「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

塩田一行さんの訃報が届きました。ご冥福をお祈り申し上げます。

2021-05-29 14:41:29 | つぶやきサブロー
お報せとお礼
父・塩田一行は2021年5月6日未明、他界しました。
74歳でした。
死亡の経緯と私たちの思いをここに記します。
父は4/4頃から少し咳をしていました。
4/7、母・朝子が発熱しPCR検査の結果、コロナ陽性に。
4/8に父は濃厚接触者として検査を受けて陰性でしたが、4/9から発熱し、4/12の再検査で陽性になりました。
母はすぐに入院・治療ができて回復しましたが、父は陽性になり高熱や咳、食欲減退などの症状が出ても、なかなか入院できませんでした。
自宅待機中に父の容体はどんどん悪化し、家族が保健所にいくら懇願しても、保健所も医療もひっ迫している様子で、治療への道が開かれませんでした。
高熱と孤独と恐怖に耐え、発熱後6日たって4/15にようやく入院、治療を開始するも回復せず、入院して22日目の5/6午前3:34に死亡が確認されました。
死亡届に記載された死因は「新型コロナ感染症」でした。
闘病中、父は「必ず生還する!」と何度も決意を語っていましたが、コロナウイルスとの闘いで肺や肝臓などに大きな痛手を負い、命尽きました。
しかし、人工呼吸器をつけた父の耳もとに看護師があててくださった携帯電話から家族のメッセージを聞き、最後の最後まで闘った父の免疫力は、コロナウイルスに打ち勝つことができたのだと思います。
奇跡的にも、亡くなる2日前のPCR検査の結果が陰性だったため、コロナによる死亡にもかかわらず通常の葬儀を執り行うことができました。
コロナ禍のもとにあることを考慮し、家族葬としましたが、通夜には親族以外の方もご参列いただきました。
ご弔問、ご弔電、お花、またSNSによるメッセージなど、皆様のお心遣いに、厚くお礼申し上げます。
父の遺志により、いただいたご香典の一部は日本共産党と治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟に寄付させていただきます。
生前、ときに強引で、あるときは頑固な父にお付き合いくださった方々もいらっしゃることと思います。
ともに闘い、ともに傷つき、ともに夢を語ってこられたお仲間、ご友人の皆様。
父と交流してくださったすべての皆様に、深謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
残された私たちも、父が見つめた社会、願った未来に向き合い、これからも励まし合って、母を支えながら、ともに歩んでいきたいと思います。
最後に母・朝子より、挨拶申し上げます。
「この度はこのようなかたちで夫・一行を失なうことになり、悲しく、寂しく、悔しい思いに沈んでおりますが、皆様から心温まるお言葉をいただき、誠にありがたく幾重にもお礼申し上げます。
一行は、誰もが平和のもとで健康に幸せに暮らせる社会を願い、政治活動に生涯をささげました。
また、日本が戦争をする国や社会に二度ともどらぬよう、埋もれた歴史を掘り起こし、光をあて、伝える活動にも心血を注ぎました。
文化・芸術にも親しみ、夫婦でオカリナをたしなみました。
ともに反戦平和の思いを川柳に詠みました。
名もなき者、小さくとも懸命に生きるものを愛していた夫。
志し半ばに倒れた夫ですが、悔いなく人生を駆け抜けて、命の花をめいっぱい咲かせたと思います。
その花の種が私たちの心のなかで、あるいはどこかで、人知れず根づき、育ち、大きく花開くことを、夫は夢見ているでしょう。
私も塩田一行の意志を継ぐ者の一人として、これからの人生を一日一日大切に生きたいと思います。
末筆ながら、皆様のご健康を心より祈念いたしております。どうかご自愛くださいませ。
塩田朝子」
2021年5月15日
長女・伸子
二女・真希子
三女・桃子
※ 父の死とその背景についての記事を、大阪民主新報社のご承諾のもと、添付いたします
 (「命救う手立て 一刻も早く」2021年5月16日付 大阪民主新報より)
※塩田夫妻、ファミリーの絵 (孫・凜)
※最後の川柳 (あかつき川柳会会報『あかつき 第187号』2021年4月1日発行 より)

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