ケンのブログ

日々の雑感や日記

お父さん

2020年08月26日 | 日記
電車に乗ったら、向かいの席に体重80キロ以上はあるような男の人が座っていた。サンダルを履いていて下はジャージの半ズボン。

かばんの中からペットボトルのような容器を取り出した。中に飲み物が入っている。その瓶の口には子供用の飲み口のようなものがついている。

男の人がその飲み口を隣にいた2歳半くらいの男の子にふっと無造作に差し出すとその男の子は何も言わずにその飲み物を一口か二口飲んだ。

そのさまを見た瞬間に、ああ、気の合う親子と思った。

無造作に出された飲み口を子供がすっと飲む親子二人の呼吸がとても自然。

お父さんだから「はい飲みなさい」と言って子供に飲み物を差し出すわけではない。

無言で飲み物を差し出しても子供が安心してすっと飲む。

子供からこういう反応を引き出すお父さんってそんなにいない。

子供は飲み物を飲むと電車の車両の内側に背を向けて座席に座り窓の外を見ていた。

窓の外に興味のある景色を見つけるたびにパパ パパと子供はしきりに言っていた。

お母さんだったら子供にママと呼びかけられると「何が見えるの?」とか反応する場合が多いけれどお父さんは おう とか うう とか言っているだけで子供のパパという呼びかけに特に反応を示すことはない。

それでも子供はしきりにパパ と言っている。

無造作で決して積極的に子供の呼びかけに反応するわけではないのに子供が安心しきって何度もパパというところがこのお父さんの人徳。

本当に、特に努力しないでもパパの役目ができてしまう人って世の中にいるものなんだなと思う。

決して男前というわけでもなく、小太りなのに、、、。

というのは差別的な言い方かもしれないけれど。

3つくらい先の駅につくと、お父さんと子供は電車から降りていった。お父さんは特にピョンしてとか子供に言わなかったけれど、電車を降りるときは電車とホームの隙間に気をつけてちゃんとピョンと飛んで子供は電車から降りていった。

それで、僕が子供の頃のことをちょっと思い出してみたのだけれど、僕は子供の頃、電車の進行方向と垂直方向に向いた座席に座ると一心に外の景色を眺めていた。

そして今日の電車のように、座席が列車の進行方向と平行につまり車両の内側に向かってついている車両に乗ったときは、わざわざ車内に背を向けるような形で座って外を眺めるということはしないで、むしろ車内の様子を観察していた。

車内でも観察することはいくらでもある。たとえば川崎重工が作った車両だと車両番号の横に川崎重工と書いたプレートが貼ってあった。

連結部の板が電車が揺れるのに従ってはねたりするのを観察するのも好きだった。

今のように夏だと、僕が子供の頃はまだ冷房は電車の標準装備にはなっていなかったから扇風機の首振りを見るのも好きだった。家庭用扇風機は左右に首を降るけれど電車の扇風機の首は芯棒を軸に円形に振れていたな。

そういうのも結構飽きずに見ていた。

冬になるとその扇風機にカバーがしてあり、それを眺めながらまた夏のことを想像したり、、、。

僕が子供の頃はまだ、木製の床の電車も走っていたから床の木目を眺めたり、床に塗った油の匂いのなんとも言えない香りのことを考えたり。

連結部の幌が、列車のカーブに沿ってアコーディオンの空気を入れる部分のように伸びたり縮んだりするのを眺めるのも好きだった。

車両の内側に向かって座席が切ってあるときはわざわさ車内に背を向けて座って外を眺めることは基本的にはなかった。

ちょっと変わった子供だったのかもしれない。

ただ、車内に背を向けて外を見ることはなかったと言ってもそれは僕の記憶にある範囲内のことで、記憶にないほど小さいときには車内に背を向けて外を見ていたかもしれない。










地蔵盆

2020年08月24日 | 日記
8月24日という日付を見て地蔵盆だなと思う。

子供のころは岐阜で育ったので地蔵盆という言葉は知らなくて地蔵まつりと思っていた。僕の故郷では地蔵盆という言葉はあまり使わなくて地蔵まつりという場合が多かった。

こどもが主役で、町内の子供が集まって あんめえ だんべえ ろうそくや線香はお志に献じられます という文句を独特の抑揚で唱えていた。

今は僕の故郷はどうなっているのだろう。そういう話をあまり聞かないしちょっとネットで調べたくらいではなかなかわからない。

関西に来てから地蔵盆という言葉を僕も使うようになったけれど今年はどうなったのだろう、ネットを見ると地味にパラパラとニュースサイトが出ているけれど、よく読んでいない。

