自民党のある女性の代議士が党の会合で「女性はいくらでもうそをつけますから」と発言したことがこのところタブロイド紙などで話題になっている。
僕もどういう文脈の中でこの言葉が出たのか知らないのであまりこの言葉に対してなにかコメントする立場にはないのだろうとは思う。
しかし、あえてこのことを取り上げて書いてみる。
僕はこ数日前にラジオで浜村淳さんがこのことを報じておられてそれによってこの発言を知った。
浜村淳さんもどういう文脈でこの発言が出たのかまで報じておられたわけではない。
ただ、浜村淳さんは
「女性代議士は女性はいくらでもうそをつけますからと言ったそうです。そしてそのことを問われると、私、そんなこと言ってませんと、もう、うそをついてはりますのや。党の会合で出た話なので発言があったことは間違いないと思いますけど、そんなことは言ってませんと、もう、うそをついてはりますのや」という感じの、いかにも浜村さんらしいユーモアのある語りでこのことを報じておられた。
まるで、女性はいくらでもうそをつくということを女性代議士自らが証明してしまっているとやんわりと言わんばかりの浜村さんのユーモアだった。
それでちょっとウィキペディアでこの女性代議士の過去の発言を調べてみると、例えばLGBTの人には生産性がないとか、自殺率が高いとか、やはりちょっと不適切ではないかなと思われるような発言が芋づる式に出てくる。
言い方はよくないかも知れないけれど、確信犯的に過激な発言をして、自己をアピールする、または自分の立場や地位を築き、また、保つというタイプである可能性も高いように思われる。
僕も以前はこういう発言のオンパレードを見ると、なんてひどい発言を繰り返す人だと思っていた。
しかし、最近、自分自身も歳をとり、また、自分の周りには自分以上に歳をとった人がおおいという環境で暮らしていると、はたして、こんなハッタリに近いような発言をずっと続けていて、人生最後までいけるだろうかと思うことが多くなった。
八王源先生が生前「俺が、俺が、私が、私がという心がけでは、人生絶対に最後までいけませんからね」と語っておられたことを最近、今まで以上にリアルに意識することが多くなった。
ちょっと話は変わるのだけれど、憎まれ小僧世にはばかる、とう言葉の通り、本当にどんな集団にいても、どうしてあんなに勝手のいいひとが幅をきかせて良い思いをしたり、良い立場にいたりするのだろうと思うことがある。
新聞の人生相談などにも、あんなに勝手な人が幅を利かせていて、私が気を使っているのがあほくさくなってくる。でも私がそういうところから距離を置くと、あの人がますますのさばるかと思うと、なんだか悔しい。意地でも離れたくない気持ちもある。
というような相談が寄せられることも多い。
そういう相談をしたくなる気持ち僕にもわかるような気がする。
僕もそういう思いになることがあるので、、、。
そんなとき僕は旧約聖書の箴言のこんな言葉に目を通す。
「賢い人は災難が来ると見れば身を隠し、思慮なき者は向かっていって罰を受ける」
罰を受けるという聖書の書き方はキリスト教の説教などの考え方にどっぷりとつかってしまうと、神様から罰を受けるという考え方になってしまうと思う。
しかし、もっと実際に即してここを読むと
「賢い人は災難が来ると見れば身を隠し、思慮なきものは向かっていって災難に合う」と言い換えてもかまわないと思う。
特定の事柄に対して執着を持ちすぎるとそこから離れなれなくなって向かっていって災難にあいがちだけれど、執着を持たないようにして、いやなら、そして、しんどかったら、いつでもそこから離れよう、という気持ちを持っていたほうが、結局、自由で安全に生きられる度合いは増すように思う。
中島みゆきさんの彼女の生き方という歌の歌詞の一節に
「そうさ、私はたんぽぽの花、風に吹かれて飛んでゆく」というものがあるけれど、そういう考え方に憧れる部分、また、そういう考え方を大切にしたい気持ちというのは誰でも少なからず持っているものなのだろうと僕は思う。