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「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

多喜二と佐多稲子

2008-12-16 11:59:05 | 多喜二と同時代を生きた人々
宮本 百合子「窪川稲子のこと」には、1931年1月出獄したばかりの多喜二の姿が描かれている。

しかし、百合子と多喜二の距離は遠い。
窪川稲子のことでさえよく分からなかった百合子が、多喜二のことはよく分かるという立ち位置にはいないことを、この一文はうかがわせる。


多喜二が「オルグ」を執筆する二~三ヶ月後、その関係が急に深まったというどんな情報もいまのところ確認できない。




宮本 百合子
「窪川稲子のこと」




 窪川稲子に私がはじめて会ったのは、多分私がもとの日本プロレタリア作家同盟にはいった一九三〇年の押しつまってからのことであったと思う。私はその頃本郷の下宿にいて、そこで会ったように思う。最初の印象は、今日もう思い出せなくなってしまっている。そのときも彼女らしく、どこといって変に目立つようなところを外見にもっていなかったのであったろう。



 次の年の寒い時分、大阪に『戦旗』の講演会があって徳永直、武田麟太郎、黒島伝治、窪川稲子その他の人々が東京駅から夜汽車で立った。私は次の日出かけることになっていてステーションまで皆を送りに行ったら、丁度前の日(1931年1月22日)保釈で出たばかりの小林多喜二が、インバネスも着ず大島絣の着物の肩をピンと張って、やっぱり見送りに来ていた。待合室の床の上にカタカタと高く下駄の音をたてて歩きながら小林は大きい声で秋田訛を響かせつつ何か話していた。


 大阪と京都との講演会の間、稲子さんと私とは或る友人の家に泊った。大阪ではひどい雨に会って、天王寺の会場へゆく道々傘をもたない私共は濡れて歩いたのであったが、稲子さんは、宿をかしてくれた友達のマントを頭からかぶって、

足袋にはねをあげまいと努力しながら、いそいで歩いた。私は洋服を着て、その不自由そうな様子を大変劬(いたわ)る心持であった。私が何かいうと「ありがとう、大丈夫です」と稲子さんは笑顔をした。夜おそくなって友達のところへかえると、稲子さんはああお乳が張った、御免なさいと、立てた膝の上に受けるものをおいてお乳をしぼった。今五つの健造がまだお乳をのんでいた。その子を置いて講演会に出て来ていたのである。私は並べて敷かれている自分の寝床の方から稲子さんのお乳をしぼっているところまで出かけてゆき、プロレタリア作家としての女の生活を様々の強い、新鮮な感情をもって考えながら、やっぱり一種心配気な顔つきで稲子さんのお乳をしぼる様子を謹んでわきから眺めた。

まだその頃、稲子さんの過去の生活にどんな階級的な蓄積があるかということなどについて私は殆ど全く知らなかったから、ごく普通に考えて、私は自分が稲子さんより年上だし劬って上げなければならないという気がしていたのであった。そのことを考えると、私は今何だかいい意味でだが笑えて来る。稲子さんの方は、私がまるで新しい活動に入って来たのだからと、却ってそれとなくいろいろ気を配ってくれたのであったろう。その講演会のとき撮った写真がある。この間もそれを二人で見て、私が「この私!」と云って笑ったら、稲子さんも「ねえ!」と云い、声を合わせ、そのときから今日までの二人の生活に対し深い感慨を覚えながら、大いに笑った。


 一九三二年窪川さんが獄中生活にうつるまで稲子さん一家は下十條にいて、私はよくそこを訪ね、次第に作家同盟の仕事や、『働く婦人』という雑誌の編輯の仕事やらで、会わずにいられないようになった。


 その時分でも、私は十分稲子さんがわかっていなかった。窪川鶴次郎の妻というような面が家庭内の日常生活のうちでは自然押し出されていたし、又無口な性質で、何かにつけても結論だけ感想風な表現で云うという工合であったから、稲子さんが文学についても生活についても大変鋭いそして健全な洞察力をもっていることははっきり感じていたが、勁い力、一旦こうときめたら動かぬというところの価値などは、階級的な鍛錬の浅い当時の私に分らなかったのである。


