5 毒ガス戦のなかの「藤倉工業」
先に森与志男が藤倉工業の沿革を紹介した文章のなかに、藤倉工業の前身「藤倉合名会社防水布製造所」は、「一九一六年(大正五)には海軍飛行機パラシュートの研究に着手、一九一八年(大正七)のシベリア出兵にあたっては、多量の防毒面を製造して納入した」との指摘があることを紹介したが、このことに関して日本ゴム工業会編『日本ゴム工業史』第一巻(東洋経済新報社 69年)に、注目すべき記述がある。
この時に、角田ラバー(後に日本工業株式会社専務の角田邦松経営)や福田清佐衛門も防毒面の注文を受けて納入、角田ラバーは約3万個、福田は10万個を納入したという。藤倉工業がどれだけの数量を納入したのかは示されていないが、ロシア革命直後の19年(大正7)のシベリア出兵時に毒ガス戦にそなえて、13万個以上の防毒マスクが用意された事実を示すものだと言える。
さらに『日本ゴム工業史』第1巻は23年(大正12)末当時、職工100名以上を擁しているゴム工場を一覧にしているが、三田土護膜製造株式会社業平工場(653名)をトップに、角一ゴム合資会社(643名)、合資会社明治護膜製造所(262名)のベスト3につづく第4位に藤倉工業株式会社(205名)の名があり、ゴム工業界では大手の一つであることが分かる。
そしてこのベスト4を含めて、ゴム工業界の確立には「軍需用ゴム製品」の需要が大きな役割を果たしたとし、「一九二一年(大正一〇)前後から軍需要の各種ゴム製品の需要が増加し、各会社は陸海軍当局からの委嘱によって、その研究ならびに製造に着手している。たとえば三田土護膜においては、一九二五年(大正一四)八月に海軍からの委嘱をうけて、防毒面の製作についての研究を開始しているし、合資会社明治護膜製造所においては、一九二四年九月に、陸軍技術本部から軍用自動橇のゴム軌帯(キャタピラー)の研究を命ぜられ、同年十二月にそれを試作納入している。また藤倉工業株式会社(後の藤倉ゴム株式会社)は、すでに一九一九年(大正八)二月から気球航の下命を受けたが、1921年10月には陸軍から気球吊籠用パラシュートの注文を受けており、(中略)このように第1次世界大戦直後から新しい軍用機具の研究、試作を開始しているゴム会社が多い」と指摘している。
さらに、『日本ゴム工業史』第2巻第3節「日華事変とゴム製品の生産」の項目には、
「すでに述べたように、日華事変直前までのゴム工業はきわめて暗たんたる様相をおび、それが戦争の勃発によって、一挙に活発化し、利益も急速に増大したのであったが、戦争の長期化と拡大に伴って、生産条件が悪化し、このために1940年初頭から利益率低下の傾向をたどったのである」、「軍需用品として早くから大量に需要され、業界に影響を与えたのは、防毒用品類であった。防毒衣として、初期には綿布、羽二重等に乾燥油を塗布したものが用いられていたが、1930年(昭和5)に90式防毒衣が制定されて全面的にゴム引布に置き替ええられた。だがこれは毒ガス耐浸透性の点で良好でなかったため、根本的改良が企てられ、1937年に96式軽防毒衣が完成された。
(中略)防毒面は1934年の95式および1939年と2回にわたって大改良が加えられた。防毒面は覆面と連絡管が全部ゴム製であるほか、締ゴム、呼気弁、吸気弁などに特殊な工夫を必要とした。これら防毒製品の製造が特に影響を与えたゴム引布部門は全面的に防毒衣材料の生産に切り替えられ、耐老化性、耐寒性、気密度などについては厳密な規格をもって律せられたので、ゴム引布製造技術の進歩はこの時期に目ざましいものがあった」
と驚くべき内容を記録している。
つまり、ゴム工業界全体が毒ガス戦を、業界発展の千載一遇のチャンスとして全面協力したことを告白しているのである。
この点で、中国での研究『日本の中国侵略と毒ガス兵器』(歩平著山辺悠喜子、宮崎教四郎監修/明石書店 95)の「防毒機材の研究と制式化」項も重要な内容を示している。 「陸軍科学研究所第3部防護班は毒ガスを防御するための器材の研究開発を主な任務としていた。それまでは、日本の防護機材はほとんどが外国から導入したもので、国内では製造できなかった。1927年、アメリカで制式化された原形に基づき、日本では最初の防毒マスクと防毒服を製造した。すなわち「87式」防毒服および防毒マスクである。
