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「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

1932年9月16日、平頂山事件

2009-09-15 22:37:45 | takiji_1932
平頂山事件(へいちょうざんじけん)とは、1932年9月16日、現在の中国遼寧省北部において、撫順炭鉱を警備する日本軍の撫順守備隊(井上小隊)のゲリラ掃討作戦の際に、楊柏堡村付近の平頂山集落の多くの住民が犠牲になった事件。犠牲者数については、400 - 800人(田辺敏雄による説)から3,000人(中国説)までの諸説があるが、掃討作戦およびそれに伴う民間人犠牲者の存在自体に異議を唱える論者は存在しない。

事件の誘因となったのは、1932年9月15日の反満抗日ゲリラ「遼寧民衆自衛軍」による、撫順炭鉱襲撃である。この背景には、満州国の建国宣言(1932年3月1日)以来活発化していた、反満抗日運動の存在がある。この襲撃で、日本側は、炭鉱所所長含む死者5名、負傷者6名、総額21万8,125円の被害を受けたと伝えられる。

撫順守備隊は、平頂山集落がゲリラと通じていたとの判断の下に集落を包囲、掃討を行なった。
掃討の方法は、平頂山の、その時にいたほぼ全住民(女性・子供・赤ん坊を含む)を集めて機関銃を掃射し、それでも死ななかったものを銃剣で刺し、殺害した死体には重油をかけて焼却するというものであったと伝えられている。その後、崖をダイナマイトで爆破して死体を土石の下に埋めたが、これは事件を隠蔽するためと推定する見方もある。

虐殺人数については諸説があり、中国側は、発掘死体の数などを根拠に3,000人を主張している。また、守備隊の中隊長であった川上精一大尉の親族である田辺敏雄氏は、自著の中で、虐殺に参加した兵士の証言などをもとに犠牲者数を400-800人と推定している。なお当時、平頂山集落の人口は約1,400人、犠牲者数600人前後とする資料もある。ジュネーヴでの国際連盟理事会では、中国側の被害者は死者700、重傷6~70、軽傷者約130名と報告されている。


1932年9月15日、日満議定書締結

2009-09-15 16:47:52 | takiji_1932
昭和6(1931)年満州事変を機に、中国関東部で展開していた帝国日本軍は、昭和7(1932)年3月傀儡政権の「満州国」を建国したばかりか、昭和7(1932)年9月15日、満州国都・新京(現・長春)において、日本の満州国承認に伴う「議定書」を締結した。

本議定書は序文において、両国の強固な同盟関係(日満一体)と東亜の平和安定確立を宣言し、

細目において、日本及び日本国民が満州国建国以前から満州に有していた一切の権益・契約等の確認と尊重 日満両国による集団安全保障(共同防衛)の確認及び、満州防衛に必要な日本軍駐屯の承認 を謳(うた)っていた。

これに基づき「満州国軍」は編成されず、建国以前から駐留していた関東軍(日本軍)が引き続き駐留し、日本権益の保護・在留邦人の安全確保・満州国防衛の任に当たる事となった。

これによって、帝国日本の中国東北部の占領体制が確立した。

この体制は、昭和20(1945)年、戦争終結により、当事国が崩壊し(日本の占領・満州国の滅亡)たことで、本議定書も失効することになる。



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満洲国新京ニ於テ帝国特命全権大使ガ満洲国国務総理
ト共ニ署名調印シタル議定書 (昭和7年条約第9号)
(昭和7年9月15日調印、同日発効)


日本国ハ満洲国カ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ独立ノ一国家ヲ成スニ至リタル事実ヲ確認シタルニ因リ満洲国ハ中華民国ノ有スル国際約定ハ満洲国ニ適用シ得ヘキ限リ之ヲ尊重スヘキコトヲ宣言セルニ因リ日本国政府及満洲国政府ハ日満両国間ノ善隣ノ関係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土権ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センカ為左ノ如ク協定セリ

一、満洲国ハ将来日満両国間ニ別段ノ約定ヲ締結セサル限リ満洲国領域内ニ於テ日本国又ハ日本国臣民カ従来ノ日支間ノ条約、協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ権利利益ヲ確認尊重スヘシ

二、日本国及満洲国ハ締約国ノ一方ノ領土及治安ニ対スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約国ノ他方ノ安寧及存立ニ対スル脅威タルノ事実ヲ確認シ両国共同シテ国家ノ防衛ニ当ルヘキコトヲ約ス之カ為所要ノ日本国軍ハ満洲国内ニ駐屯スルモノトス