 一九三二年の春から一九三三年の冬まで窪川鶴次郎が他の多くの仲間とともに奪われ、その間プロレタリア文化運動全般に益々困難が加わり、「ナルプ」は遂に一九三四年二月解散するに到った。


経験に富んだ活動家を失ってからの仕事は内外とも実にむずかしく、稲子さんも私も全力をつくして階級的に正常なものであると考えられる方向に向って行動するために努力したのであったが、客観的な結果としてはそれが十分の一も具体化されない状態であった。


稲子さんは一九三二年の夏は大森の実家が長崎へ引上げた後の家に生れたばかりの達枝と健造、七十を越したおばあさんを引つれて住み、秋、戸塚の方へ引越して来たのであった。大森の家へ行ったにしろ、それは実家の父親が発狂して職についていられなくなり、故郷へ帰ったからであった。稲子さんは自分の二人の子供達を食わせ、おばあさんを養わねばならない上に、獄中の良人のために心労をし、しかも当時の仕事の性質上、金は極端にとれなかった。


獄中の鶴次郎さんに差入れる夜具布団を自分で家から背負って持って行った。そういう窮乏状態であった。私共は、その時分謂わば財布も一つ、心も一つという工合で、必死の生活をやっていたのであったが、稲子さんは、この布団を背負って行ったということを、そのことがあって既に何日か経った後、ごくさらりと、何かの話の間に交えて私に話した。私は、互の仕事と生活とが困難になってから、稲子さんというひとの非常な粘りづよさ、堅忍、正義感、周密さなどを益々高く評価し、生涯の友と信ずるようになっていたのだが、この何でもなく話されたことは寧ろ私を愕かせ、又新たな稲子さんの一面に打たれた。


稲子さんは、互の友情にも甘えないひとである。センチメンタルなところがすこしもない。これは女として新しいタイプであり、その点、稲子さんの良人となり友人となる者にとっては、或るこわさがある。対手を高める力として作用する隠されたこわさがある。稲子さんは、例えば私にしろ、私たちとしての立場から見て妙なことでもすれば、のほほんと馴れ合ってはしまわない。自分自身に対してもそのことは同じであると思わせるものを、日頃の生活態度に蔵しているのである。


従って、プロレタリア作家としての自身の発展に対しても、稲子さんは、ずるずるべったりなところがない。このことは、或る場合、現在のような時期には、複雑な内容で彼女を苦しめることも、私にはよく理解されるように思う。プロレタリア作家として窪川稲子は、作品の或る情趣とか、リリカルな効果とかそんなものでは安心しない深く真面目な芸術家としての感覚をもっている。


又、自分の作家的出生即ち、家庭の事情によって小学校さえ卒業させられず、少女時代から勤労者の生活を経験したという、そういう出生だけをふりかざして安心してもいない。経験主義者の持つ安易な評価は、自分自身に対してもひとに対しても抱いていないのである。階級全体の発展が大なる困難におかれている時、彼女のように過去の生活において直接間接永い間大衆の力との密接な連関で作家としても正しく育って来た作家は、自身の作家生活の実態において今日の大衆の苦難を感じそれと闘っているのではあるまいか。

『牡丹のある家』という小説集は、よく読んで見るとそういう窪川稲子を私に理解させ得る力を含んでいるのである。最近書かれる多くの感想・評論によってもそれは分る。


 窪川稲子の業績や将来の発展というものは、それ故すべての積極的な、忍耐づよい、天分あるプロレタリア作家の生涯に対して云い得るように、全く階級の力の多岐多難な発展の過程とともに語られて初めて本質に迫り得るものであると思う。歴史の新たな担いてとして立ち現れた階級が持っている必然的な質のちがいが、ブルジョア婦人作家と窪川稲子との間に在ることは自明なのである。