こうした防毒具はゴムを塗った層で人を毒剤から隔てるが、密封性が低く、効果はあまり芳しくない。また毒ガス瀘過缶の質も高くなかった。隔絶層物質研究の面では、1931年、日本は独自に「91式」防毒服を開発した。すべてゴムを用いており、毒剤を隔絶する能力が大幅に向上した。まもなく、当時世に出たばかりの新材料であるセロファンも用いた。これらの材料を用いて作った薄片を二層の薄いゴムの間に挟む。こうした物質は分子構造が密で、多くの気体、油脂、細菌などに対していずれも高い抗浸透力を有しており、防毒能力が強く、この材料を用いるようになって、防毒具はかなり軽便になった。防毒上衣、防毒袴、防毒手袋、防毒靴の4つから構成されていた。(中略)戦争中は、防毒具が第一線の部隊に大量に供給され、敵方の撒毒陣地突破時に使用される主な防護用具となった」 と詳述し、「ここで特に指摘しておかなくてはならないのは、防毒マスクの研究に関しては、悪名高い731部隊がこれに協力し、人体実験をベースにして、次第に完成していったものだということである」
とさりげない記述のなかに、静かな怒りを込めている。
〈藤倉工業〉と〈毒ガス・細菌戦〉との関係をめぐる重要な内容を、粟屋憲太郎・吉見義明編解説の『15年戦争極秘資料集18巻 毒ガス戦関係資料』(不二出版 89年)は教えてくれる。その解説に注目しよう。
「第2次世界大戦で日本軍が毒ガスを使用したということは、1984年まで日本ではほとんど知られていなかった。化学戦の実態は慎重に秘匿され、旧軍関係者以外の日本人はほとんど事実を知らなかった。1984年、3つの新しい資料が、日本の新聞で報道された。まず、粟屋は、前年、アメリカの国立公文書館で陸軍習志野学校案『支那事変ニ於ケル化学戦例証集』を発見したが、これが6月14日付の朝日新聞で大きく報道された。
8月15日には、慶応大学の松村高夫氏が指導するグループが古書店で発見した731部隊『きい弾射撃ニ因ル皮膚障害並一般臨床的症状観察』が毎日新聞で紹介された。ついで、アメリカ議会図書館が編集した日本に関するマイクロフィルムの中から吉見が発見した中支那派遣軍司令部『武漢攻略戦間に於ける化学戦実施報告』が10月6日付けの朝日新聞で紹介された」とし、〈藤倉工業〉を含めての〈毒ガス・細菌戦〉準備の生産体制の実態が、84年以前になぜ明らかにされなかったかについての背景が解明されている。
同書にはさらに、オーストラリア陸軍が44年に発行した『日本軍の装備』という英文の小冊子から、日本軍の使用した〈毒ガス・細菌戦〉資材が写真・イラスト入りで抄録されていて、図版を見ることができる。
そして31年の日本帝国主義統治下の台湾での少数民族、高砂族の反乱を鎮圧した〈霧社事件〉(『15年戦争極秘資料集25巻 春山明哲編 台湾霧社事件軍関係資料』参照)に、ガス兵器を使用したことも分かったのである。
『15年戦争極秘資料集18巻 毒ガス戦関係資料』を参考に、日本における毒ガス戦の研究・準備の歩みをたどってみる。
日本軍が毒ガスに興味を抱いたのは第一次大戦中の◇18年、中心となったのは、後に軍医総監となった小泉親彦教官が中心となって着手し、フランスから入手した参考資料をもとに日本製毒ガスの研究を始めた。同年、陸軍省内に「臨時毒ガス調査委員会」を設置し、応急的に第1号・第2号防毒マスク、軍馬用防毒マスクを製作した。この防毒マスクは、シベリア出兵の一部兵士や軍馬に用い、野戦での装備テストを行い、栃木大佐と安達大尉がともにガス中毒にかかる事故にあい、研究は一時中止した。
このころフランスでは、第1次大戦中の爆弾や毒ガスの全面公開を行った。これに興味を抱いた軍部は、イギリス駐在検査官の久村砲兵中佐を派遣、つぶさに視察させた。久村中佐はさらに、◇19年にドイツの毒ガス施設を視察し、さらにアメリカにも渡って毒ガス研究の実情を調査した。
陸軍省は、久村中佐の報告に基づき再び本格的に化学兵器研究に乗り出し、◇22~23年にかけて、戸山ケ原研究所内に毒ガスの研究室や実験室を建設した。
これは、先に紹介の『日本ゴム工業史』の「1921年(大正10)前後から軍需要の各種ゴム製品の需要が増加し、各会社は陸海軍当局からの委嘱によって、その研究ならびに製造に着手している。たとえば三田土護膜においては、1925年(大正14)8月に海軍からの委嘱をうけて、防毒面の製作についての研究を開始しているし、合資会社明治護膜製造所においては、1924年9月に、陸軍技術本部から軍用自動橇のゴム軌帯(キャタピラー)の研究を命ぜられ、同年12月にそれを試作納入している。また藤倉工業株式会社(後の藤倉ゴム株式会社)は、すでに1919年(大正8)2月から気球航空搭乗者用のパラシュートの下命を受けたが、1921年10月には陸軍から気球吊籠用パラシュートの注文を受け」た、との記述と一致する。
