MASQUERADE(マスカレード)

 こんな孤独なゲームをしている私たちは本当に幸せなの?

『FOUJITA』

2015-11-28 00:32:36 | goo映画レビュー

原題:『FOUJITA』
監督:小栗康平
脚本:小栗康平
撮影:町田博
出演:オダギリジョー/中谷美紀/アナ・ジラルド/アンジェル・ユモー/加瀬亮/りりィ/岸部一徳
2015年/日本・フランス

「藤田」が「FOUJITA」になる理由について

 かつて『眠る男』(1996年)を観ていて、観ていたこっちが爆睡してしまった苦い経験を持つ者として小栗康平監督作品を観ることはためらわれたのであるが、藤田嗣治の作品が好きなこともあり、覚悟をして観に行った。結果的にはそれほど悪い作品ではないが、小栗監督は相変わらず独特の作風で、藤田の人生を時系列に描いたような親切なものではなかった。
 しかし例えば、藤田が友人たちとカフェでくつろいでいた時に、友人の一人が高村光太郎の「雨にうたるるカテドラル」を朗読する。その時、隣の席に座っていたフランス人女性2人が歩いてきて「さっきから何故ジロジロ私を見ているのか」と文句を言われた藤田がいつの間にか描いていた彼女の似顔絵を彼女に渡し、逆に喜ばせてしまうのである。高村の「憧れ」が藤田にとっての「日常」であるという対照性が興味深い。おそらく藤田はフランス語が堪能で、言葉に困ることはなかったのであろう。
 後半になって藤田の『アッツ島玉砕』を見て泣き崩れた女性を見て画家としてこの上ない幸せを感じたのもつかの間、藤田の戦争画に「真実」が描かれているとして藤田は軍から睨まれ、戦後も藤田の戦争画に「真実」が描かれているとして藤田は戦争の加担者として非難されることになる。ラストは魚の塩漬けを売っている女性と藤田が言葉を交わす。女性は昔からの仕事を生業にしていると言うのであるが、それは藤田の「画」も同じなはずである。しかし日本と西洋の「折衷」のような彼の「乳白色の肌」はなかなか日本においては「正統」として認められず、それは日本人形とフランス人形が並んで置かれていたシーンにも表れている。日本人の「憧れ」を「日常」にしてしまった藤田は日本人の妬みもあってもはや「日本人」として認められず、本人の意思に反して「フランス人」と見なされてしまった藤田のフランスへの帰化はそれに応えた行動だったように見える。このような傾向はいまだに日本で見かけるものではないだろうか。


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