 私たちは、様々の苦しい目にも会いながら生涯ともに仕事をしてゆくであろうが、私としては、自分が様々の形で階級的に経験をふかめられて行くにつれて一層窪川稲子の価値が全面的に分って来て、愈々わかち難く結ばれてゆくことを深いよろこびとしている。こういうひととめぐり合えたことをも、根本に溯ってみれば階級のもつ積極的な人間関係の可能性の現れであると思い、私は単なる友情のよろこびより以上のものを感じている。
〔一九三五年三月〕


(さた いねこ)
明治37年(1904)~平成10年(1998)
 佐田稲子(本名 イネ)は明治37年(1904)長崎市に生まれました。その時、母、高柳ユキは県立佐賀高女一年(14歳)。父、田中梅太郎は県立佐賀中学五年(15歳)にすぎませんでした。
 長崎三菱造船に勤めていた父は大正4年(1915)退社し上京し、向島小梅町(現墨田区向島二丁目)の佐田秀実(父の実弟)方にに寄宿します。
 あてのない上京であったため、一家は困窮生活を余儀なくされ、牛島小学校に転校後すぐに5年生で学校をやめ、和泉橋(現・千代田区)のキャラメル工場へ働きに出ます。 その後は、池之端の料亭・向島のメリヤス工場などで働きました。
 大正15年(1926)、本郷動坂のカフェー紅緑に勤めていたときに、店で中野重治、堀辰雄、後に夫となる窪川鶴次郎ら「驢馬」の同人と知り合います。
 昭和3年(1928)処女作「キャラメル工場から」を発表し、女流作家としてスタートをきります。

 翌昭和4年(1929)日本プロレタリア作家同盟に所属、昭和4年(1932)には共産党に入党します。
 戦後初めて書いた作品「私の東京地図」は、戦地慰問などの行為を非難され、戦争責任に関し自責の念に苦しんだ彼女が、自分を見つめるために書いた作品で す。この作品を皮切りに、数多くの作品を発表し、『女の宿』で女流文学賞を、『樹影』で野間文芸賞を、『時に佇つ』で川端康成賞を受賞するなど、いずれも 高い評価を得ました。


佐田イネ(1904-1998・明治37年-平成10年)
平成10年10月12日歿 94歳 東京・八王子市富士見台霊園

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11 コメント

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稲子さん (めい)
2008-12-16 20:22:27
百合子からみた稲子さん。
いい意味で「こわさ」のある女性だったのですね。

そういえば、稲子さんは、特高に検挙されたときも、殴られたりしたことは一度もなかった、ということを書いていたように思います。

特高も、活動家の女性には、ものすごい拷問をしますが、作家には手加減したのでしょうか?




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疵あと (御影暢雄)
2008-12-16 20:52:12
佐多稲子著「疵あと」に、多喜二と思われる登場人物が描かれていると何かで知ったのですが、その短編は図書館・古本屋で探しても見当たりません。近刊の短編小説集「組織と個人」と言う特集に収められているようなのですが。
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佐多稲子「疵あと」 (佐藤)
2008-12-16 21:04:55
カルチュラル・タイフーン2005 
http://www.geocities.jp/cultural_typhoon2005/ja/ank.html
「日常性と身体:文学におけるカルチュラル・スタディーズの可能性について
で、今市絵里香発表では佐多稲子「疵あと」における女性の身体表象について発表された模様です。このセッションに登場の鳥木圭太氏はオックスフォード多喜二シンポでも発表されました。
返信する
佐多稲子「二月二十日のあと」1 (takahashi)
2008-12-16 23:31:00
二月二十日のあと

佐多稲子

 裁判所の暗い冷々とした廊下で、結果報告をする佐々木の声が、劇場員らしくゆったりと響いていた。廊下に据えた小さな机のそばで、二、三人の廷丁たちが鉄の小火鉢を中にして妙に居心地悪そうに反っぽを向いている。ときどきこちらのものと顔が合うと、殊更らにおもしろくない顔でつうとそらす。

 犠牲者家族を交ぜて四、五十人の抗議隊が、代表の佐々木と、家族代表の壺井と法服をきた二人の若い弁護士をとりまいて廊下を一杯にふさいでいた。その中をときどき用のある裁判所の書記たちが身体を斜めに下を向いて行き来した。