激しい毒ガス競争がくり広げられた第一次大戦後、その被害の痛ましさを実感した各国は、◇25年、再び禁止へと動きだしジュネーブ議定書が調印された。
議定書は①窒息性、有毒性またはその他のガスおよびこれと類似の液体、材料または装置を戦争に使用することを禁止し、②この禁止を細菌学的戦争手段の使用にまで拡張することを協定している。
このジュネーブ議定書に調印したのは、当時国際連盟に加盟していた48ケ国だったが、ドイツは保留、イギリス、アメリカ、ソ連、そして日本は批准しなかった。
日本政府が、国民が他国から〈毒ガス・細菌〉兵器で攻撃されるのを防ぐためには有効なこの国際条約をなぜ批准しなかったかといえば、日本はすでに瀬戸内海の西方、広島県竹原市忠海町大久野島に日本最大の毒ガス生産基地を準備し、本格的に化学兵器の開発に乗り出そうとしていたこともあって批准しなかったというのが真相なのである。
◇27年(昭和2)、陸軍はここに「東京第二陸軍造兵廠忠海製作所」の看板を掲げる毒ガス生産工場を建設、◇28年(昭和3)にはこれまで各地で行っていた毒ガスの研究、試作を本格的にスタートさせ、発煙化学兵器〈八八式発煙筒〉を開発した。さらに◇29年(昭和4)からは、フランスからイペリット製造装置を輸入し、化学剤の製造を開始し。当初の重点を催涙ガスの生産にしていたが31年(昭和6)の満州事変、32年(昭和7)の上海事変と日本が中国大陸侵略の泥沼に陥るとおよんで、重点を青酸ガス、イペリット、ルイサイトなど、より強い毒性をもったガスの開発製造に移した。◇33年に九州・曽根に毒ガスを兵器に充填する工場を新設、ナチス・ドイツからのイペリット製造施設の輸入して、既存施設も拡充し本格的に青酸ガスの生産を開始した。同時期、満州事変の「衛生業務」のため、陸軍軍医学校から軍医総監をはじめとする軍医団を満州に派遣した。このなかに防疫部の一員として後に「731部隊長」となる石井四郎をえらんでいる。
◇33年(昭和8)石井の提唱で、細菌戦研究が陸軍軍医学校で正式研究課題として取り上げられ、「細菌に関する特殊研究」のための研究員を満州に派遣し研究に従事させるとともに、毒ガス戦の運用教育訓練のために「陸軍習志野学校」を創設し、実践的な戦略の研究教育を開始した。同年、背陰河に関東防疫班(731部隊の前身)が細菌工場を建設。◇36年(昭和11)「二・二六事件」が勃発すると、陸軍習志野学校は反乱軍鎮圧のために、靖国神社に集結し毒ガスを準備したが、実戦には使用しなかった。この年、関東防疫部が新設され二等軍医・石井四郎以下の若干名が満州に転出、ここに軍令で正式に石井部隊ともう一つの細菌部隊である関東軍軍馬防疫廠、通称「若松部隊」を組織した。
◇37(昭和12)、日本軍は中国・廬溝橋を空襲した。イペリット砲弾2000発を上海に送り、7月27日中国軍に対し毒ガス弾を混合使用。◇38年(昭和13)石井部隊は、華中戦線で中国軍に対し細菌兵器を大量に使用した。閑院宮載仁参謀長は催涙毒ガスの使用を許可、◇39年(昭和14)5月、陸軍部は致死性毒ガスの使用を命令。日本が、ソ連との国境紛争で初めて細菌兵器を実践に使用した。第2次ノモンハン事件である。石井四郎はソ連軍の給水源を断つためノモンハン地方の水源・ハルハ河上流にチフス、コレラ、ペストなどの培養細菌を散布、ソ連軍はじめ多くの住民を犠牲にした。政府は、この細菌による攻撃が大きな効果をあげたことで石井部隊を表彰した。
さらに◇40年(昭和15)からは南京、上海付近にも飛行機から細菌を低空で撒布する攻撃を行った、なかでも規模が大きかったのは、杭州湾を挟んだ上海の対岸、寧波の街に対する攻撃だった。10月27日の朝、日本軍の飛行機が急降下し商店の密集地にペストノミをまぶした穀物、綿などを投下。この攻撃の効果は数日後からはっきり現れ、一週間後には死者が37名に達した。
◇42年(昭和17)日本軍は、上海に近い戦場にコレラ菌を大規模に撒いた。短時間に1700人以上の死者・1万人以上に被害を与えたが、これは皮肉なことに犠牲者は日本兵であった。日本軍は自らが生物兵器で攻撃した地域に誤って踏み込んでしまい、被害に合ったのである。被害にあった日本兵には、上官から「これは中国の生物兵器によるもの」と教えられたという。(石倉俊治著『オウムの生物化学兵器』読売新聞社 96年)
