「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

「小倉倉次 侍従日記」 (御影暢雄)

2009-08-31 13:55:38 | 仲間たちから多喜二への手紙
「小倉倉次 侍従日記」(おぐら くらじ じじゅうにっき) (御影暢雄)
2009-08-26 18:27:18

 「文芸春秋」2007年4月号に「小倉侍従日記」~”昭和天皇 戦時下の肉声”(解説:半藤一利)が、昭和史の超一級資料というタイトル付きで掲載されました。
昭和天皇については、「木戸幸一日記」等が有名でしたが、小倉侍従日記はそれらと匹敵する重要な文献だと、半藤氏は断言しています。”これらの日記に劣らず、政治的、軍事的な発言も随所に見られる”と半藤氏は指摘しています。
 小倉侍従は、天皇と政府要人・軍人が面談するスケジュール管理の役をしていたので、日記の信憑性は高いようです。
文中で「御文庫」というのが出てきますが、これは皇居内の防空壕を意味し、小倉侍従の発案でそうした呼び方となったと記されています。

訂正 (御影暢雄)
2009-08-26 21:02:39
訂正:「小倉倉次」→「小倉庫次」
   くら違いです、すみませんでした。

 同日記には1947年6月、海軍がMIDWAY海戦で空母を失った報告を受けて落胆した様子に触れられています。
 海軍は4隻の空母と、搭載の戦闘機・爆撃機をすべて失っていたのですが、軍は天皇と国民に損害を過小報告(4隻→1~2隻)していたのです。
 同海戦後、呉のある海軍定宿(芸者つき宴会も行われていた)では、空母関係者がぱったり来なくなって”やられた(沈められた)”と気づき始めたそうです。
 半藤氏の「レイテ沖海戦」によれば、1944年の時点でも、海軍参謀本部は上奏する作戦計画書にて空母「赤城」「飛竜」(ともにMIDWAY海戦で喪失)を”予備役”として、厚顔にも記していたそうです。


「小倉侍従日記」 何故、2007年まで公開されなかったのか? (御影暢雄)
2009-08-27 21:25:51

「小倉庫次 侍従日記」は、文芸春秋誌にはあたかも新発見・スクープであったかのような前書きが添えられています。勿論、小倉氏の遺志や親族の意向もあったと推察されますが、公開までに多大な日時を要する壁があったのではないでしょうか。


山下奉文 (御影暢雄)
2009-08-28 22:22:21
 小倉侍従日記に、1939年(昭14年)7月、陸軍人事に天皇が難色を示したという記述があります。山下奉文(ともゆき)将軍について、2.26事件に関係した人物ではなかったかと尋ねています。
 松本清張「昭和史発掘 2.26事件」において、山下将軍が皇道派叛乱将校を煽っていたと記されています。(山下の義父が永山将軍。佐賀の左肩党と呼ばれた派閥のボスで、宇都宮・真崎・荒木らがいた)2.26事件では叛乱将校らは処刑されたのに、彼らを煽っていた上層部は予備役への左遷や外地転任(山下は朝鮮の師団長へ)で済まされています。天皇は2.26事件勃発時、叛乱将校に激怒したと伝えられているので、彼らの上層部が軍にとどまったことが不満だったようです。
 山下は天皇と、対立する派閥・統制派の東条英機の両方から嫌われていたとされてきました。山下は短期間だったものの関東防衛軍司令官に就任し、1941年(昭和16年7月)天皇に挨拶に行ったことが小倉侍従日記に記されています。 
 天皇が嫌う人物を陸軍が重用したことは興味深いです。
 山下将軍は開戦後、マレー半島攻略に成功します。英軍に降伏を迫った映像が後に国内で上映され、一躍「マレーの虎」として国民的英雄になりましたが、終戦後、フィリピンでアメリカにより処刑されました。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