ことばにならない風の声

今日もどこからか風はやってきてやがてまたどこかへいくだろう。
何に向かっているのか己でさえもわからずに、、。

祈り。

2015-02-17 10:15:39 | 日記





わたしは、祈る、ということをしたことってないな~と思った。
この間、友だちの結婚式があったので九州へ出向いてた。
福岡に住む友だちの家にお世話になって、その彼女が太宰府に行きたいという。
太宰府で梅ヵ枝餅を食べたいとか聞いてて、ふむふむ、おいしいもんね~
あたくしも食べたい~と思ってたらそれだけじゃなくって、
むしろ行きたいいちばんの理由は、今年はまだ新年の挨拶を(かみさまに)してないから
早く行きたいんだよね~というものだった。

わたし「。。。えええぇっ!」

そんな理由が出てくるなんて全く思いもしなくっておどろいた。
彼女は毎年新年明けると、
「去年も家族みんなお守りいただいてありがとうございます、
 今年も家族やみな健康で健やかに過ごせますように、
 よろしくお願いします。」
と、ごあいさつをするそうな。
それはいわゆる初詣というやつかもしれないけど、
そういう祈りを込めているのだな~とすてきに思った。


そいで、もうすこし聞くと、高校とかの通学のときとかだったかな、現在の通勤かな、あれ、、
間違ってたら彼女に申し訳ないけど、近所の通学路にお宮さんがあったのだとか、
だから毎日一応手を合わせてぺこり、とまでしないけど、
通り過ぎるときにそちらに目を向けて、目をぱちっとまばたきを一回して、それで心の中で
「いってきます、今日もよろしくお願いします」って祈るのだとか。



もちろん本人はこんなことなんでもないよ、という感じだったけど、
またそれがいいんだけど、いいな~と思った。
となりのトトロでも父と子たち木とかなんかかんかに手を合わせてる。
あれもそういうことでむかしから日本ではずっとやってきたことなんだろうな。
それがわたしにはなかったよ、ないよ。
それをさみしく思って、これからむりにじゃなくてやりたいな~と思った。




本を読んで、その中で福島の原発の事故のときに、原子力発電所に向かって祈りを送った人がいるって。
それは、原発だって被害者で「酷使してごめんね、そんなにおこらないで」という祈りだ。
原発をとっても悪いもの、諸悪の根源のように言うけどそうだろうか、そうじゃないよな、と。
、、、これにも参った。
まるで風の谷のナウシカ、、ちょっと違うかしら。。




そうやって自分の住んでいるところのお宮さんだったり、山だったり川だったり、
その大地、地面に対してだったり、今日もよろしくお願いしますって手を合わせるというのは、、
う~ん、そっか~~、と妙に、う~~ん、そうなのかーって感じで、いいなと思うのだ。
それをそんな気負ってとかじゃなく義務でもなく、強制でもなく、
ただそのままやっている感じがいい。


この間の佐野さんの勉強会を思い出したけれど、今あなたの飲んでいる水はなにですか?どこからのですか?と
問われたら「水道」と答えてしまうかもしれない。
はたまた「ペットボトルです、これには霧島って書いてある」なんてこともあるかもしれない。
水道っていうその管から流れているのは流れているけど、
自分の地区の水はどこの山からの水なのかって自分の飲む水のことさえよく知らないということに気づきにくい仕組みになっている。
それがさみしいことだし、かなしいことでもあると思う。
それが現代社会だと言ってしまったらそうなのだけど、ぼくらは水から肉から何からどこかのいのちを
もらってでしか生きていけないんだということを感じなくなっている。
どこかの山の水からであったり、どこかの草や実や動物を食べた動物をころしてそれを肉として
まずいうまいってやっている。
わたしは自分が牛をころしたことなんてないと思うけどなんのなんの、とってもころしてきてる。
そういうこと気づかないというか、思う場面がない、イメージができにくい社会の仕組みになっているけど、
ちょっと思うとあ~なんて適当でいい加減で多くの周りに頼りきりになっているんだと思わされる。


祈るということは、人知の及ばないことについて、天の助けを求めるということって本に書いてあった。
祈りの行為は、人知の及ばないことについて身体で示している、彼女のようにまったく自然に。
そうか、、という感じです。










