ケンのブログ

日々の雑感や日記

隣町の歌声サロン

2017年11月20日 | 日記
今日は隣町G劇場で催された歌声サロンに行った。
普段はピアノのkk先生とテノールのtn先生の出演で
歌声サロンが進行するけれど今日はtn先生が他の会場に
ご出演ということで代わりにソプラノ歌手のjkさんの
ご出演ということになった。
いろいろと秋にちなんだ唱歌や歌謡曲等を歌い
合間にkk先生のピアノでjk先生がソプラノ独唱というプログラムで
会が進んだ。
知らない歌は一オクターブさげてみんなの声を聞きながら歌い
知っている歌は下げずにそのまま歌った。
会が終わったあと会場の出口で
「楽しそうに歌っておられましたねえ」とソプラノのjkさんがおっしゃって
僕の方に手を差しのべられた。
クラシックを歌う歌手の方って歌のなかで
てを差しのべたりするポーズをすることもあるので
ぼくはその手が僕に向かって差しのべられたものか
単なるjkさんのポーズのひとつなのか一瞬判断に迷った。
差しのべられた手を握って握手しようかなと思ったのだけれど
一瞬躊躇した分、手を握ることができなかった。
会場を出たあとさっきは惜しいことをしたなと思った。
ああいうときに思いきって握手できるといいのだけれど
それがなかなか、、、。
会場の建物の外に出ると70才くらいに見えるおじさんが
よく声が出ていると思ったらあなた来てましたねえと声をかけてくださった。
そのまま立ち話になりおじさんの若い頃の話
最近はこういうことを趣味にしているとかそんな話を
いろいろとおじさんは聞かせてくださった。
ぼくは適度に自分の話を挟みながらおじさんの話を聞いていた。
話している最中にkk先生と、jkさんが会場の片付けを終えて
外に出てこられた。
おじさんがその二人にいろいろと話しかけられた。
僕もjkさんに向かって「お名前jさんでしたよね」と言った。
jkさんは「そうです」とおっしゃった。
「したのお名前は何でしたっけ」とぼくは言った。
「kです」とjkさんはおっしゃった。
「そうですか。また今度ググってみます」とぼくは言った。
一瞬間をおいて「ググる?」とkk先生がおっしゃった。
そのあとkk 先生はにこっとなさったのでググるの意味は通じたようだ。
「ご活躍をお祈りします」とぼくはjkさんに言った。
「僕の活躍も祈ってくださいよ」とkk 先生がおっしゃった。
「もちろんです」とぼくは言った。
僕の活躍もとおっしゃってくださるなんてkk先生っていい方だなと思った。
jkさんとkk先生は日が沈みかかった町を駅の方に向かって
遠ざかっていかれた。