◇同年アメリカ大統領ルーズべルトは、「中国または国際連盟に所属する国家への化学攻撃は、アメリカに対する攻撃とみなし、報復する」と、日本に対して警告した。この後、日本軍は毒ガス使用を、おおむね停止した。
しかし◇44年(昭和19)11月7日、アメリカ本土への大陸間爆弾計画の開始を昭和天皇に奏上した。3日からスタートした風船爆弾〈ふ号計画〉だった。奏上が遅れたのは3日の放球後に事故が発生、本格的な放球が7日まで延期されたためだったが、風船爆弾〈ふ号計画〉とは、日本の上空成層圏の偏西風、ジェット・ストリームの気流を神風として利用、アメリカ本土を直接攻撃しようというものだった。直径10メートルの気球の下端には排気弁、さらに下方に吊索が伸びた先に、高度保持装置と爆弾・焼夷弾が取りつけられていた。米軍は4日に第一便気球の残骸を発見、その後のあいつぐ目撃や発見によってその正体を知ると大きな衝撃を受けた。
すでに米軍は、中国大陸で日本軍が細菌兵器を使用したとの情報を得ていたからこの風船爆弾が運んでくるはずのものは細菌(ペスト)爆弾だったのである。「その推測は正しかった。風船爆弾作戦のルーツは32年当時、東満州からソ連領内に謀略部隊、爆弾を送り出すために考えられたものであり、満州の石井部隊との関係は元より深かった」。「当時、すでに石井部隊は乾燥ペスト菌を用いた〈ふ号用陶器製爆弾〉を完成させていた。しかし、この爆弾は、放球基地に届けられることはなかった」。「軍上層部の不使用との決断は、道義的な点からではなかった。報復を恐れたのである」。
軍部のこの判断は正しく、アメリカもやはり生物戦を準備し、すでに炭疽菌爆弾の生産を目前としていたのである。もし細菌を積んだ風船爆弾が用いられたなら、「日本は原爆と焼夷弾の惨禍に、細菌による疫病の悲惨が加わったのは、ほぼ間違いないところだろう」としていることは重要な指摘だろう。そしてこの風船爆弾の「製造協力企業リスト」(『中学生と風船爆弾』さきたま双書)に〈藤倉工業〉の名を発見し、私は驚きで目をみはった。
以上は日本陸軍での毒ガス研究と使用の歩みだが、陸軍とは別に日本海軍は神奈川県寒川の相模海軍工廠「海軍技術研究所化学研究部」に、独自の化学兵器の研究機構を持ち、この工場で毒ガス兵器や防毒マスクの製造も行っていたのである。
これまで述べた天皇の軍隊の〈毒ガス・細菌戦〉を概括すれば、その兵器研究・開発は陸軍科学研究所第3部(後には同2部、さらには陸軍第六技術研究所)があたり、大量製造は「東京第二陸軍造兵廠忠海製作所」(広島・大久野島)、毒ガス・細菌の充填作業は曽根兵器製造所(福岡・企救郡)、化学戦の運用・教育は「陸軍習志野学校」があたり、訓練を受けた将校・下士官約1万名が中心となって様々なかたちの毒ガス戦を中国各地で展開したのである。中国・東北部の満州には、「関東化学部(満州五一六部隊)」がチチハル郊外に設け、大規模〈毒ガス・細菌兵器〉の実験・訓練を行い、「731部隊」と連携して生体実験を実施した。
それらの研究開発のあゆみは、戦後陸軍関係者が厚生省引揚援護局史料室に提出した秋山金正一「陸軍化学研究所及第六陸軍技術研究所に於ける化学兵器研究経過の概要(第1案)」、小柳津政雄「化学戦研究史」、化学兵器関係者編「本邦化学兵器技術史〈年表〉」があり、さらに陸軍習志野学校史編纂委員会編『陸軍習志野学校』にも、化学兵器の研究・開発の経緯が詳述されているという。
ちなみに、この石井部隊の活動内容が暴露されたのは、戦後のソ連・ハバロスクで行われた「細菌兵器の準備と使用についての日本軍人についての裁判」だった。この裁判で石井部隊が使用した細菌兵器は、航空機からの細菌散布、細菌爆弾、謀略工作への使用、細菌榴散弾、そして投下型細菌爆弾だったことが明らかにされた。
しかし、敗戦後の東京裁判の法廷で日本軍の〈毒ガス・細菌〉戦の罪状は、第2次世界大戦後の覇者となろうとしたアメリカ軍の意思によって、その研究データの提供と引き換えに免責され闇のなかに葬られたのだった。
それは、〈毒ガス・細菌〉戦準備に動員された工場〈藤倉工業〉での前衛党細胞のたたかいをリアルに記録した『党生活者』の文学世界の意義を欠落するものとし、〈毒ガス・細菌兵器戦〉を暴く視角を覆った多喜二文学への歪んだ批評をゆるす背景ともなった。