あのひとこのひと、そしてわたし。

2015-02-16 21:41:41 | 日記




夕食後、唐突に俳優談義をした。
談義なんて言ったらちょっと高度っぽいからほんとはもうちょっと
ただのこたつでだべだべ会なんだけど。
しかも内容も俳優談義とは言ってもただインターネットで俳優の顔写真つきのものを見て
この人これこれ、あの人これこれ、、すききらい、なんかすかん、なんでかすき、とか。
ただのそーんなだべ会なんだけど、これ不思議と面白くもある。

家族でやったりともだちとやったり色んな人とやってみるのがもっと面白いかもしれない。
今日みたいに家族でやるとそれはそれで、なんでそこらへんの感覚が共通するのか。
不思議なほど、だよねわたしも~って、共感。
もっと俳優のこの人あの人を書こうかとも思ったけど、書くほどのこともないかと。
だれかとゆっくりだべりたいな~なんて思うだよね。


今日、川柳というものの紹介ちゅーのか、そんなようなものがテレビであった。
わらっちゃうんだね、あれ。
おもしろいな~、あれをみんなで机囲ってその場で作って発表とかするのもたのしいかもしれない。
なかなか作るとなるとちょいとなかなかやろけど。


そんな川柳をいくつか紹介。


このオレに あたたかいのは 便座だけ         サラリーマン川柳



『調子どう?』 あんたが聞くまで 絶好調       OL川柳



逆らわず ただうなづいて 従わず           OL川柳



赤い糸 よく見えないから 縄にして          OL川柳



入れ歯見て 「目もはずして」と せがむ孫       シルバー川柳



おもいっきり ガッテンしても すぐ忘れ        シルバー川柳



金よりも 笑顔ばらまく あんた好き   











映画『カンタ!ティモール』

2015-02-12 15:52:51 | 映画/アニメ



いや、観てはいないのだけど、、ひひ。



映画『カンタ!ティモール』予告編





ねえみんな

ねえ大人たち

僕らのあやまちを大地は見ているよ

小さな者たちを言葉が惑わす

大きな者を追って踏み外しちゃいけない

足は大地についている


映画の中の、アレックスの歌より





この間、2月の冬の勉強会で、佐野明弘さんがいらっしゃった。
そのときに取り上げた真宗大谷派東本願寺の同朋新聞というものから上の映画を抜粋紹介させてもらった。
佐野さんとは多分私が高校生以来から数えると去年から今年が2回目であった。
小学生から高校生までとは違って最近会った方が濃い。
それは誰にも関わらず、誰に対してもそうなる。
去年はなかなか会話をする気持ちがわたしの中でなかったのだろう。
あまり話といった話をした記憶がない。
去年のあのころはそこまで人と話す元気というかやる気とか、そういうものがなかったのだ。
話したいとか聞きたいとかそういうこともなかったのかもしれない。
しかし今年は込み入った話じゃなくても直に会話をできたなーという想いは強く残っている。
わたしの気持ちの上では少し近づけたな、と。
それは私の中で話をしたい話を聞きたいと初めてに近く思えたってことなんじゃないかな。
と、思っている。




歎異抄のお話も自分の中でことばがじんわと入ってきた。
それは意味を理解したとかふむふむと頷けるというわけではなくて、
ただことばが耳から自分の中に入り込んできたのだ。
その勉強会のあと友人の結婚式で長いこと電車に乗る機会があった。
それで持ってきていた本を手に取って読み始めたところ、
初めてその人の声としてその人のことばとしてその文が自分の中に入った感覚があった。
それは勝手な思い込みかもしれないけれど。
本を読むということってもしかしてみんなこんな感じなのか、って、
初めて生のことばみたく読めたのだから変な感じだった。
それまでなぜあんなにも読みにくかったのか、その人のことばとして入ってこない、
ただの活字と言ったらおおげさだけれど、なにかなまなましさを感じれなかったんだろう。



春までに本を読もうと思う。
一応リストもある。
読むだけでも私の場合すぐへこたれるものだから、ちょっと気合い入れて、
しっかり自分で一冊一冊を読み、何かノートに感想を書き残していこうと思う。
そういうことでもしていないと、このままじゃどうなるもこうなるも
どうもならん、いかんよな~ということだけは、そうですという感じなのでした。









