「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

七沢温泉から届いた多喜二の手紙

2016-12-19 00:11:39 | 一場の春夢――伊藤ふ...

七沢温泉から届いた多喜二の手紙

ふじ子回想の「ノート原稿の清書」とは、小説「オルグ」(『改造』 三一年五月号)のこと。神奈川県伊勢原市の七沢温泉で逗留中の多喜二から、「伊藤貞助方 伊藤ふじ子様」の封書が届いた。封書の裏の差出人には「七沢の蟹」。中には便箋二枚が入っていた。ふじ子宛の書簡に「七沢の蟹」を名乗ったのは、多喜二がこれまで縁のない七沢温泉に多喜二が逗留していることを明示したものだ。ふじ子が晩年横浜に終の棲家を構えたことを考えても、ふじ子が七沢の温泉宿を紹介したと考えて間違いがないだろう。現物は今に伝えられないが、手紙を盗み見た古賀孝之の記憶に基づいてその文面を再現すると

――君のことをなにかにつけ思い出す。しばらく君とご無沙汰していたのはわけがあるんだ。大阪での戦旗講演で検挙された。その時いっしょに捕まったかわいそうな老人がいたので、それを抱いて寝てやった。そのためにカイセンを移された。それを治療するためにこの温泉にきている。このことは親しい人にも誰にも言っていない。君が誰かに話すとは思わないが、ぼくはそれをちょいと試したくなった。それでこの手紙を書く。帰ったらまた会いたいものだ。

ふじ子と多喜二の交流は、このときすでに始まったのだ。「オルグ」を書き上げた多喜二は一念発起して、東京での暮らしを母と弟を小樽から呼び寄せて一緒に住み始めた。母は猫の額ほどの畑を耕し、弟はヴァイオリン奏者を志望して、斯界の第一人者・橋本国彦のもとで指導を仰いだ。多喜二は元酌婦の恋人・田口タキと別れたばかりだった。ふじ子と出会ったのは、そういう心に空洞ができたころだった。ふじ子は多喜二収監中の同劇団の内紛に巻き込まれて嫌気がさし、七、八名の女優たちと一緒にナップに合流した。多喜二はそのことを知り、ふじ子とその内幕を聞きに何度か築地の左翼劇場をたずね、お茶を一緒に飲む仲になったのだった。多喜二は「文戦の打倒について」(第二文戦打倒同盟『前線』一九三一年七・八月合併号)を書き上げ、続く八月、「都新聞」での連載小説「新女性気質」の掲載を始めた。

 

ふじ子は、三一年秋ごろから古賀孝之経営の銀座の八丁目「コッテン」という名の喫茶店を「伊藤まさ子」(-古賀の記憶)と名のり手伝うようになった。遅くなれば店に泊まることもあり、この店から「銀座図案社」というデザイン事務所に勤めに出て行く。そのころ、水島みつこ(後に古賀の妻となる)と知り合う。コッテンに左翼が集まっているという噂が立ち、警察も姿をみせるようになったので古賀は店をたたみ、八丁堀の奥の家に引っ越した。ふじ子も一緒で、高野ともう一人の青年の三人で二階の二帖間にふじ子は住んだ。所持品はほとんどなく、洋服も少なく毎日同じ服をきていた。古賀によると、ふじ子がしばらくして検挙され、女であることをもって凌辱的拷問を受けた。このエピソードは一九三一年十一月二三日付『帝国大学新聞』に掲載した短編小説「疵」で作品にまとめられた。「疵」とは、特高のテロによってふじ子の身体に刻まれた傷跡のことだ。

同時期、プロレタリア美術家同盟の指導者の一人である岡本唐貴は、杉並・馬橋の多喜二たち一家のそばに引っ越した。細い路地をはさんで、多喜二の家があった。弟の三吾のバイオリンの練習の音が聞こえる距離だったと、『岡本唐貴自伝的回想』で述懐している。美術同盟第四回展に出品した「電産スト」をテーマに三○○号のキャンパスに向かっていた。多喜二も時々見にきた。岡本は多喜二もふじ子もよく遊びにきた……、ふじ子は多喜二のことを「ヤツが」「ヤツが」と得意げに語った。このころすでに多喜二とそういう関係にあったのだ。

翌一九三二年四月上旬多喜二が指導するプロレタリア文化連盟は壊滅的な弾圧を受けた。その前から、作家同盟書記長として第五回大会の報告書をまとめるため、自宅を離れ伊藤ふじ子を通じて紹介された木崎方にこもっていて検挙を免れ、そのまま地下生活に入った。

古賀孝之「無名の情熱-伊藤ふじ子」(『現象』昭和四十四年十一月号)によると、ふじ子は洋裁の出来る水島みつ子を講師に仕立ててグループをつくり、大井町あたりの労働者街でサークル活動をしようとしたそうである。はでな立看板で労働者のおかみさんを集めた。このサークルは「大崎労働者クラブ」だった。大崎の東京南部地域は、現在も「下町ロケット」などで知られる都下の先進工業地帯で、ここには五反田の藤倉工業の女子労働者らも集まった。藤倉工業は海軍御用達の軍需工場で、中国戦線の毒ガス戦を想定し、防毒マスク、パラシュート、ゴムボート、飛行船の側の製造に従事していた。ここで臨時工解雇反対の争議がまき起こっていたことで、共産党はオルグ対象の重点工場として工作していた。多喜二は、その藤倉工業解雇撤回闘争の経緯を小説「党生活者」(多喜二没後遺作として発表された「党生活者」(「転換時代」として『中央公論』一九三三年四月、五月号掲載)でドキュメンタリータッチで描いている。同作にはふじ子との暮らしが随所に反映されている。その女性像表現を中心に以下にたどる。


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