があって、その人はそう感じるのだろう。


そういうことを言う人の特徴があって、馬鹿にされる、ということにとても敏感で、そもそも敏感の前に「この人は自分のことを馬鹿にしてるか、してないか」というチェックリストを自分の中に持っているという感じを、いつも私は受けとるのだ。



それは、一体何なんだろうと考えてやまない。

その人は私から見て素敵なところはたくさんあるし、周りに親しい友人だっていて、さして他の人とそんな違いはないのだけど、どこか不安定な感じはある。

毎度そう感じるわけではなくて、その人がもらす相談という談話の中だったり、自分を卑下してしまうときや人の愚痴を言うときに感じることが多い。



その馬鹿にされたりすることというのは、冗談とかではないほうのであるけど、私はそんなにこれといって出てこないから経験ないのかもしれない。
反対に、馬鹿にするというのも冗談以外ではないと思う。


つまり、私は私が感じているところだけで言うと、そこだけでしか言えないのだけど、そういう人に出会ったことがないのだと思う。
だから、そういう人はそういう人に出会ってしまう、引き合ってしまうのだろうか、と思ったのだ。


だとしたら、何なんだろう。
生まれた環境がそうさせたのか?
何もかも生まれた環境のせいにするのもどうかと思う。
その人の元々持つ性格から?
元々持つ性格って、あるだろうとは思うけど、それだけでもないと思う。


こう何か話していてしっくりこなくて、何をどう言ったらいいのかわからなくなる。



先日友人から電話があって、相談を受けていた。相談と言うのか、ただちょっと聞いてよ、私の悩みを、という具合で。
それで、聞きながら頭の中ではこんなようなことを考えていたのだ。


自分に対しての自信、自尊感情というのかな。それが低い人と高い人はいる。その低い高いの違いはあって当然だと思う。
別に低くていい悪いも高くていい悪いもないと思うけど、この人はもう少し自分に対して自信を持てたらいいのにと勝手に思う。
素敵なところもたくさんあって、それを本人もこういうとこの自分は確かにあって、それはいいなと思っていたりするんだけど、どうにも根本的に自分を支える何かがない感じで話す。


自分には全く何もない、という感じで。それが引っかかる。
自分はだれだれに馬鹿にされてるという言葉が出てくること自体が、その根本的に自分の支えがない感じ、不安定さを物語るのだ。そう私は受け取ってしまう。
何と言ったらいいのか、それはその人自身を不安定だなと私が思うわけじゃなくて、本人が言ってる感じに聞こえる。もう自分で決めている感じさえ受ける。


私だって別に自分にとても自信があるわけじゃない。むしろこういうことを考え出すと切りが無いくらい自分のダメダメ加減に嫌気がさす。
私も何もない、すっからかんなんだけど、それでも私は私を支える何かを感じる。それがなきゃ多分自分は居ていられない気がする。


その支える何かは帰り帰って、めぐりめぐって自分なのかもしれない。あの両親を持つ自分、あの兄弟を持つ自分、あの友人を持つ自分。
いや、違うか、帰り帰って自分じゃなくて、自分=他者であるとするなら、帰り帰って他者であって、めぐりめぐって、やっぱり他者なのかもしれない。
関係存在として、自分というのはあるというのを思う。そうでしか自分は存在できないとも言える。だからこそ、自分=他者というのが成り立つのだ。=としたら少し違うのかな。他者あっての自分、そういう意味のイコールだ。



自分の根本的支えになる何か、
自分に対しての自信、
大丈夫と言わすもの、
こういうのはどこからやってくるのだろう。
どうやって生まれるのだろう。


こういうことを考えたのだけど、
どう思うだろうか。





Gymnopedies.

2013-04-27 05:04:33 | 音楽



フランス人、Erik Satie が作曲した、Gymnopedies、というピアノ曲。
多分有名で、なんとなく聞いたことあるという人は多いのだと思う。



第1番から第3番までの3曲で構成され、それぞれに主題がある。

第1番「ゆっくりと悩める如く」
第2番「ゆっくりと悲しげに」
第3番「ゆっくりと厳かに」


「ジムノペディ」とは、青少年を大勢集めて全裸にして踊らせて、古代ギリシアのアポロンやバッカスなどの神々をたたえる「ジムノペディア(英語版)(古典ギリシア語: Γυμνοπαιδίαι、ギュムノパイディア)」という祭典に由来しており、サティはこの祭りの様を描いた古代の壺を見て曲想を得たといわれる。


これは調べて引用させてもらったもの。


うーん、私の中でこれほど、ずぅんと入ってくるものはなかなかない。
なんだかこう、ひゃっとさせるものがある。
ちょっとこわいなぁと感じるほど。


こんなん毎日毎時なんて聞けやしない。
聞きたいと思って聞くよりかふと聞こえたときのほうがいいかもしれない。
もっと言えば、ふと聞こえたとき、そして、聞けたときでしか入ってこないし、受け入れにくいと言ったほうが正しい気がする。



何か言いたいことがあってこうして書いてみたのだけど、聞き終わると、言いたいことがあったのは、聞いてるときだけだったみたいだ。



音がきれいだ。
ピアノの音ってこんなんか。




自分の気持ち。

2013-04-14 20:52:01 | 日記



音楽のすごいところは、その音楽で気持ちを変えてしまうくらいの力があるところだよね。

たとえば、この私しかいない部屋でひとり聞いてる音楽が私の気持ちを勝手に操作している感じに思うときがある。

なんか知らないうちに穏やかな気持ちだったり、踊りたい衝動に駆られたり、すごく切ない気持ちになったりもする。

そのいま見えてる風景がまるで映画のワンシーンのように自分を主人公として見たりする。




それくらい自分の気持ちなんていうのはいい加減ちゃいい加減なんだと思う。

自分では自分の気持ちってのは自分から湧き出るもの、自分自身から生まれてくるものなように思うけど、実は、そうでもないということに気づく。

音楽のとこだけで言うわけじゃないけど。

なんていうか、これがすきだきらいだ、かっこいいかっこわるい、やらやら、というのも自分から生まれたものなんて言えない。

周りの人やこの社会に左右されて出てきた価値観からだと思う。



だから何というわけではないけれど、自分というのもそれくらい自分と思ってる自分で思う自分というのは、とても曖昧だし、私でさえも私というのを計り知れないでいる。

確かな私とか本当の私というのは、ひとつじゃない。

いっぱいあるんだなと思う。



ということを、感じるのはそうあることでもないと思う。



自分の感情のコントロールをもっと上手にできたら、とか、大人になったらそういうことはできてこそ立派なんていうのは、どうだろう。

いや、ある程度そういうのはなくちゃ困るわけだけど。


なんだろうな、難しいよなぁ。

自分のよくわからない気持ちと向き合っていかなくちゃならないのだものね。

そのよくわからないたくさんの気持ちはどれも本当の気持ちだと思う。


だからこそ厄介でもあるのか。



こういうことを考えるときってあるよね。

自分の気持ちもまた自分で言葉でいつも決めている気がする。その都度。


決めないとやれないってのもある。


よくわからん話になっちゃったなぁ。





春の午後。

2013-04-13 14:39:06 | 日記



いい天気に恵まれた。

風がふわふわ、ひゅひゅー、どこへいく、だれといく。

連れてってはくれないか。

耳に入るは、音楽。

世界の音楽を流し聞いてる。

私はどこにでもとんでいくよ。

からだがおどりだす。

春の陽気とカントリー音楽。

みんなにみんなに届け、春の風吹け。

ベッドの上でごろりごろり。


春の午後