M神宮にお参りに行った

2017年11月19日 | 日記
今日はM神宮にお参りに行った。
もみじがどんなようすか一通り見た。
ちょうど緑から紅のグラデーションがきれいに出ている
タイミングだったと思う。
緑がほんの少し残っていてあとは薄い紅から
濃いくれないまで紅色のグラデーションが
とてもきれいに出ている。
いいタイミングで来ることが出来たなと思った。
ただなかには飛び抜けて背の高いもみじもあり
そういう紅葉はまだみどりいろのままになっている。
きっと背が高くて他のもみじより日がよく当たるからだと思う。
本殿の前を見ると承久の乱に破れて島流しの
憂き目にあったJ天皇の都忘れの菊がほぼ
満開になっている。
そうか、紅葉の見頃と白菊の満開の時期は
ちょうど同じ時期なのかと思った。
社務所の受付の台のところにも都忘れの菊の
鉢植えが出してある。
鉢には都忘れの菊にまつわる境内の説明書きが
そのまま縮小コピーして貼り付けられている。
本当に手が込んているなあと感心してしまった。
いつもは社務所には菊の鉢植えは置いてないので
菊の開花の時期にあわせておいてあるのに違いない。
本当にこういうお宮を維持する方の心配りは
すごいなと感心してしまう。
七五三のお払いにどなたかがいらしていた。
太鼓の音が どんどん と境内に気持ちよく
鳴り響いた。
やはり、ゆっくりと穏やかに響く太鼓の音は
なんとも言えないなと思う。
M神宮の太鼓はかなり大きいのでこういうゆとりのある
音が出るのだと思う。
宮司さんの息子さんと思われる方が
七五三の神事が終わったあとで子供に
「ぼくはいい子にしてたからもうひとつ風船あげるね」と言って
風船をもうひとつ手渡した。
子供は風船を二個持って誇らしげに本殿から出てきた。
本当にお手本のような子供への声かけの仕方だなと思う。
こういうお宮のあととりに生まれると神事はもちろんのこと
子供への声かけ、近所のおばちゃんの苦情対応、
まちの議員さんの表敬訪問を受ける、
記念撮影に収まる、時にはお茶席に出たりする
観光ガイドのような説明もする、
本当にすることがいっぱいあるなと思う。
ひょっとしたら遊んでいる暇もないかもしれない。
お宮を後にして町を歩くと空き地にも白菊が咲いている
そういう時期なんだなと思う。
駅前モールの花やさんにも白菊があった。
僕がそれをみていると、「どれにしましょう」と店員さんが言ったので。
「いや見てるだけです」とぼくは言った。
隣町に行って薬局の前を通りかかった。
ちょっと久しぶりに試してみたいお薬があったので
それを持ってレジに行った。
レジの方が「このお薬はじめてですか」と僕に聞いた。
ぼくはきっとレジの方がなにか懸念しておられることがあるんだろうな
と思った。
それで「いいえはじめてではありません。説明書をちゃんと読みますので
大丈夫です」と答えた。
「この薬は○○の成分が含まれていますので
飲むのがはじめてなのかどうか確認することが必要なんです」とレジの方は言った。
だから、初めてではないと言ったじゃないかと心のなかで思ったけれど
それは言わなかった。きっとレジの方は説明書を読むので大丈夫
という僕の言葉に反応して、そういう問題じゃなくて
はじめて飲むのかどうかを確認していると言いたかったのだと思う。
それでぼくは改めて「いいえはじめてではありません」と繰り返した。
○○の成分というところがよく聞き取れなかったけれど
劇薬に相当する成分という感じじゃないのかなと思えた。
ちなみにレジの方のネームタグには登録販売しと書いてあった。
その薬を飲むときそうか劇薬かと思ったら
なんか心臓がドキドキしてしまった。
それで、説明書を見たら副作用のところに動悸と書いてある。
これはいかん落ち着かなければと思い念仏を繰り返し唱えたら
ドキドキがなおった。おかげさまということなのだと思う。
ただ、僕の場合お薬のプラシーボ効果をかなり信じているタイプなので
効くとおもって飲むのと危ないとおもって飲むのでは
効果がかなりちがってくるような気がする。
登録販売の方も危険性を強調するより
お薬が効きますようにという気持ちで売ってくださったらいいのに
とおもうのだけれど、実際に都会の特にターミナル駅近くの薬局では
便秘薬五箱とか平気で買っていくひとがいるので
販売しの方もいろいろと大変なのだと思う。
ちょっと確認を怠ったら先輩になにか言われるかも知れないし。
でも、僕の場合薬局での販売しの方とのコミュニケーションの
すれ違いというのが時々起きる。
なぜなんだろうと思ってしまう。
ちなみに、ネットで僕が買ったお薬の成分を調べてみたら
厚生労働省が指定する依存性のある薬物に相当する成分が
含まれていた。
ただ、薬局で普通に売っている第二類の医薬品を
用法 用量を守って事故が起きることは本当に文字通り
万が一だと思うし、実際そのお薬を買って、
確認事項を問われたという体験は今回がはじめてだ。
まあ、薬局は隣町の駅近くにはたくさんあるので
買う商品によっていろいろとお店を選択しようかなと思う。
すっと通してくださるお店の方がありがたいなと個人的には思う。

週末の風景

2017年11月18日 | 日記
ザシンフォニーホールに日本センチュリー交響楽団の
コンサートを聞きに行った。
帰りにコンサートホール近くのHSホテルの喫茶店はどうなっているだろうと
行ってみたらその喫茶店はアメリカ系列のセルフサービス型の喫茶店に
生まれ変わっていた。うーん。この場所では
ホテルの喫茶店の経営は厳しいのかと思ってしまった。
時代の流れと言えば時代の流れと思う。
大阪北のターミナルの100円ショップに行ったら
アラブ人の男性と日本人の女性のカップルとおぼしきひとがいた。
女性がコテコテの関西弁を話しているせいか
アラブ人の男性も日本語ペラペラというよりも
関西弁ペラペラだった。
100円ショップのガールズファッションコーナーで
アラブ人の男性はニットの冬用帽子をかぶった。
「めちゃ似合てるやん」と女性が行った。
「そうなん」とアラブ人の男性が言った。
「似合てるならいいやん買うてこか」と男性は続けた。
僕も見てみるとアラブ人のパッチリお目目にかわいい帽子
デカイずうたいが微妙にマッチして驚くほど似合っている。
「でもこれガールズコーナーの帽子やで」と女性が言った。
「ガールって若いレディか」とアラブ人の男性が言った。
「そうや」と女性が言った。
結局二人でああだこうだといっているうちに
帽子は買わずにどこかに行ってしまった。
カップルが行ってしまったあと僕もその帽子をかぶってみた。
鏡はないけれどかぶり心地はよかった。
100円ショップの帽子だしガールズコーナーにあったと
言わなければなにもわからない。
一瞬買おうかなと思ったけれどちょっと思い止まった。
また、もしほしくなったら地元の100円ショップで買えばいいし。
でも楽しそうなカップルだったなあと思う。

