6 「党生活者」の舞台、「藤倉工業」の現在
企業年鑑などの情報を総合し、藤倉グループの沿革を紹介する。「藤倉電線」は10年に設立された電線業界第4位の老舗企業で、92年に社名を「株式会社フジクラ」に改称(江東区木場、従業員約4000人、売上高2400億円)、NTT関連御三家の一つとして知られる。76年、光ファイバー開発に成功。87年光エレクトロニクス研究所を開設するとともに、87年から89年にかけて海外10、国内3の関係会社を設立、グローバル化を進めている。深川工場を閉鎖し、93年R&Dセンターを竣工とある。
「藤倉ゴム工業」(藤倉電線から20年に分離して設立、品川区西五反田)は、工業用ゴム製品やゴム引布の大手メーカーで、日中戦争・太平洋戦争中は、急増する軍需資材生産のため37年以降、品川、千駄ケ谷、浦和のほか各地に12工場を設立、最高時の従業員数は1万名を超えた。
38年藤倉化学工業(現藤倉化成)を、翌39年藤倉航空工業(現藤倉航装)を設立した。戦後は民需転換して五反田、浦和、札幌の3工場に集約してゴム引布、履物、電気絶縁材料、工業用品、タイヤ、ビニールの製造にあたり、55年キャラバンシューズを、60年初の合成皮革を開発したほか工業用ゴム製品を生産、74年ゴルフ用シャフトも開発、業容の拡大とともに大宮、岩槻、原町に工場を拡充、第1次石油危機で業績悪化、無配に転落したが、その後再建した。
藤倉ゴム工業のパラシュート部門「藤倉航装株式会社」は39年独立し、所在地は東京都品川区荏原、現在の資本金、5000万円。筆頭株主はフジクラ(旧藤倉電線)、従業員数は221名。販売先は防衛庁を主に、藤倉ゴム工業、日商岩井、三菱重工業などであることが分かった。またフジクラグループには自衛隊の幹部が天下り就職していることも分かっている。
冒頭で紹介した自衛隊の準機関紙『朝雲』を発行する朝雲新聞社の『自衛隊装備年鑑』にも藤倉航装の広告が掲載され、現在の自衛隊との深い関係を裏付けている。
私は、森与志男の「藤倉工業と麻布界隈ー小林多喜二の『党生活者』の背景」を手掛かりに、五反田の「藤倉ゴム工業」周辺を歩いてみた。 駅より5分ほど行った五反田3丁目に「藤倉ビル」があった。目黒寄りの山手線の外回り位置し、首都高速の高架にさえぎられ数秒にすぎないが電車の窓からも見える位置だった。
「藤倉工業」のあった品川区五反田の場所には、フジクラがNTT御三家の一つであるからか現在NTT電話料金局が建ち、その後ろに83年に9階建ての藤倉ビルが建てられ、2、3階に藤倉ゴム工業本社が入っていたことを確認した。
その後、97年9月13日付『読売新聞』夕刊は、「装備品納入四業者に防衛庁、二一億円過払い。一九八八年~九四年度の水増し請求を見逃す。検査院指摘で業者返還」の大見出しトップ記事で、水増し請求業者として東洋通信機・8億7000万円(敵見方識別装置)、藤倉航装・3億5000万円(パラシュート)、日本工機・5億9000万円(銃、砲弾)、ニコー電子・約3億円(暗号交換装置)の四社が防衛庁調達実施本部の幹部と巨額の水増し請求を図り、その見返りに天下りやリベートを受け取ったという事件を報道した。
11月3日付『読売新聞』ではさらにくわしく、上野憲一元防衛庁調達実施本部副本部長が同庁退職後、藤倉航装からコンサルタント料として400万円以上を受け取り、同社の未上場株5万株を3000万円で譲り受けていたと報じた。
上野憲一が大手防衛産業を回るなどして寄付金1億6000万円を集めて設立した財団法人防衛生産管理協会(本部新宿、全国27支部)は、理事長をはじめ4人の防衛庁OBが天下りし、出先支部事務署所や人、運営費のすべてが防衛産業丸抱えで運営されている実態を暴露、東京地検特捜部は防衛庁元本部長(元防衛施設庁長官)や元副本部長、NECの元専務らを背任や贈収賄容疑で逮捕、計14人を起訴、軍需汚職事件に発展した。「防衛装備品調達」に絡む不正追及は、軍需調達システムの全面改革と情報公開をせまるものとなったのだった。
さらに2000年12月12日の『読売新聞』は、「世田谷で生物兵器研究!?」で、防衛庁が01年3月、東京世田谷の陸上自衛隊三宿駐屯地に生物兵器対処の研究部隊を設置する方針であることを伝えた。
陸上自衛隊幕僚監部によると、この研究部隊は、生物兵器の攻撃があった場合の対処方法などを研究する「部隊医学実験隊」で定員は20人。そのなかの生物兵器を担当する「研究科」は医官ら計8人程度。現在保有している化学防護マスクが使用可能かどうかをチェックするとしていることは注目される。
これに関連し、同時期に朝霞駐屯地に同部隊の指揮する統括部局「研究本部」も設置されることが、12月15日閣議決定の「中期防衛力整備計画」(01~05年)で決まり、今後留意すべき4つの方向性の一つとして「ゲリラや特殊部隊による攻撃、核・生物・化学兵器による攻撃(NBC攻撃)」等各種の攻撃形態への対処能力の向上を図る」とし、今年度の防衛予算ではゲリラ対処や生物化学兵器対策に64億円を計上したことにも注目しておく必要がある。