 一九三三年二月二十一日、その日は昨年三月末の弾圧に検挙されたコップの犠牲者たちの予審促進、統一審理要求、それに最近殊に馬鹿げてひどくなった通信の制限に対する抗議などに、小石ほどのまげをのっけたおっ母さんたちや、赤い洋服をきた小野宮吉の女の児も交じえ、コップ同盟の各団体員が東京地方裁判所へ押しかけていたのである。

「度々係りの判事を変えるのは何故かという、こちらの質問に対して、いや、あれは、実は被告の数が非常に増えるので……」

 プロレタリア演技者佐々木は、判事の言葉をそう真似ながら、その言葉の内容をも階級的に解剖してふうししていた。

「被告の数が非常に増えている。しかし、いま衆議院でこのことに関する予算の増額が可決されんとしている……」

 そう言って私や原泉子たちその他のものへ目を移してゆき苦笑いした。

「予算が増額されれば、この方の判事を五人許り増やすことが出来るから早く運ぶようになるだろうというのであります」

 揶揄的な佐々木の言葉でみんなもチェッとか、フンとかいって苦笑いした。

 私はここへくる途中見て来た貴族院、衆議院の、それを中心に張られた厳重な警戒と、議員の門内にずらりと並んでいた光った自動車を思い出した。同志の取り調べに関するこの次席判事の言葉によって、ずらりと並んでいた自動車の白い光り、それを護衛していた剣と銃、それらをも一度はっきりと直接的に対立した感情で思い出すのであった。あの中で、ブルジョア新聞でさえ書き立てたほどのぼう大な軍事予算が可決され、労働者農民圧迫の諸議題が立憲制の仮面を被せてはこび出される。

 この日の抗議は「威厳」ある裁判所のお役所主義を盾にした細かいことにまで対立して、老人たちをも闘いの感情に揺すぶらせた。朝九時から午後三時まで、冷めたい石の廊下の上で身体をこわばらせながら。

「いつも元気だな、あの連中と来たら」

 解散して別れてゆく弁護士の声が、ピタピタという草履の音にまじってラ線形の会談に響く。

 帰途一緒になった壺井と私は、裁判所でしんまで冷え込んだ身体を慄わせてにぶい陽向をむさぼるようにえらんで歩いた。

 作家同盟の詩人である朝鮮の同志金龍済の面接許可願をやっと今日とることに出来た壺井は今日の直接的な効果は先ずこれだといってくり返した。同志金龍済は、日本在住の家族が無いため、刑務所にいるのに面会に行く者が無かったのだ。今後は壺井が家族代りになるのである。

「次席判事が自身で、はっきりとそう言ったわ。大勢で押しかけてこられるのがいちばんこわいって、はっきりそう言ったわ」

 たびたびゆかねばならぬ、と二人は言って笑った。

 その夕方、私は中條の家にいた。昨夜、仕事をしようとして起きていながら赤ん坊に夜中ぐずられて、結局無駄に徹夜をしてしまいそれだけ今日の疲労が癪にさわる話などすると中條が、よしそれでは晩御飯におごって肉を焼いて喰わそうと言って、自分一人台所へ降りて行った。

 私は二階で、今朝から読み始めている小林の「地区の人々」の頁を開けた。プロレタリア文学の党派性のために、身を以て実践しつつある小林のその作品は、彼が真実のプロレタリア作家として成長しつつあることを示している作品であり、従ってまた、この先きにも大きな発展を約束している作品であった。一昨年六月以降にも行われた文化運動の方向転換によって、私がこれまでもっていた、プロレタリア作家としての任務に対する不満足と、焦慮は解決されていた。私は安心して文化運動の大きな発展の中に身を飛び込ませていた。その時、同志小林の作品はいろいろな意味で私を元気づけた。私は小林に一度逢ってこの思いを伝えたい衝動にかられた。この思いを「地区の人々」を読み始めた今朝から私は持ち続けていたのであった。相変らずあの愉快な高い笑い声を上げていることであろう。そう思い、微笑ましくなるのであった。