本議定書ハ署名ノ日ヨリ効力ヲ生スヘシ
本議定書ハ日本文漢文ヲ以テ各二通ヲ作成ス日本文本文ト漢文本文トノ間ニ解釈ヲ異ニスルトキハ日本文本文ニ拠ルモノトス

右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ正当ノ委任ヲ受ケ本議定書ニ署名調印セリ
昭和七年九月十五日即チ大同元年九月十五日新京ニ於テ之ヲ作成ス

(署名略)
(日本外交年表竝主要文書より)


二人の男が語る―多喜二の"妻"伊藤ふじ子

2009-09-13 09:40:24 | takiji_1932
●森熊猛「伊藤ふじ子のこと」=私が手塚(英孝)さんと会ったのは三回ぐらいしかないんです。
去年の春、私の女房が死にました。女房は僕と四十年数年間一緒にいたんですが、その前に小林多喜二と一緒に暮らしたことがある伊藤ふじ子という女性なんです。

その伊藤ふじ子が私と一緒になった時、これ小林の分骨よ、といって箱に入れたちいさなものを持ってきたんです。そのほか手荷物みたいなものをいくつか持ってきたし、私も今からもう五十年ほどまえで、非常に貧乏で、どうにもこうにもならないような時代でした。

小林が亡くなったのが、昭和八年ですから、昭和九年の春、ちょうど一年目ですね、そのころ二人で一緒に生活しはじめたわけなんです。

それがながい年月経って、最後にその骨が残ったわけです。」


生前私と女房がある日二人で歩いているとき、女房がお骨を向こうの家に返したいというんです。だけど受け取ってくれるかどうかと考えまして、手塚さんに電話して、相談してもらったのですが、あの時の様子がよくわからないというのだな。

それが小林の骨であるかどうかわからないし受け取らないという返事がきたって手塚さんがいうんです。

また女房が手塚さんと電話で話しまして、どうするといったら、もう四十年間一緒にいたんだからこれはうちに置いておく、というんです。それは生前だからまだいいんだけれども、女房がいなくなってその骨があるということは、亭主たるものまことに妙なもので、それを捨てるわけにもいかないし、どこか墓地にもっていっても、こんな小さな箱なんですよね。

女房はともかく彼の骨だというわけだから、これじゃあしょうがないなあと思っているうちに、四十九日がきて、女房の骨を納めなくてはならないというわけだ。

女房が小林の分骨だというお骨をあけて一緒にして土にかえしたわけだ。

それはそれで済んだとまったくほっとしたわけです。そ

ういういきさつがあり、それから女房が手さげカバンか何か持ってきたのがうちにある。僕がみてもわかんないいろいろな、当時でいうと労働調査なんとかだとかこむずかしい本があった、『新潮』なんかもあったような気がします。それに英語でちょちょっと書いてある。僕がそんなもの書くわけがない、女房だってもちろん語学なんかできるわけじゃない。

とにかく女房の持ってきたものだし、『中央公論』だとか小林の作品の出た本があったもんだから、それを手塚さんにあげようと思ってもっていった。いろいろ手塚さんが見たら、これはあいつの字だ、まちがいない、ということで小林多喜二のそういうものを集めているところがあるから、そこに持っていくというのです。

『赤旗』にデカデカと出たもんで私もちょっと驚いたんだけれども、そういうようなことでいろいろと手塚さんにはお世話になったわけです。それが去年、女房の亡くなったのが五月ですから四十九日の前、六月頃です。

もっと前のことをいうと、終戦直後に手塚さんが私の家を訪ねて、私と女房と手塚さんと三人で、いろいろ戦前のことを話したことがあります。それが小林多喜二の本にちょっと出ているようですけども。そういうことがあって亡くなる半年位前にも会っているわけなんで、本当に驚いたわけなんです。」