見出しだけを見ると自粛ムードの中で規模を縮小して行われたような感じだけれど。

しかし、地蔵盆、地蔵まつりという言葉を思うと、夏ももう終わりだなと思う。

実際、昼間は猛烈な残暑だけれど、夜になると秋の虫が鳴いている。

何日か前に、人類の食糧不足をカバーするために昆虫が着目されているという記事が新聞に載っていた。

イナゴとかそういう種類の昆虫は育てやすいし将来食糧不足の救世主になりうるかもというような内容だった。

イナゴもコオロギなど秋の虫も大きく言えば同じ系統の虫だなと思う。

虫も食用に期待されていい迷惑かもしれない。

まあ、そんなことは知らずに鳴いているとは思うけれど。

昆虫を食すというと、子供の頃、食べた蜂の子ご飯を思い出す。そんなにしょちゅう食べたわけではないし、僕の母も、祖母もそんなに自分から積極的に蜂の子ご飯を作るという習慣はなかったから、知り合いの方からのいただきものを年に何回か、本当にたまに食べるという感じだった。

まあ、それなりにおいしかったけれど。

イナゴの佃煮もたまに知り合いの方が持ってきてくださったものを食べたけれど、まずいとはおもわなかったけれど、イナゴの形がそのままわかるのでなんだかちょっと気味が悪いなと思って食べていた記憶がある。

昆虫といえば、世界で昆虫が激減していて、こういうのを放置しておくと深刻な生態系の破壊が起きるという。

ドイツでは昆虫を守るために、夜間の照明などを規制する法律ができたか、そういう法整備を検討中であるというような新聞記事を最近読んだ記憶がある。

それは昆虫は例えば花粉を運んだりするので昆虫がいないと植物にも影響が出てしまう。まあ僕が昆虫が生態系に及ぼす影響と言ってわかるのはせいぜいそのくらいだけれど、それは詳しい人から見たらもう本当に深刻な事態なのだと思う。


手などもあまり、薬用石鹸で洗いすぎると手を弱酸性に保ち、細菌から守る働きをする表皮ブドウ球菌という菌も手からすっかり洗い流されてしまって、逆に手が悪い菌などに侵される可能性が高くなるという記事が何日か前にどこかに出ていた。

やはり、何事もほどほどということが大切なのだろう。

僕も、お店の前にアルコール消毒スプレーがおいてある場合は必ずアルコールを手に刷り込むまで消毒するという習慣にしていたけれど、最近そこまですると手がひりひりしてくるようになったので、もう、ちょっとだけアルコールを手にかけて気持ちだけ消毒するという感じに変わってきた。

流水での手洗いを30秒まではいかなくても20秒くらいはするというのは今でも続けているけれど。

今日、駅のトイレでお茶でうがいしている若い男の人がいた。

きっとその人なりに何か情報を得てそういう、うがいをしているんだろうなと思った。

やはりみんなそれぞれにいろいろ工夫しているんだなと思う。

部活で集団感染した生徒を中傷

2020年08月24日 | 日記
新聞を見ると高校の部活で集団感染した生徒に対する中傷がたくさんあると出ている。

中傷の例としてネットに書かれた文章が新聞に転載されている。

こんな文章だ

「学校ごと廃校。感染生徒は学校敷地内から外出禁止。
守ってもらいたい」

本当に恐ろしくなるような文章が書いてあると思う。

こんなこと書かれたら追い詰められてしまう。

僕はなんかコロナそのものが怖いと言うよりも、もう下手にコロナになったら何言われるかわからないという怖さのほうが強いような気がする。

本当にコロナでみんなの気持ちが普通ではなくなってしまっているように思う。

昨日入った外食チェーンのカウンターで食事をしていたら
「体調がすぐれないかたの来店はご遠慮ください」というあらかじめ録音された音声のアナウンスが流れていた。

体調って一言で言っても、体調を気にする人はちょっとお腹が痛いだけで「腹イタ」と口癖のようになっている人もいるし、肩こりが気になる人もいるし、ちょっと疲れてしんどいということもある。水虫がかゆいというのも体調不良の一つと言えば一つだし。