 階下で肉を焼くシューンという高い音と、あぶらのにおいの中から中條が降りて来い、と呼んだ。

 中條の弟さん夫妻と一緒にいつになく寛いで食事をした。そのあとで中條が夕刊を取り上げたのである。傍から覗いた私の目が下段の小さな写真にふっと引かれた。

「あらッ」

 うん? と言ってすぐその方を見た中條がまた「あらッ」と叫んだ。私がまた殆ど同時に声を発した。二人の顔がさっと白くなった。二人はとっさに片手を握り合せていた。

 小林多喜二氏、築地署で急逝という新聞の活字が何か遠い信ずべからざるものを報じているように思えた。どうぞ嘘であればいい、瞬間身がねじられるようにそう思った。

 顔を上げ私を見て中條が、

「また、殺しやがった」

 その言葉で、二人は堪え兼ねるように、クックッと声をほとばしらせて泣いた。ああ、それは信ずべからざるものを報じていた。たった今迄も、小林は我々の感情の中に、身近かに元気でいる筈であった。何処かの街を、相変らずあの肩をそびやかして足早やに歩いているであろうという、彼に対するわれわれの愉快な想像をこの一片の新聞記事はみじんに叩きわろうというのか。

「とにかく、どっかへ行きましょう」

 二人は膳から立って二階へ行った。
返信する
佐多稲子「二月二十日のあと」2 (takahashi)
2008-12-16 23:34:08
あああ、嘘であれ、またしても胸をしぼるようにそう思った。そのあとどうにも出来ない悲しみが、それをもたらしたものに対する怒りとごっちゃになっておそった。

 二人はそこに立ったまま又泣いた。

 立って泣きながら、どう動くか相談した。とにかく屍体の傍へ行きたい。小林の屍を我々大勢の手に握りたいという感情が強く二人を囚えた。

 途中一人をさそって、小林の阿佐ヶ谷の家近い、一人の同盟員の家に急いだ。みんな外のことは何も考えず只早く小林の屍を我々の手に握りたいということと、これに対する敵階級への闘争のことだけを考えた。まったく、途中の街のことなど何一つ気づかず走っていた。

 車を降りて、凍った暗い小路へ入ってゆく三人の足音は小きざみに高く響いた。

 そこではすでに十人近く集まっていた。みんな顔を合せても、小林の死そのものについては言うべき言葉を知らず黙っていた。みんなは声を低くし、緊張して応急の対策について語った。同盟員全体が大きな衝撃を受けて、家を出、寄り合っているであろうことが想像できた。

「このことを、同盟の一部の右翼化を立て直す大きなけい機にしなければいけないと思う」
「全く、そうだ」

 みんな一様に、機関誌「プロレタリア文学」に発表された堀英之助の論文を思い出していた。日和見主義に対する闘争のために書かれていたその論文は、小林らしいという噂さが高かったのである。

「これはコップ葬になるだろうな」
「勿論コップ葬だね」

 常任の話をわきに聞いて私はおもった。

「コップ葬だろうか?」

 私は昨年十二月四日本所公会堂で行われた岩田義道の労農葬を思い出していた。同志小林は、勿論文化戦線の最初の犠牲者ではある。しかしその彼の功績は、彼が文化活動を正しくプロレタリア戦線の中に、政治の優位性に統一させたところにある。そう思い、私は彼の葬儀を闘うのに、文化主義になりたくないと思った。なってはならぬというよりも、なりたくないと感情的に思った。

 一応新聞に発表された築地病院へ電話をかけて見ることになり、私が出掛けた。ピポウ、と西武電車が淋しく走っている道に、自動電話を探した。最初、弁護士の家へ電話をかけ、「あなたのおしゃることはちっとも分かりませんよ。あんまり早くて……」

 そう言われ、初めて自分の興奮していることに気づくのであった。人どおりの少くなっている通りに、さぞかしカン高く響いたことであろうと苦笑した。

 もう少し先きに、みんな自宅へ帰ったと答える病院の看護婦の横に、警察の影を強く意識しながら、屍体も一緒であろうかと聞くと、そうだという。

 一度まごつきながらも、屍体という言葉を自分で言った。その言葉でなければもう通じなくなっている!