*画像は、森熊猛さんとふじ子さん。


●手塚の描くふじ子像「非合法時代の小林多喜二」=四月二十日頃から小林多喜二は麻布東町の称名寺という寺の境内にある二階の一室を借りてひそかに移り住んだ。ここは上下一間ずつの小さな家だった。彼が借りた階下の部屋は隣家の板壁に周りをさえぎられて一日中日光のあたらない陰気な一室であった。彼は非合法になったのちまもなく、伊藤ふじ子と結婚して同居した。伊藤とは三一年頃からの知り合いであった。彼女は銀座の図案社につとめていた。彼には田口タキという不幸な境遇から彼が救い出した北海道時代からの愛人があった。彼は田口との結婚を希望していたが、彼女は病気の母と四人の妹弟の生活のために、折角上京して習得した美容師の収入では生計が立たず、料理店で働かなくてはならない境遇にあった。彼との結婚が、彼に重い負担をあたえ、彼の生活仕事を破壊するようになることを考え、田口は彼の願いをかたくこばんで受け入れなかった。このような事情で彼もまた田口との結婚を断念しなければならなかったのである。」

「三二年九月中旬、小林多喜二は新網町の二階から、同区桜田町に一軒の小さな二階家を借りて移ることができた。まもなく、伊藤の母を郷里の山梨から呼びよせ、非合法生活に入って半年後に、ようやく、かなり安定した隠家をつくることができるのであった。しかし、その家も長くはつづかなかった。三ヶ月後に十月事件の関係者の連関から伊藤が突然、銀座の勤先で検挙された。そして、その翌日の早朝、隠家は数名の特高刑事にふみこまれ家宅捜索をうけた。十日ばかり前から、彼は家のすぐ近くに巡査が引越してきたため、一応用心して、他へ宿っていたが、その日は朝のうちに連絡をすまして、ちょうど特高たちがひきあげていった直後に帰宅したのであった。

●隠家には注意ぶかい用意がしてあったとみえ、奇蹟的に彼は逮捕をまぬかれたが、このような事情で、彼は渋谷区羽沢町に下宿した。二週間後には伊藤は釈放されたが、その後は伊藤の関係をたぐって捜査される危険もあって、同居することは不可能となった。羽沢町の下宿は階段したのは二畳の狭苦しい部屋だった。換気が悪いので、彼は寒中も火鉢をおかずに仕事をした。」

1932年9月4日「国際青年デー」

2009-09-13 07:51:14 | takiji_1932
「国際青年デーを前にする文化連盟」(『1932年8月25日付 『赤旗』92号) 


8月25日、多喜二は、『党生活者』脱稿。同志蔵原にささげると献辞を書いた。多喜二は、中央公論の編集者中村恵へ投函した。

「カニ工船」や「工場細胞」とはちがった冒険的試みを自負し、中村に「『党生活者』は「単なる失敗を恐れないでその成果に注目したい」

とその趣旨を示した。



共産青年同盟の機関紙 「無産青年」 九・四 国際青年デー特集に以下の詩が掲載されている。※伊勢崎・多喜二祭関係者にとってはとくに、群馬・伊勢崎で多喜二らが講演会を企画したテーマも「国際青年デー」であったことにも注意する必要があると思う。画像は、今月6日に開催された伊勢崎・多喜二祭で発売された『多喜二奪還闘争資料集2 「多喜二奪還事件」の文学的前提』の裏表紙。ここには、931年9月の国際青年デーのキャンペーンのために多喜二らが招かれたと示されている。

以下の詩は、「党生活者」の舞台藤倉工業でのたたかいを描きながら、「党生活者」発表以前のもの。執筆されたのは、「党生活者」執筆と同じ時期であるだけに重要だ。



青年デーに-----毒ガスマスク製造工場の少年臨時工は唄う

                      岡健太

    一
「おいしょ」
おいらは左手で瓦斯(ガス)マスクを受け取り、右手でゴム管を口に取り付ける。
けったいなお面だ。
戦争みてえに不気味な、けしからん面付だ。
これが毎日三百と出来上る

    二
毎日十三時間はたらかされる、それにこのごろは又2時間の居残りだ。
腰が痛くて動けん、
手足がしびれて、身体が疲れて、堂にも動けん。
臨時工だ云ふて、子供だいふて、おとなの半分も賃金を寄こさん。

    三
親子六人、一日三十銭のおいらの
賃で食っとる。
おいらはタラフク食いたいが朝晩二杯しか食へん。
失業者とちっともかわらん。
藤倉は八百又投げ出したが、おいらも何時馘が来るか分らん。
おっかあが云つとった。
「天子様も罪な人じゃあ―戦争はやりんさるし、わしらをこないにカシえなさるし…」

    四
「ヒジョージだ。御国の為だ」奴等は吐かす。
朝ラジオ体操で君ヶ代を歌はす。
「君が代」だが「おらが世は?」それから勅語だ。
所長のドンバラに続いておいらは称えだす。
「朕思はず屁を垂れた
汝臣民臭かろう」
けつ、置きやがれ!