先に森与志男が藤倉工業の沿革を紹介した文章のなかに、藤倉工業の前身「藤倉合名会社防水布製造所」は、「一九一六年(大正五)には海軍飛行機パラシュートの研究に着手、一九一八年(大正七)のシベリア出兵にあたっては、多量の防毒面を製造して納入した」との指摘があることを紹介したが、このことに関して日本ゴム工業会編『日本ゴム工業史』第一巻(東洋経済新報社 69年)に、注目すべき記述がある。
この時に、角田ラバー(後に日本工業株式会社専務の角田邦松経営)や福田清佐衛門も防毒面の注文を受けて納入、角田ラバーは約3万個、福田は10万個を納入したという。藤倉工業がどれだけの数量を納入したのかは示されていないが、ロシア革命直後の19年(大正7)のシベリア出兵時に毒ガス戦にそなえて、13万個以上の防毒マスクが用意された事実を示すものだと言える。
さらに『日本ゴム工業史』第1巻は23年(大正12)末当時、職工100名以上を擁しているゴム工場を一覧にしているが、三田土護膜製造株式会社業平工場(653名)をトップに、角一ゴム合資会社(643名)、合資会社明治護膜製造所(262名)のベスト3につづく第4位に藤倉工業株式会社(205名)の名があり、ゴム工業界では大手の一つであることが分かる。
そしてこのベスト4を含めて、ゴム工業界の確立には「軍需用ゴム製品」の需要が大きな役割を果たしたとし、「一九二一年(大正一〇)前後から軍需要の各種ゴム製品の需要が増加し、各会社は陸海軍当局からの委嘱によって、その研究ならびに製造に着手している。たとえば三田土護膜においては、一九二五年(大正一四)八月に海軍からの委嘱をうけて、防毒面の製作についての研究を開始しているし、合資会社明治護膜製造所においては、一九二四年九月に、陸軍技術本部から軍用自動橇のゴム軌帯(キャタピラー)の研究を命ぜられ、同年十二月にそれを試作納入している。また藤倉工業株式会社(後の藤倉ゴム株式会社)は、すでに一九一九年(大正八)二月から気球航の下命を受けたが、1921年10月には陸軍から気球吊籠用パラシュートの注文を受けており、(中略)このように第1次世界大戦直後から新しい軍用機具の研究、試作を開始しているゴム会社が多い」と指摘している。
さらに、『日本ゴム工業史』第2巻第3節「日華事変とゴム製品の生産」の項目には、
「すでに述べたように、日華事変直前までのゴム工業はきわめて暗たんたる様相をおび、それが戦争の勃発によって、一挙に活発化し、利益も急速に増大したのであったが、戦争の長期化と拡大に伴って、生産条件が悪化し、このために1940年初頭から利益率低下の傾向をたどったのである」、「軍需用品として早くから大量に需要され、業界に影響を与えたのは、防毒用品類であった。防毒衣として、初期には綿布、羽二重等に乾燥油を塗布したものが用いられていたが、1930年(昭和5)に90式防毒衣が制定されて全面的にゴム引布に置き替ええられた。だがこれは毒ガス耐浸透性の点で良好でなかったため、根本的改良が企てられ、1937年に96式軽防毒衣が完成された。
(中略)防毒面は1934年の95式および1939年と2回にわたって大改良が加えられた。防毒面は覆面と連絡管が全部ゴム製であるほか、締ゴム、呼気弁、吸気弁などに特殊な工夫を必要とした。これら防毒製品の製造が特に影響を与えたゴム引布部門は全面的に防毒衣材料の生産に切り替えられ、耐老化性、耐寒性、気密度などについては厳密な規格をもって律せられたので、ゴム引布製造技術の進歩はこの時期に目ざましいものがあった」
と驚くべき内容を記録している。
つまり、ゴム工業界全体が毒ガス戦を、業界発展の千載一遇のチャンスとして全面協力したことを告白しているのである。
この点で、中国での研究『日本の中国侵略と毒ガス兵器』(歩平著山辺悠喜子、宮崎教四郎監修/明石書店 95)の「防毒機材の研究と制式化」項も重要な内容を示している。 「陸軍科学研究所第3部防護班は毒ガスを防御するための器材の研究開発を主な任務としていた。それまでは、日本の防護機材はほとんどが外国から導入したもので、国内では製造できなかった。1927年、アメリカで制式化された原形に基づき、日本では最初の防毒マスクと防毒服を製造した。すなわち「87式」防毒服および防毒マスクである。