 すぐみんな一緒に馬橋の小林の旧宅へ向った。通りの商店ももう戸をおろしている。みんなものを言うと慄える気持ちで、えり巻きにあごを埋めて歩いた。私は、我々のこの思いを明日すぐ刑務所の同志に知らせなければならぬと思う。この重大なことについて刑務所にいる人々は知らぬのだ。と思うと、隔離されている感じが生々と深く胸をえぐった。その人々にとってもまた、小林はもっとも信頼の念を通わせている一人であろうのに。自分たちの囚われたあとに、自分たちの口惜しさをもこめて、あとの闘争に一層の彼の活動を思うことは、囚われた同志たちの一つの希望であったのに違いない。

 暗い生垣の間の道を脱けて出る。ああ、この通り、まだみんな外にいた昨年三月以前に小林を尋ねて来たこの道、小林がいなくなってから一度も来なかっただけに、想い出が私の眼を打った。小林の家近くなると、私は思わず駆け出した。

 江口渙が唐紙を開けてうなずいた。玄関を上って左手の、小林のもとの部屋だ。黙って入り、黙ってその屍体のそばへ寄った。泣きながら、おっ母さんが、安田博士と一緒に小林の着物を脱がせている。中條と私がすぐそれを手伝い始めた。

 なんということだろう。こんなになって!

 腕を袖から脱ぎつつ、おえつが私の唇を慄わせた。

 中條が、

「おっ母さん、気を丈夫に持っていらっしゃいね。多喜二さんは立派に死んだのだから」
「ええ、わかってます」

 はあアと息をして、息子のこわばった腕に片手をおいて涙を拭いた。

 蒼ざめ、冷めたくこわばったこの顔、ああやっぱり小林多喜二であった。普断着て活動していたのであろう。この銘仙絣の着物をまといながら、十一カ月ぶりに自分の部屋に帰って来ていて、彼はもうそれを知らない。ああ、着物だけが生きている。

 さきに着いていた男たちも傍へ寄って、屍体を見た。ズボン下が取りのぞかれてゆき無残に皮下出血をした大腿部がみんなの目を射た。一斉に、ああ! と声を上げた。白くかたくなった両脚の膝から太股へかけ、べったりと暗紫色に変じている。最近にこれと同じ死に方をした岩田義道をすぐ思い出させた。思い出しながら、足の先きの方へ押しやられたズボン下に、警察の憎むべき跡始末の手を見た。

 安田博士の説明のそばで、おっ母さんは屍体の襟もとをかき合せてやりながら、劇しく怒るように言い続けた。

「心臓が悪いって、どこ心臓が悪い。うちの兄ちゃはどこうも心臓悪くねえです。心臓がわるければ、泳げねえでしょう。うちの兄ちゃは子供の時からよう泳いでいたのです」

「そうよ、そうよ、心臓なんかじゃないわ。みんながよく知ってるから、ね、おっ母さん、あんまり心配しない方がいい」

 中條に手をかけられて、おっ母さんは、息が苦しいように胸を波うたせて、はあア、おおッと声を上げながら頷いた。膝を崩しているよそ行きの着物が、病院へとんで行った有様を思わせ、みんなの胸をしめつけた。流れる涙を腹立たしそうに丸めて握り込んでいるハンカチでこするように横に拭いて、

「何も殺さないでもええことです。ねえ、あなた」
返信する
佐多稲子「二月二十日のあと」3 (takahashi)
2008-12-16 23:37:28
また、急にあきらめ切れぬように、ハンカチを離すと、今合せてやった多喜二の襟もとをかき開け冷めたくなった平な胸を狂おしく撫でて見廻した。

「あああ、どこら息つまった。何も殺さないでもええことハア、いたわしい。なんていうことをしたか。どこら息つまった」

 はあッ、おおッと、うなるように泣いた。

「それ、もいちど立たぬか。みんなの前でもいちど立たぬか」

 息子の顔を抱え、自分の頬を押しつけてこすった。みんなが、永いこと見なかった小林の、生きている時の面影を見ようとするその顔は厚ぼったく瞼が閉じられ血が引いてしまっている。おっ母さんはその顔に血を通わそうとするように力を入れて自分の頬をこすり合せている。私は四歳になる自分の男の子を思い出すのであった。

