『ボブ・ディランに吹かれて 春樹、ランボーと聴く詩』(鈴村和成著 彩流社 2017.2.28)からまずは引用してみる。
『いまは放蕩のし放題です。なぜかって? 僕は詩人になりたいんです。《見者 ヴォワイヤン》になろうと努めているんです。さっぱりお分かりにならないでしょうね。僕にも説明のしようがないんです。あらゆる感覚の錯乱によって未知に到達することが問題なんです。苦しみは非常なものです。でも、強くなければなりませんし、生まれながらの詩人でなければなりません。そして僕は自分を詩人と認めたのです。これはぜんぜん僕のせいじゃないんです。われ思う、というのは誤りです。《人》がわれを思う、と言うべきです。 - 言葉遊びをして、ごめんなさい。 -』
と、ここまでは前段階で、詩人はいきなり本題に入る、-
『《私》ってのは他者なんです。木がめざめてヴァイオリンになり、自分でもさっぱり分からないことをぶつぶつ言う、無自覚なご仁を《せせら笑う》としても、仕方がないんです。』」(p.104-105)
本書内で掲出されている書簡はランボーが書いたものなのであるが、原文も引用しておく。
「Maintenant, je m’encrapule le plus possible. Pourquoi ? je veux être poète, et je travaille à me rendre voyant : vous ne comprendrez pas du tout, et je ne saurais presque vous expliquer. Il s’agit d’arriver à l’inconnu par le dérèglement de tous les sens. Les souffrances sont énormes, mais il faut être fort, être né poète, et je me suis reconnu poète. Ce n’est pas du tout ma faute. C’est faux de dire : je pense : on devrait dire : On me pense. — Pardon du jeu de mots. —
Je est un autre. Tant pis pour le bois qui se trouve violon, et Nargue aux inconscients, qui ergotent sur ce qu’ils ignorent tout à fait !」
(本書ではこの書簡を「ドムニー(Paul Demeny)宛」としているのであるが、これは1871年5月13日付の「ジョルジュ・イザンバール(George Izambard)宛」の間違いだと思う。後半の文章の訳にはユーモアが足りないと思うので、以下、拙訳をしておく。「私というのは他人なんです。自分をヴァイオリンだと思っている木や、全く知らないことに対して屁理屈をこねる無意識をバカにしても仕方がないんです。」)
この書簡が掲出された理由が明らかにされる。
「問題はランボーの Je est un autre がディランに与えた衝撃であり、彼がステージ上で千の顔を持つといわれ、千のペルソナをあやつるといわれるのも、ランボーの Je est un autre の実践だったということを理解していただければ、足りるのである。
いつでも彼はステージで、『おれはそうじゃない』、『おれは違うんだ』、『おれは別物だ』、つまりランボー流に言えば『Je est un autre』と叫んでいるようではないか。」(p.105)
鈴村に反論するつもりは毛頭ないのであるが、「われ思う、というのは誤りです。《人》がわれを思う、と言うべきです(C’est faux de dire : je pense : on devrait dire : On me pense. )。」という文章にはもう少し説明が要ると思う。この文章には少なからずデカルトの「我思う、故に我在り(Je pense, donc je suis)」が意識されているはずで、それをくだけた言い方で、「われ思う(Je pense)」ような「われが居る(Je suis)」とするならば、それは誤りで「《他人》が思うわれが居る(On me pense)」というのが現状で、「Je est un autre」という風潮に甘んじる詩人ランボーに対してロック・ミュージシャンのディランはあくまでも反抗し続けているのであろうが、そもそも「本物」の自分が分からないのだから「Je est un autre」な訳で、ディランの反抗にはその「他者(autre)」になることさえ不本意であるという強い意志を感じるのである。