あぁ。

2015-02-01 23:46:28 | 日記




昨日だったか、三谷幸喜監督のマジックアワーとかいう映画がやってて、
んまーなんだか見てしまった。
そんなにおもしろいこともなく、んまーという具合だったのだけど。

それに妻夫木聡と深津絵里が出ておって、
このふたり前も主役で出とったなーて言ってたのだけど、
それ「悪人」て映画だった。


あれを見て思わされることは悪人てなんやろ、
何をもって言うのだろうな、ということだと思う。
主人公の妻夫木はいろいろあって罪を犯す、いわば犯罪者、いわゆる悪人と呼ばれるのだけれど、
簡単にそう一言で終わらせられないものがあるんだ、と思う。
ひとりの人間が何かしたりしてうまれるそういう事件にはものがたりがあるんだなと見せられた気がした。
事件というのは犯罪的なことに限らず。
ものがたりというのはその人やまたその周りの人のさまざまな想いが絡まり合い、
なまなましくも流れていく、想いの川のようなものだろうか。なんじゃらほい。
わけわかめ。


想いが強く生じるのには理由がそこにはあるのだと思う。
別にことばにならない理由もあるかもしれない。
けれど確かにあるのだと思う。
そういうところは他人には見えにくいものだったりずっとわからないままかもしれない。
本人もわからないことだって多いかもしれない。
耳で聞いても文字で読んでも自分には理解できない、共感できないかもしれない。



なんでこんなことを書くかって人の意見に疲れるときがある。
頑なにその自分の思っていることを信じている感じやことばの強さに参るときがある。
インターネットに流れることばはそういったものが多い。
実際これもそういう類いに入るのだろうや。

それでも言う、言いたいとしたらもう少し気をつけたいなと思う。
強いことばはつよいからこそ暴力的でもある。
打撃力はあっても包容力には欠ける。
相手を突き放しはできてもそばにこなくさせるということでもある。
壁をつくってしまうというのか。


自分以外の他を簡単に疑うことができるというのは、
それは自分の確かさは疑っていないということでもあって、
自分は確かだと思ってしまっているということに
気づかないままことばを発しそれが相手に届いていくんだな~と。
自分に対する確かさを疑わない。
おもしろいくらいにほんとそうだなって思える。
自分がこうして書いているこの感じもそれだろうし、
けれどここでじゃあ何も言えないじゃないか、間違ったことは言ってはいけないのか、とか、
間違ったことを話すのがこわいだとか、そういうことも思った。
思ったしこれをブログに載せるのも躊躇された。
なぜかって自分がことばを発することのこわさを感じてからだと思う。


けどそういうことを考えてきたり思ってきてやってきてる人たちは
大勢わたしの目の前にいて、そうか、みんなそうやってこわさも感じてきたんだろうし、
その上でけど話していくしかないんだって。
わたしが見るこの目で口で話していくしかないし、
間違っていようがなんだろうが、それは違うだろうと言われてそれをはじめて
違うのかと思えたりまたそれについて違った考えや目線を感じられたりすることもあるだろう。
むしろそういうことはとても大事なんだろうな、それでいいんか、と。
それにみんな間違っているんだ、と、正しいことってなんだ、って、






祝婚歌を思い出した。


 『 祝 婚 歌 』    吉野 弘
 しゅくこんか

   二人が睦まじくいるためには

愚かでいるほうがいい

立派過ぎないほうがいい

立派過ぎることは

長持ちしないことだと

気づいているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい


完璧なんて不自然なことだと

うそぶいているほうがいい

二人のうち どちらかが

ふざけているほうがいい

ずっこけているほうがいい

互いに非難することがあっても

非難できる資格が自分にあったかどうか

あとで疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは

少しひかえめにするほうがいい

正しいことを言うときは

相手を傷つけやすいものだと

気づいているほうがいい

立派でありたいとか

正しくありたいとかいう

無理な緊張には色目を使わず

ゆったりゆたかに

光を浴びているほうがいい

健康で風に吹かれながら

生きていることのなつかしさに

ふと胸が熱くなる

そんな日があってもいい

そしてなぜ 胸が熱くなるのか

黙っていてもふたりには

わかるのであってほしい






またこれも矛盾で、
こういうことを言えば言うほど、説教くさい上に自分は正か偽か、
正か悪か、、正しい考えをし、正しい道をいこうとする
さも中間的なやつであろうとする感じも自分で自分にいちいち言いたくもなるこの厄介さ。
そういえば突然思い出したけど、高校の社会の先生で
世の中何事もバランスが大事だと言ってる人がいて、
なっんかいやだな~と思ったのだ。
ほんにことばは厄介だ、他人も厄介だ、自分こそ厄介だ。
それでもこういう矛盾がなくなることはないのだろう。
そもそも正がなにか、悪とは一体なにかということも考えてみていない。
こまっちゃうよ。








なんかやけにしろくてまるくて。