 部屋の中は次第に人が集まってきていた。久しぶりに顔を合すものたちも黙って目を見合すだけである。その中でおっ母さんの吐息とも泣き声ともつかぬ胸をついて出るうめき声だけが続いた。誰かが見兼ねて次の部屋へやすませるように言う。弟の三吾さんが静かに手を引いて連れ出そうとするとそれを振り払って、

「大丈夫だてば、どうもない。大丈夫だてば」

 茶碗の水も飲もうとせず、小林の身体を守るように絶えず布団をかけたり髪を撫で上げたりした。そして、胸を張って苦しそうにはアッ、おおッと息をはき、また思い出して小林の上にかぶさるようにかがんで、こめかみや首の傷をこすってはあッと深く泣いた。

「ここを打つということがあるか。ここは命どころだに。ここを打てば誰でも死にますよ」

 小林の死の苦しみの跡を追いその苦しみを自分の身に感じとってこめかみの両頬のあごの下の傷あとを撫でる母親に、また敵の兇暴な手段が直かに感じられた。親せきの婦人が三人転がるように走り込んできて小林のそばに泣き伏した時、おっ母さんは顔を上げ小林の屍の上に目を落してはっきりと言った。

「殺されたのですよ。多喜二は」

 その言葉で、三人の婦人が一層声高く泣いた。

 みんなそれを囲み、唇を強つく合せてまっすぐに坐っていた。日本のプロレタリアートにとって一つの誇りであった世界的プロレタリア作家小林多喜二は、遂に、野ばんな封建的な日本の白テロによって虐殺された。みんな、自分の生きている現在に対して今一度がく然と思いを新たにした。

 「一九二八年三月十五日」の作品において日本ブルジョア地主の拷問の事実を暴露した小林は、自身その手にたおれた。それは勿論偶然ではない。と同時に、敵は自分の階級の戦争を成功的に遂行するために、プロレタリアートに対する拷問の手を遂に虐殺にまで公然となしつつある。我々は重大な時期に生きている!

 東京の城西阿佐ヶ谷の一隅で、世界的共産主義作家小林多喜二の通夜が、かくして三、四十人の同志の悲憤と逆襲の決意の下に更けていった。

 翌二十二日午前二時朝早く用のある壺井や、乳のみ児をおいてきた私や中條などが安田博士と一緒に外へ出た。みんなまた明日も一度小林を見るつもりでいた。外はまばらに星の見える暗夜であった。露路を出たところに外套のかくしに両手を突っ込んだ巡査が後向きに立っていて四人の足跡を聞くと二、三歩前へ歩きだした。四人はその姿にも劇しい憎悪を抱きつつ、傍を通り抜けた。踏み切りの向うで自動車が止まり、降りた貴司や、原泉子や、千田是也などと行き合った。

 ああ、とみんな両方で立ち止まった。その低い叫びの中で小林の死に対するお互いの気持ちを分け合った。

「お互いに、しっかりしていましょうね」

 原泉子がそう言って私の手をしっかり握った。

 朝刑務所の窪川に面会に行った私は面会窓の狭い入口でいきなり口を塞がれた手をはねのけるように看守と争っていた。

「そんな、そんな、とても親しい友達だったのに、その友達が死んだことを言っちゃいけないなんて、冗談じゃない」

 そんなら面会させることは出来ない、という。

 むっつりとして入ってゆくと、木綿のドテラをごわごわと着ぶくれている窪川がこちらを見て、どうしたのか、と聞く。

「うん」

 私はそう一時言葉をつめ、

「昨晩お通夜をしてね、そのことで話しに来たんだけど、言っちゃいけないって言うもんだから」
「ああ、そうか」

 何か探るように表情を変えて私を見た。看守は筆記の手を止めてじっと私たちを見ている。

 われわれはトンチンカンな十五分を終えた。

 敵はわれわれを復讐の決意に立たしめることを防ぐつもりで、ここでもわれわれの口を塞いだ。われわれの決意が、単に口を塞いだだけで燃え立たぬと思っているのか。

 ここで一緒になった壺井と帰りながら、二人とも感情の半分を刑務所に取り残して来たように充分息がつけぬようなうっ積した気持ちで、声高くそのことを話して歩いた。

 夜八時すぎて小林の家へ急ぐ。広くなった東中野の駅前の通りに商店の明るい電燈が空虚に光り、道はしんかんとしていた。その中でひとりラジオが、ガアガアと軍歌をまきちらしていた。