来店している客がいるところで実質、体調がすぐれないひとは来るなと言っているに等しいアナウンス流すなんて、コロナの前の世界だったら本当に顧客に対してありえないほど失礼なアナウンスでクレームの対象になる可能性が十分あるような気がする。

昨日の新聞にも民間の製薬会社がコロナのワクチンの開発に成功してこれを接種、健康被害が出て民事裁判になった場合の補償は政府がすると話が出ていた。これも、危機管理がしっかりしているという見方もできるけれど、意地の悪い見方をすれば、もう早くコロナの騒動を収束させて政治的安定をはかりたい政治家が製薬会社に足元を見られているようにも思えてきてしまう。

窓を開けながら冷房をかけている電車。コロナの前の世界だったらそんな非効率な冷房の仕方ありえないということになると思う。

本当にこのコロナというのは私達が今までに経験したことのない出来事なのだなと思う。

さて、この高校の部活で集団感染した生徒たちに対してプロのサッカー選手から励ましましのツイートが出ているという。

新聞に転載されているのはこんなツイートだ。

〇〇高校およびサッカー部の皆さん、コロナ感染に関して謝罪する必要なんてないよ。対策してても感染する確率は0にはできんから。それより熱とか体は大丈夫。今はしっかり食べて休んでな。 中略 非難している人だけでなく、心配している人もたくさん居ることを忘れんといて。

立派な励ましとは思うけれど、人によっては謝ってしまったほうが気が楽になる場合もあると思う。

ひとこと、申し訳ございませんでした、と言うだけでお互いの気持ちがおさまるということも世の中多いから。

お互いがお互いを悪者にしていてはなかなかみんなの気持ちが平静になってこないように思う。









コロナ ワクチン 高齢者 医師優先 訴訟によるメーカーの損害は政府が補償

2020年08月22日 | 日記
僕が取っている全国紙の今日の一面に「ワクチン 高齢者 医師優先」という大きい見出しが出ている。

コロナのワクチンの開発に成功してワクチンを接種する場合は高齢者や医師、つまりコロナの危険にさらされる度合いが高い人が優先されるということなのだろう。

ワクチンができるのが心待ちになるような見出しが踊っている。

しかし、この記事を読み進めていくと、記事の最後の方、比較的目立たないところにこんなことが書いてある。

「一方、ワクチン接種では健康被害が起きる場合がある。(コロナの)分科会では、民事訴訟などで生じるワクチンメーカーの損失を政府が補償する案が、政府側から出された。委員から異論は出なかったという」と。

僕の想像なのだけれど、委員から異論は出なかったというという書き方が最後にしてあるということは、「メーカーが訴えられたら政府が補償するんですか?それに対して委員の方から異論は出なかったんですか」という質問が新聞記者の方から出た可能性が高いように思う。

民間の企業の訴訟による損失を政府が補償するって話は誰もが当然のこととして受け入れる話ではないような気がするから。特に新聞記者のような人は。

ワクチンのメーカーは開発に成功すれば1億2000万人分のワクチン供給を日本にする基本合意ができているという。

つまりそれだけのワクチンが売れるということなのだと思う。そして、万一、健康被害が出て民事訴訟で損害賠償を請求されればそれは政府が補償してくれる。

メーカーにとってはいい話だなと思う。

金銭的なリスクを回避しながらワクチンの開発に専念すればいいわけだから。

ワクチンで健康被害が出て民事で訴えられても、賠償は政府が肩代わりしてくれる。

実にいい話に思える。

政府にとってもいい話ではないか。

政府が直接訴えられるよりもメーカーが訴えられて政府がそれを補償するという形にしたほうが政府の面目が保てるように思うから。

これでリスクの心配の少なくなったメーカーはワクチンの開発をフルスピードでやってくれるだろう。

そして、日本国民も大喜び。

「ワクチンさえできれば大丈夫なのにね」という言葉を直接に、そして、電車の中などで誰かが話しているのを何度か耳にしたから。

ワクチンのメーカーにとっても、政府にとっても、日本国民にとっても八方めでたしの話が進んでいるようだ。

うまく進めばいいのだけれど。

ただ、万一、薬害訴訟となった場合、僕は裁判の判例に詳しくないのだけれど、薬害訴訟や公害訴訟が起きて、原告が勝った場合でも、失われた健康は二度と戻らないというほど事態が深刻になっている場合が多いような気がする。

