ケンのブログ

日々の雑感や日記

天理教の神は二頭の白狐

2020年09月06日 | 読書
芹沢光治良の「人間の運命」という小説に主人公の次郎が、次郎の妻の父、つまり義理の父のつてで法華経の熱心な信者C婦人の加持祈祷を受ける場面がある。

そこにはこんな記述がある。
(C婦人が次郎に言う)
「いくら法華経をお唱えしても、どうしても心眼も天眼もひらけないので、不思議でならなかったのです。それで一心に、二時間もお唱えして、邪魔をしている魔神と闘ったのです。すると、二頭の白狐が出ましてね。何者かと、責めて問いただしたところ、天理教の神だと申しました。それで、白狐の邪魔を追い払うために、骨をおりました」

「天理教の神が二頭の白狐ですか」

次郎は心から笑いたかったが笑えなかった。

中略

(次郎の)母の信じた神は二頭の白狐であると言うのかと、C婦人を罵倒したい気持ちでいっぱいであった。天理教の信仰を失っているが、小さいときから聞いている天理教の神は、月日という表現で、教えられたこともある。この世を創り、人間を創った親神であると、教えられたこともある。

信仰とは、人間を創った親神の意思(おもわく)に人々が添うことだと、信じられている。 それを二頭の白狐が天眼にうつって、それが天理教の神だというのは、この未亡人(C婦人)の意識に、荒神や動物霊のような土俗的な信仰があるからだと、次郎には思われた。信仰でもなんでもないことで物々しいが、下手な指圧か、按摩(あんま)の一種にちがいないのだ。

中略
「この家で読経をしていただく必要があるかどうか、それは、僕は知りませんが・・・・僕の病気のためならば、明日からはC先生にもこ辞退してくれませんか。こんなにぼくはよくなったですから、読経や加持祈祷はいりません」
呆れている仁藤婦人を尻目に、次郎は書院を出た。”

※仁藤婦人はC婦人の関係者

加持祈祷師に嫌気が差してその継続を次郎が断る場面だけれど、最後は、家に読経が必要はどうかはともかく僕には必要ない、と次郎は断っている。

家のことにまでは口は出さないけれど、少なくとも自分は断る。という線引きをちゃんとしている態度が立派だなと思う。

自分の範囲を逸脱したことにまで口を出すと、揉め事の根が深くなるというのが世の常だから。

そして自分のことで嫌なことはちゃんと断らないと、不本意な方に自分が流されてしまう。

そういうことをこの場面からは教えられるなと思う。

信仰ということに対しても、次郎の目には土俗的なものと、そうでないものとの区別もついているように僕には思われる。

ここで次郎が土俗的な信仰と言っているものは、今風の表現で言えば霊感商法に近いようなものであると感じる。

相手を罵倒したくなってもそれを辛抱する心というのもこの場面からは教えられるなと思う。



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