また防衛庁のホームページで公表の「生物兵器への対処に関する懇談会議事概要」によれば、すでに5月18日に第一回会合がもたれ、中村英一(財団法人医療情報システム開発センター理事長)を座長に8人の委員が参加したことが明らかにされている。
それらの委員の肩書きには大学関係や医療関係が並ぶが、異色の存在で目をひくのは石井修一(東洋紡績株式会社首席技術顧問)である。なぜ紡績関係者が参加しているのか。 この疑問は冒頭に紹介した『自衛隊装備品年鑑』の化学装備の項目に「藤倉ゴム工業」とならんで「東洋紡」の名があったことを思いおこしてほしい。東洋紡は「戦闘用防護衣」の納入メーカーであることを知ればおのずから明らかになる。そしてその製品はオウム・毒ガスサリン事件の際「大宮化学学校・101防護隊」が着用した迷彩防護衣服なのである。
『自衛隊装備品年鑑』のコメントによると、この防護衣は
「化学剤、放射性物質および生物剤の身体への浸透および付着を防止するために使用する。服本体の素材は、通気性のある繊維状活性炭布積層布を使用している」とされている。
東洋紡績のホームページをチェックすると、企業コンセプトとして「信頼、創造、人間性」を標榜しながら防護衣を製造し、自衛隊に納入していることは記されていない。しかし、同社の受賞リストの78年の項に防護衣に使用の「活性炭素繊維」が繊維学会技術賞を、80年に活性炭素繊維〈Kフィルター〉が化学工学協会技術賞を受賞したことが示されているほか、同社のオリジナル繊維〈ザイロン〉の紹介項目に「優れた耐熱性、耐カット性およびしなやかな風合いを活かして、より軽量で快適な防護材、防護服の設計を可能とします」とあることに注目が必要だろう。
ついでながら、中井満「米国国防省は如何にサラトガNBC防護服を選定したか!」(『軍事研究』99年10月号)が「米国国防省は、湾岸戦争の厳しい経験に照らして、二一世紀に通用する次世代NBC防護服の選定計画を立て、92年から97年初頭までの5年間をかけて史上最大規模の選定テストを実施したことを紹介している。その記述のなかに東洋紡績が出てくる。
同選定テストには世界各国から五八種類のNBC防護服が大量に集められ、直接的なテスト費だけで2800万米ドルを投じ、500名の兵員を動員し、5年間厳しいテストを行った」。
「日本では、陸上自衛隊の唯一の納入業者である東洋紡はJSLISに見本提出を拒否したとの噂を方々で耳にした。直接、わたしが質問しても返事をくれる訳もないので、昨年5月にストックホルムで開催された生物・化学戦防護のシンポジュームで国防総省のJSLIST担当将校(海兵隊中将)に尋ねてみた。彼は東洋紡績が参加したとも提出を拒否したとも明確にしなかったが、〈自分達は東洋紡製品の詳細を熟知している。彼等が開発中の新型防護服のことも知っている、とある。
さらに、「今後10年はサラトガ(米国海兵隊用制式戦闘防護服)を超える防護服は世界中で出てこない。海兵隊が湾岸戦争で実証し、JSLISTが証明したのだ〉と胸を張ってコメントしたことを思い出す」。しかし計上費用だけでみると事実上これをはるかに超えるテストを陸上自衛隊は行っており、新型防護服開発に昨年(98年)東洋紡(防護服)と興研(防護マスク)に対して6億2800万円の試作契約を結んだことも明らかにしている。単品の防護服のテストとしては、米国のJSLISTをはるかに上回るものであることも明らかにしている」とある。
ここで私は、『韓非子』の寓話を思い起こす。「矛盾」である。
中国の古い戦国時代に矛(ほこ=)と盾(たて)を売る者があった。
自分の盾を宣伝していうには「私の盾の堅いことといったら、突き通すことのできる武器はありませんぞ」。さらに自分の矛を宣伝していうには「私の矛の鋭いことといったら、どんなものでも突き通さないものはありませんぞ」。それを聞いたある人は「お前さんの矛でお前さんの盾をついたらどうなるのかね」。
ここにあるのは、まさに矛盾(むじゅん)であり、際限のない軍需産業の利益追求の世界である。
私は、矛を〈毒ガス・細菌兵器〉、盾を〈防毒マスク〉に置き換えて考えてみる。
そしてやはり肝心なことは戦争を許さないこと、核兵器も〈毒ガス・細菌兵器〉も全廃することではないかと思うのである。
以上に述べてきたように21世紀の〈NBC(核・毒ガス・細菌)〉戦対処の防護材の開発研究・製品化もまた、ただちに今日の戦争戦略に結びついている。
21世紀の自衛隊の求めに応じた〈東洋紡〉が担っている役割は、20世紀の半ばに皇軍の求めに応じて〈藤倉工業〉が担ったのと同じ「盾」の役割であるように思える。
その「盾」は新しい「矛」にどれだけ耐ええるものなのか、またそれは国民全体の「盾」となり得るものなのか――、民主憲法のもとに育った私たちだからこそ、小林多喜二が『党生活者』で〈毒ガス・細菌戦〉準備を告発した意味は大きく受け止め、毒ガス・細菌戦が21世紀初頭の戦争の主要な戦争様態として重視される以上、日本における毒ガス戦を告発する小説として、読み継ぐべき意味も大きいのだ。
(※2000年頃に書いたもので、今では古くなってしまった情報も多い)
日中戦争の際、日本軍は上海付近でも生物化学兵器を使っていますね。1932年は「上海事変」の年でもありました。地下活動中の多喜二に見えていたものは何だったのでしょうか。