こうした防毒具はゴムを塗った層で人を毒剤から隔てるが、密封性が低く、効果はあまり芳しくない。また毒ガス瀘過缶の質も高くなかった。隔絶層物質研究の面では、1931年、日本は独自に「91式」防毒服を開発した。すべてゴムを用いており、毒剤を隔絶する能力が大幅に向上した。まもなく、当時世に出たばかりの新材料であるセロファンも用いた。これらの材料を用いて作った薄片を二層の薄いゴムの間に挟む。こうした物質は分子構造が密で、多くの気体、油脂、細菌などに対していずれも高い抗浸透力を有しており、防毒能力が強く、この材料を用いるようになって、防毒具はかなり軽便になった。防毒上衣、防毒袴、防毒手袋、防毒靴の4つから構成されていた。(中略)戦争中は、防毒具が第一線の部隊に大量に供給され、敵方の撒毒陣地突破時に使用される主な防護用具となった」 と詳述し、「ここで特に指摘しておかなくてはならないのは、防毒マスクの研究に関しては、悪名高い731部隊がこれに協力し、人体実験をベースにして、次第に完成していったものだということである」
とさりげない記述のなかに、静かな怒りを込めている。
〈藤倉工業〉と〈毒ガス・細菌戦〉との関係をめぐる重要な内容を、粟屋憲太郎・吉見義明編解説の『15年戦争極秘資料集18巻 毒ガス戦関係資料』(不二出版 89年)は教えてくれる。その解説に注目しよう。
「第2次世界大戦で日本軍が毒ガスを使用したということは、1984年まで日本ではほとんど知られていなかった。化学戦の実態は慎重に秘匿され、旧軍関係者以外の日本人はほとんど事実を知らなかった。1984年、3つの新しい資料が、日本の新聞で報道された。まず、粟屋は、前年、アメリカの国立公文書館で陸軍習志野学校案『支那事変ニ於ケル化学戦例証集』を発見したが、これが6月14日付の朝日新聞で大きく報道された。
8月15日には、慶応大学の松村高夫氏が指導するグループが古書店で発見した731部隊『きい弾射撃ニ因ル皮膚障害並一般臨床的症状観察』が毎日新聞で紹介された。ついで、アメリカ議会図書館が編集した日本に関するマイクロフィルムの中から吉見が発見した中支那派遣軍司令部『武漢攻略戦間に於ける化学戦実施報告』が10月6日付けの朝日新聞で紹介された」とし、〈藤倉工業〉を含めての〈毒ガス・細菌戦〉準備の生産体制の実態が、84年以前になぜ明らかにされなかったかについての背景が解明されている。
同書にはさらに、オーストラリア陸軍が44年に発行した『日本軍の装備』という英文の小冊子から、日本軍の使用した〈毒ガス・細菌戦〉資材が写真・イラスト入りで抄録されていて、図版を見ることができる。
そして31年の日本帝国主義統治下の台湾での少数民族、高砂族の反乱を鎮圧した〈霧社事件〉(『15年戦争極秘資料集25巻 春山明哲編 台湾霧社事件軍関係資料』参照)に、ガス兵器を使用したことも分かったのである。
『15年戦争極秘資料集18巻 毒ガス戦関係資料』を参考に、日本における毒ガス戦の研究・準備の歩みをたどってみる。
日本軍が毒ガスに興味を抱いたのは第一次大戦中の◇18年、中心となったのは、後に軍医総監となった小泉親彦教官が中心となって着手し、フランスから入手した参考資料をもとに日本製毒ガスの研究を始めた。同年、陸軍省内に「臨時毒ガス調査委員会」を設置し、応急的に第1号・第2号防毒マスク、軍馬用防毒マスクを製作した。この防毒マスクは、シベリア出兵の一部兵士や軍馬に用い、野戦での装備テストを行い、栃木大佐と安達大尉がともにガス中毒にかかる事故にあい、研究は一時中止した。
このころフランスでは、第1次大戦中の爆弾や毒ガスの全面公開を行った。これに興味を抱いた軍部は、イギリス駐在検査官の久村砲兵中佐を派遣、つぶさに視察させた。久村中佐はさらに、◇19年にドイツの毒ガス施設を視察し、さらにアメリカにも渡って毒ガス研究の実情を調査した。
陸軍省は、久村中佐の報告に基づき再び本格的に化学兵器研究に乗り出し、◇22~23年にかけて、戸山ケ原研究所内に毒ガスの研究室や実験室を建設した。
これは、先に紹介の『日本ゴム工業史』の「1921年(大正10)前後から軍需要の各種ゴム製品の需要が増加し、各会社は陸海軍当局からの委嘱によって、その研究ならびに製造に着手している。たとえば三田土護膜においては、1925年(大正14)8月に海軍からの委嘱をうけて、防毒面の製作についての研究を開始しているし、合資会社明治護膜製造所においては、1924年9月に、陸軍技術本部から軍用自動橇のゴム軌帯(キャタピラー)の研究を命ぜられ、同年12月にそれを試作納入している。また藤倉工業株式会社(後の藤倉ゴム株式会社)は、すでに1919年(大正8)2月から気球航空搭乗者用のパラシュートの下命を受けたが、1921年10月には陸軍から気球吊籠用パラシュートの注文を受け」た、との記述と一致する。