そんなことにはならないようにと祈りたい。

もし、ワクチンができて、僕の親は高齢だから優先的にワクチン接種を受けられる、ということになった場合、親にワクチンを接種するように勧めるだろうか。

たぶん、僕の方から積極的に勧めることはないと思う。

まあ、もし、接種したかったら医師の先生とリスクの点も含めてしっかり相談してからにしね。くらいの言い方にする可能性が高いように思う。

まあ、それは僕ではなく親が決めることとは思うけれど、、、。






すさまじい世の中の変革

2020年08月21日 | 日記
僕が定期購読してい全国紙の経済欄にみずほ銀行が来年から70歳未満の人が新規口座を作るときに通帳を希望する場合は1100円の手数料を徴収することになると書いてある。

えらいことになったなと思う。僕は若い頃から都市銀行の口座を中心にしてきたけれど、こういうデジタル化の波は都市銀行が先頭を切っているように思える。

都市銀行でデジタル通帳を勧められてそうしたことがある。しばらくはうまく行っていたけれど2016年ころにちょっと身体のバランスを崩したときに、パスワードを3回くらい打ち間違えて、口座を開けなくなってしまってから、怖くなってデジタル通帳をやめた。

星新一さんの何十年も前のショートショートに個人番号を思い出せないと馴染みの店でもお金をおろせない、買い物もできない、主人公は困り果ててしまうというような内容の物語があったけれど、星さんは確か東大の理系を出た作家なので将来こういう時代が来ることを予見しておられたのかもしれない。


何でもデジタルというのは僕は正直行って怖い。

例えば、漫画喫茶のようなところでも、電話はありませんとホームページに書いてある店がある。

そういうお店は、入店、退店から入会まで、全部自動のシステムで行うようになっている場合が多いように思う。

スタッフはお客がシステムを使いこなせないときにヘルプするという感じだ。

そんな店を利用してもし忘れ物などした時や困った時に電話もかけられない、忘れ物の問い合わせもネットのチャットでなどど言われると逆に不安になってしまって、自動化のあまりに進んだ店には、なるべく行かないようにしている。

ごく一部の事柄で、あえて自動システムのほうが気が楽だなと思ってそれを優先することもあるにはあるけれど。

しかし、通帳の過度のデジタル化はなんか怖いなと思う。 

もう、これからは都市銀行は個人の預金者というのはあまり相手にしてくれない時代になるのだろうか。

今、都市銀行と地方銀行を交互に訪れて、違いを肌で感じるように自分なりに努めているけれど、総じて個人客への対応は地方銀行のほうが親切であるように思える。

地方銀行でもデジタル化はかなり進んでいるけれど、進んだら進んだなりに地方銀行のほうが個人客には親切となんとなく僕には思える。

しかし、これだけデジタル化が進むとそれだけ人間の仕事も奪われるということになるだろうとそんなことも心配だ。

何日か前に、コンビニの大手が何社か協力してトラックなどの配送システムを効率化しようという話が出ていた。

これだけトラックの運転手の人手不足ということになると流れとしてはそうなのかなとおもいつつも、大手のコンビニ同士が手を結ぶということはそれが資本の独占化につながりはしないかと足りない頭で考えてしまう。

どこのお店に行っても、カード、カードと言われるけれど、あれも僕にはなんだか大手資本同士の客の取り合いに思えてきてしまう。

そして大手の資本の傘下に入らないと個人では商売ができなくなり、、、ということになっていくのかと考えが悪循環してしまう。

本当に昔に比べると個人商店も減ったなと思う。

昔は、薬局という感覚で個人商店が多かったように思うけれど、今はそんなものはほとんど見かけず、ドラッグストアばかりになってしまっている。

すさまじい世の中の変革のときだなと思う。

なにを考えてもなるようにしかならないのだろうけれど、まあ、なんとか生き残っていけるようにとそれを一番に願っている。

本当にコロナのことでもそして、今の時代のことでもなんとか落ち着くところに落ち着いてほしいという気持ちが強いこともまた事実だけれど。