「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

二人の男が語る―多喜二の"妻"伊藤ふじ子

2009-09-13 09:40:24 | takiji_1932
●森熊猛「伊藤ふじ子のこと」=私が手塚(英孝)さんと会ったのは三回ぐらいしかないんです。
去年の春、私の女房が死にました。女房は僕と四十年数年間一緒にいたんですが、その前に小林多喜二と一緒に暮らしたことがある伊藤ふじ子という女性なんです。

その伊藤ふじ子が私と一緒になった時、これ小林の分骨よ、といって箱に入れたちいさなものを持ってきたんです。そのほか手荷物みたいなものをいくつか持ってきたし、私も今からもう五十年ほどまえで、非常に貧乏で、どうにもこうにもならないような時代でした。

小林が亡くなったのが、昭和八年ですから、昭和九年の春、ちょうど一年目ですね、そのころ二人で一緒に生活しはじめたわけなんです。

それがながい年月経って、最後にその骨が残ったわけです。」


生前私と女房がある日二人で歩いているとき、女房がお骨を向こうの家に返したいというんです。だけど受け取ってくれるかどうかと考えまして、手塚さんに電話して、相談してもらったのですが、あの時の様子がよくわからないというのだな。

それが小林の骨であるかどうかわからないし受け取らないという返事がきたって手塚さんがいうんです。

また女房が手塚さんと電話で話しまして、どうするといったら、もう四十年間一緒にいたんだからこれはうちに置いておく、というんです。それは生前だからまだいいんだけれども、女房がいなくなってその骨があるということは、亭主たるものまことに妙なもので、それを捨てるわけにもいかないし、どこか墓地にもっていっても、こんな小さな箱なんですよね。

女房はともかく彼の骨だというわけだから、これじゃあしょうがないなあと思っているうちに、四十九日がきて、女房の骨を納めなくてはならないというわけだ。

女房が小林の分骨だというお骨をあけて一緒にして土にかえしたわけだ。

それはそれで済んだとまったくほっとしたわけです。そ

ういういきさつがあり、それから女房が手さげカバンか何か持ってきたのがうちにある。僕がみてもわかんないいろいろな、当時でいうと労働調査なんとかだとかこむずかしい本があった、『新潮』なんかもあったような気がします。それに英語でちょちょっと書いてある。僕がそんなもの書くわけがない、女房だってもちろん語学なんかできるわけじゃない。

とにかく女房の持ってきたものだし、『中央公論』だとか小林の作品の出た本があったもんだから、それを手塚さんにあげようと思ってもっていった。いろいろ手塚さんが見たら、これはあいつの字だ、まちがいない、ということで小林多喜二のそういうものを集めているところがあるから、そこに持っていくというのです。

『赤旗』にデカデカと出たもんで私もちょっと驚いたんだけれども、そういうようなことでいろいろと手塚さんにはお世話になったわけです。それが去年、女房の亡くなったのが五月ですから四十九日の前、六月頃です。

もっと前のことをいうと、終戦直後に手塚さんが私の家を訪ねて、私と女房と手塚さんと三人で、いろいろ戦前のことを話したことがあります。それが小林多喜二の本にちょっと出ているようですけども。そういうことがあって亡くなる半年位前にも会っているわけなんで、本当に驚いたわけなんです。」

*画像は、森熊猛さんとふじ子さん。


●手塚の描くふじ子像「非合法時代の小林多喜二」=四月二十日頃から小林多喜二は麻布東町の称名寺という寺の境内にある二階の一室を借りてひそかに移り住んだ。ここは上下一間ずつの小さな家だった。彼が借りた階下の部屋は隣家の板壁に周りをさえぎられて一日中日光のあたらない陰気な一室であった。彼は非合法になったのちまもなく、伊藤ふじ子と結婚して同居した。伊藤とは三一年頃からの知り合いであった。彼女は銀座の図案社につとめていた。彼には田口タキという不幸な境遇から彼が救い出した北海道時代からの愛人があった。彼は田口との結婚を希望していたが、彼女は病気の母と四人の妹弟の生活のために、折角上京して習得した美容師の収入では生計が立たず、料理店で働かなくてはならない境遇にあった。彼との結婚が、彼に重い負担をあたえ、彼の生活仕事を破壊するようになることを考え、田口は彼の願いをかたくこばんで受け入れなかった。このような事情で彼もまた田口との結婚を断念しなければならなかったのである。」

「三二年九月中旬、小林多喜二は新網町の二階から、同区桜田町に一軒の小さな二階家を借りて移ることができた。まもなく、伊藤の母を郷里の山梨から呼びよせ、非合法生活に入って半年後に、ようやく、かなり安定した隠家をつくることができるのであった。しかし、その家も長くはつづかなかった。三ヶ月後に十月事件の関係者の連関から伊藤が突然、銀座の勤先で検挙された。そして、その翌日の早朝、隠家は数名の特高刑事にふみこまれ家宅捜索をうけた。十日ばかり前から、彼は家のすぐ近くに巡査が引越してきたため、一応用心して、他へ宿っていたが、その日は朝のうちに連絡をすまして、ちょうど特高たちがひきあげていった直後に帰宅したのであった。

●隠家には注意ぶかい用意がしてあったとみえ、奇蹟的に彼は逮捕をまぬかれたが、このような事情で、彼は渋谷区羽沢町に下宿した。二週間後には伊藤は釈放されたが、その後は伊藤の関係をたぐって捜査される危険もあって、同居することは不可能となった。羽沢町の下宿は階段したのは二畳の狭苦しい部屋だった。換気が悪いので、彼は寒中も火鉢をおかずに仕事をした。」

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