激しい毒ガス競争がくり広げられた第一次大戦後、その被害の痛ましさを実感した各国は、◇25年、再び禁止へと動きだしジュネーブ議定書が調印された。
議定書は①窒息性、有毒性またはその他のガスおよびこれと類似の液体、材料または装置を戦争に使用することを禁止し、②この禁止を細菌学的戦争手段の使用にまで拡張することを協定している。
このジュネーブ議定書に調印したのは、当時国際連盟に加盟していた48ケ国だったが、ドイツは保留、イギリス、アメリカ、ソ連、そして日本は批准しなかった。
日本政府が、国民が他国から〈毒ガス・細菌〉兵器で攻撃されるのを防ぐためには有効なこの国際条約をなぜ批准しなかったかといえば、日本はすでに瀬戸内海の西方、広島県竹原市忠海町大久野島に日本最大の毒ガス生産基地を準備し、本格的に化学兵器の開発に乗り出そうとしていたこともあって批准しなかったというのが真相なのである。
◇27年(昭和2)、陸軍はここに「東京第二陸軍造兵廠忠海製作所」の看板を掲げる毒ガス生産工場を建設、◇28年(昭和3)にはこれまで各地で行っていた毒ガスの研究、試作を本格的にスタートさせ、発煙化学兵器〈八八式発煙筒〉を開発した。さらに◇29年(昭和4)からは、フランスからイペリット製造装置を輸入し、化学剤の製造を開始し。当初の重点を催涙ガスの生産にしていたが31年(昭和6)の満州事変、32年(昭和7)の上海事変と日本が中国大陸侵略の泥沼に陥るとおよんで、重点を青酸ガス、イペリット、ルイサイトなど、より強い毒性をもったガスの開発製造に移した。◇33年に九州・曽根に毒ガスを兵器に充填する工場を新設、ナチス・ドイツからのイペリット製造施設の輸入して、既存施設も拡充し本格的に青酸ガスの生産を開始した。同時期、満州事変の「衛生業務」のため、陸軍軍医学校から軍医総監をはじめとする軍医団を満州に派遣した。このなかに防疫部の一員として後に「731部隊長」となる石井四郎をえらんでいる。
◇33年(昭和8)石井の提唱で、細菌戦研究が陸軍軍医学校で正式研究課題として取り上げられ、「細菌に関する特殊研究」のための研究員を満州に派遣し研究に従事させるとともに、毒ガス戦の運用教育訓練のために「陸軍習志野学校」を創設し、実践的な戦略の研究教育を開始した。同年、背陰河に関東防疫班(731部隊の前身)が細菌工場を建設。◇36年(昭和11)「二・二六事件」が勃発すると、陸軍習志野学校は反乱軍鎮圧のために、靖国神社に集結し毒ガスを準備したが、実戦には使用しなかった。この年、関東防疫部が新設され二等軍医・石井四郎以下の若干名が満州に転出、ここに軍令で正式に石井部隊ともう一つの細菌部隊である関東軍軍馬防疫廠、通称「若松部隊」を組織した。
◇37(昭和12)、日本軍は中国・廬溝橋を空襲した。イペリット砲弾2000発を上海に送り、7月27日中国軍に対し毒ガス弾を混合使用。◇38年(昭和13)石井部隊は、華中戦線で中国軍に対し細菌兵器を大量に使用した。閑院宮載仁参謀長は催涙毒ガスの使用を許可、◇39年(昭和14)5月、陸軍部は致死性毒ガスの使用を命令。日本が、ソ連との国境紛争で初めて細菌兵器を実践に使用した。第2次ノモンハン事件である。石井四郎はソ連軍の給水源を断つためノモンハン地方の水源・ハルハ河上流にチフス、コレラ、ペストなどの培養細菌を散布、ソ連軍はじめ多くの住民を犠牲にした。政府は、この細菌による攻撃が大きな効果をあげたことで石井部隊を表彰した。
さらに◇40年(昭和15)からは南京、上海付近にも飛行機から細菌を低空で撒布する攻撃を行った、なかでも規模が大きかったのは、杭州湾を挟んだ上海の対岸、寧波の街に対する攻撃だった。10月27日の朝、日本軍の飛行機が急降下し商店の密集地にペストノミをまぶした穀物、綿などを投下。この攻撃の効果は数日後からはっきり現れ、一週間後には死者が37名に達した。
◇42年(昭和17)日本軍は、上海に近い戦場にコレラ菌を大規模に撒いた。短時間に1700人以上の死者・1万人以上に被害を与えたが、これは皮肉なことに犠牲者は日本兵であった。日本軍は自らが生物兵器で攻撃した地域に誤って踏み込んでしまい、被害に合ったのである。被害にあった日本兵には、上官から「これは中国の生物兵器によるもの」と教えられたという。(石倉俊治著『オウムの生物化学兵器』読売新聞社 96年)