「この頃ったら、ラジオはまったく軍歌ばかりよ」

 壺井が腹立たしそうに言う。

「だから小林は殺されたんだわ」

 ラジオの軍歌だけが示威的に走っている。広いガランとした淋しい商店街の空気にそのまま今日の日本の情勢が反映されているように感じられ、その中をわれら二人、虐殺された小林多喜二の家に急いでいることが、非常に歴史的に感じられた。

 われわれはラジオの軍歌の蔭に、じかに日本ブルジョア地主の手を感じた。小林の死を思い、も早そこでは悲しみ脱けた階級的憎悪がひしひしと二人の歩む足音をかたくした。

 われわれの憎悪は個人に対して向けらるべきではなく、階級全体に向けられねばならぬというようなことは、全くそれだけでは公式的で実際にその憎悪感が中身をもって感じられる時、ちゃんと統一されているというようなことを二人は話して歩いた。

 阿佐ヶ谷へ降りた私たちは小林の家に警察の手を幾分予想しつつ急いだ。しかしまだ私は大勢の同志に守られた小林の屍を思っていた。道は、小林の家近くなっても、まるで何事もないかのようにしんかんとして、人通りも無く暗い。

 小林の家の戸を開けると、下駄が二、三足しかない、と、弟の三吾さんが急いで出て来た。

「みんな検束られたんですよ。早く気をつけて帰って下さい」

 三吾さんの肩の蔭から誰もいない座敷に花のある祭壇をチラッと見た。

 家を出ると、もう露路に二人の男が入って来ていて、私たちの両側に立ちはだかった。

 露路の入口の空家に、七、八人の私服がたむろしていて連れてゆかれたわれわれを見た。

 留置場の廊下で先きに入っていた一人の同盟員から小林の解剖がどこでも断られたということを聞いた。

「じゃ、解剖出来ないの」

 私はせき込むように言った。それから黙って目をギラギラさせるような思いで、ジッと対手を見て唇を噛んだ。あの無残な小林の屍体が、方々持ち廻られたことを思い涙がにじんで来た。涙をにじませながら、目を見張り、唇を噛んだ。

 小林の屍の前から引かれて来た男たちも、大勢監房の中にいる。

 付記 同志小林多喜二の葬儀は、日本プロレタリアートの血の恨みの日、三月十五日に、労農葬として全国的に闘われることに決定された。

 尚、文化運動の最初の犠牲者としての小林多喜二を永く記念するために二月二十日を文化デーとしてプロレタリアートの闘争日に加えることになった。

―― 1933・3・13――


返信する
これは名ルポですよ (takahashi)
2008-12-16 23:41:36
多喜二虐殺の夜の雰囲気が生々しく記録されている作品だと思います。
同文がそのまま、「歯車」の結びともなっているのだけれど、この部分と先の部分は不調和ですね。
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アサヒグラフ (御影暢雄)
2008-12-17 20:08:10
多喜二が馬橋の家で、火鉢を前にして文士然として座っている有名な写真が1932年のアサヒグラフに掲載された時、同写真の記者レポートには「ハハハ・・」と快活に高笑いする多喜二とのやりとりが記されていますね。多喜二という人物は、人前ではいつも明るく振る舞い、ユーモアで座をなごませる素敵な青年だったから、多くの人の記憶に生き続けたということですね。
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ご紹介ありがとうございます。 (佐藤)
2008-12-17 20:49:57
takahashiさん、御影さん、ご紹介ありがとうございます。



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1932年アサヒグラフ! (めい)
2008-12-19 01:10:34
その記事、読みたいです~
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