お宮に行った

2017年11月17日 | 日記
今日は自宅の近くのR宮にお参りに行った。
もみじがどんな感じか見るのも兼ねてお参りした。
ちょうど緑から紅のグラデーションが出揃ったタイミングだった。
先週行ったときはまだ紅くなりかけたところという感じだったけれど
今日は紅いところは完全に紅くなっていて緑のところは
まだ全然緑というタイミングだったのでよかったなあと思った。
宮司さんが七五三の祝詞をあげておられた。
最初はかけまくもかしこしいざなぎのおおかみで
はじまる一般的な祝詞でその次に七五三に特化した
祝詞をお読みになった。
青竹のごとくすこやかに育たんことをというような
言葉が入っている。
宮司さんよく声が出ているなあとおもって聞いていた。
境内では地元のボランティアの方がお宮に来られたかたに
いろいろ境内の説明をしておられた。
僕もなにげにちょっと離れた場所からそれを聞いていると
鳥居の手前の石柱にはこれより西はお宮の神領につき
守護は入らない。という意味のことがかかれていると
ボランティアの方は説明しておられた。
説明を聞いた上で石柱の漢字をもう一度読んでみると
本当にボランティアの方がせつめいされた通りの文字が
書いてある。
そうかこのお宮から西は昔は神領だったのかと思った。
神領という文字が経年劣化で読みづらくなっていて
気づかなかった。
ちなみに守護が入らないというときの守護は
鎌倉時代の守護、地頭の守護なので文字通り後守護がない
という意味ではない。
桜の紅葉はもうほとんど終わっていた。
R宮の通用門ちかくにある駅前喫茶TT さんの柿の木を
見たら実が全くなかった。
去年はたくさん実っていて結局刈り取ることもなく
そのままだったのにと思った。
その話をR宮通用門前のラウンジのママにしたら
「そういえば去年はたくさん実ってましたね
私も覚えてます。今年はひょっとして実らなかったんじゃないですか」と
おっしゃった。
そういえばそんなような気がしてきた。
気のようすをみるとどこにも柿が実ったような気がしない。
ちょっとネットで調べてみたら
柿がよく実った次の年に実らないのはよくある話
というようなことが書いてあった。
子供の頃は柿の木のある家で育ったのにそんなことにも
気づかなかったのかと思った。

よくある話

2017年11月16日 | 日記
僕が定期講読している新聞に人生案内というコーナーがある。
いろいろな方の悩みに相談員が答えるコーナー。
会社をやめた50代の女性が会社時代の友人と
付き合いをやめようかと思うという相談があった。
本人が一度言ったことを再度口にすると
友人は「その話もう聞いた」と突き放すようにいうので
彼女の人柄に疑問を感じるようになった。
一度言っても言ったことを自分は忘れてしまって
また言うと彼女からは「その話もう聞いた」と
返されるのがしんどい。というだいたいそんな主旨の相談だった。
相談員のかたはもうそうなったら
彼女と付き合いを続けるメリットとデメリットを洗い出して
デメリットの方が大きかったらフェードアウトするようにすれば
自然と付き合いが消滅するというようなことを答えておられた。
まあ、会社をやめてから付き合うことのメリットデメリットを
うまく勘案できればよいのだけれど、、、と僕は思った。
でも、誰にでも同じことを繰り返し話す癖って多かれ少なかれ
あると思う。
ひとそれぞれに関心のあることを話すわけだし
ひとそれぞれに自分に関心のあることがらへの傾向は
おのずと決まってくる。
どうしても同じこと同じようなことを繰り返し話してしまうことになる。
僕にも同じことを繰り返し話す癖は顕著にあるようで
これまで何度も「その話もう聞いたで」と言われたことがある。
逆のパターンもある。
同じことを繰り返し聞いてしまって
「その話もうしたで」 「その話もう終わったで」と言われたことも
ずいぶん多いような気がする。
ただ、いろいろとふりかえってみると
「その話もうきいた」 「その話もうしたで」という言葉を
いう癖がある人は僕の経験則として男性よりも
女性の方が多いような気がする。
男性から「その話もうきいた」とか「その話もうした」と言われた
記憶はそれほどはない。
仕事上の話しで「言ったことはメモを取って繰り返し聞きに
来ないでください」と言われたことはあるけれど。
やはり、そう言われると何度も同じことを聞いて
相手に二度手間をかけているように思うので
次回からはメモを用意して話を聞きに行くように
心がけた。
しかし、個人的な付き合いのなかでメモを
とりながら話をするというのも不自然だし、、
ちなみに、僕も個人的な付き合いのなかで
同じ人と同じ話を繰り返しすることはよくある。
相手が同じ話をまた繰り返してるなあとおもっても
それを口に出すことはない
それをすると話の場がしらけてしまうから。
でも職場では「その話もうきいた」とか
「その話もうしたで」という口癖の人は
なんとなくまわりから、あの人と話をするのはちょっとハードルが高いなあ
という雰囲気で見つめられていたような気がする。
たとえ同じ話を何回も聞くことになっても
できることなら
「はい、はい」とうなずきながら聞ける自分でありたいなと思う。