多喜二が虐殺された2月20日は、同時に志賀直哉の50歳誕生日だった。このことは偶然であるが、志賀直哉にとって「偶然」の一言で無視できない日となった。
直哉は多喜二の訃報を知った2月25日の日記に「小林多喜二 二月二十日(余の誕生日)に捕らへられて死す。警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが、自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持になる」と書き記す。
そこには直哉に、多喜二を殺したファシズムを不快と感じる感情があったことが読みとることができるのである。
志賀と多喜二というとりあわせは今日、多喜二が「革命作家」「天皇制・特高によって虐殺された反戦作家」というイメージを強く持つことからみるとひどく奇異なものとも映るかもしれない。
しかし、多喜二ばかりか中條百合子、黒島伝治ら当時のプロレタリア文学運動の担い手の多くが志賀を目標にその文学修行時代を過ごし、小説創作に取り組み、その手法と態度から多くのものを学びとったということは、だれもが認めることだろう。
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多喜二と直哉との交流については、それぞれの文学全集が編まれていることで、二人が約十年の間に交換した書簡は容易に読むことができる。
文通がはじまったのはいつ頃かはっきりしないが、多喜二が初めて手紙を出したのは小樽商業高校を卒業し、小樽高商に入学した二十歳前のものが、今日確認される一番古い直哉宛の手紙である。交流の始まりは、それをさかのぼる 1921(大正10)年、直哉が千葉の安孫子に住んでいた頃ではないかと推定とされている。※手塚作成「年譜」
その頃多喜二は、伯父のパン工場で働くかたわら、小樽高商へ通う貧しい学生であった。友人にさそわれ絵画の制作に熱中したが、伯父の叱責によって絵筆を折った。そしてこれまで絵画に注いでいた情熱を文学に向けた。そんな多喜二が、とくに直哉にふかい魅力を感じ、結びつきをもちはじめたことは興味深く感じられる。
志賀直哉は、泉鏡花、夏目漱石らの影響下に作家を志し、1910年(明治43)27歳で木下利玄、武者小路実篤などと同人誌『白樺』を創刊、人道主義的立場の文芸潮流を形成し、日本の近代文学に新風を吹き込んだことでしられる。
多喜二との交流が始まった30代後半の直哉は、長く確執のあった父直温(なおはる)と和解して、「暗夜行路」前編を『改造』に連載していた。
秋田から伯父を頼って夜逃げし、伯父宅に生活を依存していた18歳ごろの多喜二にとって、主人公時任謙作の封建的家父制の倫理観の範疇から脱しようとする自我の主張は、自身の青春の苦悩とも重なり、大きく共感するところだったのだろう。
志賀はこのころの多喜二の印象について、「快気焔」と表現している。
直哉は1923(大正12)年3月に長年住み慣れた安孫子から京都市外山科に移った。他方小林多喜二は、1924年の3月からは北海道拓殖銀行小樽支店につとめた。
勤務のかたわら仲間たちと同人誌『クラルテ』を主宰・発行したが、彼の志賀傾倒は同人誌の仲間の間でも有名で、同人の一人が志賀直哉から彼宛の偽手紙を書いて、わざわざ東京あたりから投函させた。※『緑丘』多喜二特集参照。
「滝井孝作と小樽へ行く」という内容だった。
多喜二は非常に喜び、歓待の準備に走り回ったが、期日がきても一向に音沙汰がない。不審に思って志賀のもとに直接問い合わせてはじめて、自分が騙されたことを知った。
こんな微笑ましいエピソードも、志賀のなかに多喜二の印象を深く刻んだようだった。
直哉は多喜二の訃報を知った2月25日の日記に「小林多喜二 二月二十日(余の誕生日)に捕らへられて死す。警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが、自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持になる」と書き記す。
そこには直哉に、多喜二を殺したファシズムを不快と感じる感情があったことが読みとることができるのである。
志賀と多喜二というとりあわせは今日、多喜二が「革命作家」「天皇制・特高によって虐殺された反戦作家」というイメージを強く持つことからみるとひどく奇異なものとも映るかもしれない。
しかし、多喜二ばかりか中條百合子、黒島伝治ら当時のプロレタリア文学運動の担い手の多くが志賀を目標にその文学修行時代を過ごし、小説創作に取り組み、その手法と態度から多くのものを学びとったということは、だれもが認めることだろう。
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多喜二と直哉との交流については、それぞれの文学全集が編まれていることで、二人が約十年の間に交換した書簡は容易に読むことができる。
文通がはじまったのはいつ頃かはっきりしないが、多喜二が初めて手紙を出したのは小樽商業高校を卒業し、小樽高商に入学した二十歳前のものが、今日確認される一番古い直哉宛の手紙である。交流の始まりは、それをさかのぼる 1921(大正10)年、直哉が千葉の安孫子に住んでいた頃ではないかと推定とされている。※手塚作成「年譜」
その頃多喜二は、伯父のパン工場で働くかたわら、小樽高商へ通う貧しい学生であった。友人にさそわれ絵画の制作に熱中したが、伯父の叱責によって絵筆を折った。そしてこれまで絵画に注いでいた情熱を文学に向けた。そんな多喜二が、とくに直哉にふかい魅力を感じ、結びつきをもちはじめたことは興味深く感じられる。
志賀直哉は、泉鏡花、夏目漱石らの影響下に作家を志し、1910年(明治43)27歳で木下利玄、武者小路実篤などと同人誌『白樺』を創刊、人道主義的立場の文芸潮流を形成し、日本の近代文学に新風を吹き込んだことでしられる。
多喜二との交流が始まった30代後半の直哉は、長く確執のあった父直温(なおはる)と和解して、「暗夜行路」前編を『改造』に連載していた。
秋田から伯父を頼って夜逃げし、伯父宅に生活を依存していた18歳ごろの多喜二にとって、主人公時任謙作の封建的家父制の倫理観の範疇から脱しようとする自我の主張は、自身の青春の苦悩とも重なり、大きく共感するところだったのだろう。
志賀はこのころの多喜二の印象について、「快気焔」と表現している。
直哉は1923(大正12)年3月に長年住み慣れた安孫子から京都市外山科に移った。他方小林多喜二は、1924年の3月からは北海道拓殖銀行小樽支店につとめた。
勤務のかたわら仲間たちと同人誌『クラルテ』を主宰・発行したが、彼の志賀傾倒は同人誌の仲間の間でも有名で、同人の一人が志賀直哉から彼宛の偽手紙を書いて、わざわざ東京あたりから投函させた。※『緑丘』多喜二特集参照。
「滝井孝作と小樽へ行く」という内容だった。
多喜二は非常に喜び、歓待の準備に走り回ったが、期日がきても一向に音沙汰がない。不審に思って志賀のもとに直接問い合わせてはじめて、自分が騙されたことを知った。
こんな微笑ましいエピソードも、志賀のなかに多喜二の印象を深く刻んだようだった。
後に出てくる「アンタンたる」には頷けます。ですから、「不愉快」と「アンタン」のずれが興味深いといえば興味深いのでしょう。「不愉快」という生ぬるい表現は、当時、批判的意識をもちつつも別に抵抗運動などに参加していなかった人間が自然と行き着く無難な表現なのでしょうか。
志賀は「万歴赤絵」に「上高畑からの手紙~主人持ちの文学を指摘した書簡}を掲載しており、その意図は特高への最大の「抗議」の意味が含まれていたと私は理解しています。