◇同年アメリカ大統領ルーズべルトは、「中国または国際連盟に所属する国家への化学攻撃は、アメリカに対する攻撃とみなし、報復する」と、日本に対して警告した。この後、日本軍は毒ガス使用を、おおむね停止した。
しかし◇44年(昭和19)11月7日、アメリカ本土への大陸間爆弾計画の開始を昭和天皇に奏上した。3日からスタートした風船爆弾〈ふ号計画〉だった。奏上が遅れたのは3日の放球後に事故が発生、本格的な放球が7日まで延期されたためだったが、風船爆弾〈ふ号計画〉とは、日本の上空成層圏の偏西風、ジェット・ストリームの気流を神風として利用、アメリカ本土を直接攻撃しようというものだった。直径10メートルの気球の下端には排気弁、さらに下方に吊索が伸びた先に、高度保持装置と爆弾・焼夷弾が取りつけられていた。米軍は4日に第一便気球の残骸を発見、その後のあいつぐ目撃や発見によってその正体を知ると大きな衝撃を受けた。
すでに米軍は、中国大陸で日本軍が細菌兵器を使用したとの情報を得ていたからこの風船爆弾が運んでくるはずのものは細菌(ペスト)爆弾だったのである。「その推測は正しかった。風船爆弾作戦のルーツは32年当時、東満州からソ連領内に謀略部隊、爆弾を送り出すために考えられたものであり、満州の石井部隊との関係は元より深かった」。「当時、すでに石井部隊は乾燥ペスト菌を用いた〈ふ号用陶器製爆弾〉を完成させていた。しかし、この爆弾は、放球基地に届けられることはなかった」。「軍上層部の不使用との決断は、道義的な点からではなかった。報復を恐れたのである」。
軍部のこの判断は正しく、アメリカもやはり生物戦を準備し、すでに炭疽菌爆弾の生産を目前としていたのである。もし細菌を積んだ風船爆弾が用いられたなら、「日本は原爆と焼夷弾の惨禍に、細菌による疫病の悲惨が加わったのは、ほぼ間違いないところだろう」としていることは重要な指摘だろう。そしてこの風船爆弾の「製造協力企業リスト」(『中学生と風船爆弾』さきたま双書)に〈藤倉工業〉の名を発見し、私は驚きで目をみはった。
以上は日本陸軍での毒ガス研究と使用の歩みだが、陸軍とは別に日本海軍は神奈川県寒川の相模海軍工廠「海軍技術研究所化学研究部」に、独自の化学兵器の研究機構を持ち、この工場で毒ガス兵器や防毒マスクの製造も行っていたのである。
これまで述べた天皇の軍隊の〈毒ガス・細菌戦〉を概括すれば、その兵器研究・開発は陸軍科学研究所第3部(後には同2部、さらには陸軍第六技術研究所)があたり、大量製造は「東京第二陸軍造兵廠忠海製作所」(広島・大久野島)、毒ガス・細菌の充填作業は曽根兵器製造所(福岡・企救郡)、化学戦の運用・教育は「陸軍習志野学校」があたり、訓練を受けた将校・下士官約1万名が中心となって様々なかたちの毒ガス戦を中国各地で展開したのである。中国・東北部の満州には、「関東化学部(満州五一六部隊)」がチチハル郊外に設け、大規模〈毒ガス・細菌兵器〉の実験・訓練を行い、「731部隊」と連携して生体実験を実施した。
それらの研究開発のあゆみは、戦後陸軍関係者が厚生省引揚援護局史料室に提出した秋山金正一「陸軍化学研究所及第六陸軍技術研究所に於ける化学兵器研究経過の概要(第1案)」、小柳津政雄「化学戦研究史」、化学兵器関係者編「本邦化学兵器技術史〈年表〉」があり、さらに陸軍習志野学校史編纂委員会編『陸軍習志野学校』にも、化学兵器の研究・開発の経緯が詳述されているという。
ちなみに、この石井部隊の活動内容が暴露されたのは、戦後のソ連・ハバロスクで行われた「細菌兵器の準備と使用についての日本軍人についての裁判」だった。この裁判で石井部隊が使用した細菌兵器は、航空機からの細菌散布、細菌爆弾、謀略工作への使用、細菌榴散弾、そして投下型細菌爆弾だったことが明らかにされた。
しかし、敗戦後の東京裁判の法廷で日本軍の〈毒ガス・細菌〉戦の罪状は、第2次世界大戦後の覇者となろうとしたアメリカ軍の意思によって、その研究データの提供と引き換えに免責され闇のなかに葬られたのだった。
それは、〈毒ガス・細菌〉戦準備に動員された工場〈藤倉工業〉での前衛党細胞のたたかいをリアルに記録した『党生活者』の文学世界の意義を欠落するものとし、〈毒ガス・細菌兵器戦〉を暴く視角を覆った多喜二文学への歪んだ批評をゆるす背景ともなった。
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