    五
おいらは想い出す、「無青」に出ていたソヴエートのピオニールの写真を―あの子供達はトラックに乗って反戦ビラを撒いていた。
労働者農民の国への干渉戦争反対!
子供達はそう叫ぶ。
サクシュのない国で、
天皇のいない国で、
あの児等は生き生きとたくましく戦っている。

    六
今おいらは、
腹をペコペコにして、疲れて顔をクシャクシャにして、
あの児等に戦争をしかけようと道具を作っている。
この毒瓦斯マスクのシャクな面付を見て呉(く)れ。―
誰かが肩をたたく、
「あれを見ろやい、あれを」ポン公が指をさす、
おいらは見た。
暦が真紅に彩られている。
おーそうだ。
九月四日,国際青年デー。
誰がやったか日曜日の赤紙の上を赤インクで、
これは又何と赤々と―

    七
 おお
おいらの血の沸き立つ日
おいら青年の差別と抑圧を奴等に叩き返す日
世の中の道理に合はぬ成り立ちへの抗議を奴等の心臓に突きつける日
おいらを踏みにじる戦争に身をもって立ち向かう日、
この日!上海で、ベルリンで、ニューヨークで、
おいら青年はおとなと腕を組む。

    八
おいらは公休を要求し、おいらはストを決行し、
おいらは街々へデモで押し出す。メシと仕事と自由を要求して,帝国主義戦争に反対して
天皇制打倒、労農政府樹立を叫んで!
九月のそよ風の中を
おいらは行進する。

    九
そこでここは職場だ。機械の音がハタと止まった。ポン公が台に登って怒鳴っとる。「おいみんな、おいら強制残業に反対だ!」ガスマスクを投げ捨ててみんなドヤドヤとつめかける。みんなの顔は怒っている。みんなの顔は輝いている。みんなの顔はうれしくって、頬がピクピクしとる。

    十
青年の賃を大人と同じにしろ、臨時工を本工としろ、首切反対、軍需品製造反対、みんなが一緒になって叫ぶ。みんなが足踏みし、みんなが腕を組み、
おとなも、こどもも、女も男も一つの塊に燃え上がって。工場地帯から街へ―街から宮城へ、おいらは押し出す。

共青中央委員となった山田寿子は、高島満兎といっしょにいる淑子に会った。共青の中央機関紙『無産青年』の仕事をしていたのだった。

9月中旬のある日、山田寿子は淑子と万世橋と浅草橋の間で街頭連絡をとった。
 二人は時間きっちりに、ちょうど真ん中で会った。そして万世橋のほうに歩き始めた時、交番にいた警官に不審尋問された。
二人は呉服の問屋街に逃げたが、黒山の人だかりと袋小路で捕まってしまった。

淑子は中央委員山田寿子を逃がそうとし、山田寿子は病弱な淑子を逃がそうとしてあばれた。
寿子は連絡用の紙片は飲み込んでしまったが、ほかに秘密文書を持っていた。
それは警察に抵抗しながら、朝鮮人らしい二人の自転車の荷台に隠した。二人はさりげないそぶりで、そのまま逃げてくれた。

寿子は万世署に、淑子は別な警察に連れて行かれた。

 淑子を取り調べたのは特高の志村刑事だった。
「おまえは送局だ」といえば顔色がかわるだろうと思っていた特高に向かって、淑子は「まあァ、左様でございますか。オッホホホ……」と笑ったと伝えられる。

 淑子の検挙は33年1月18日の新聞で報道された。

 獄中の淑子は、寿子が同じ市ヶ谷刑務所にいることを知って、なんとか連絡しようと考え、運動場側の鉄棒のはまった高い窓の下に布団をつんで、窓から顔を出しているのを発見されて重屏禁三日間の懲罰を受けた。

 重屏禁とは獄中の人を二重に罰するために、全く暗黒の独房に閉じ込め、寝具を与えず、食事は塩をかけたメシだけという、非人間的な懲罰だった。

*関淑子 せき‐としこ

1908‐1935
昭和時代前期の社会運動家。
明治41年9月10日生まれ。関鑑子(あきこ)の妹。女子英学塾(現津田塾大)在学中よりプロレタリア演劇運動に参加。日本労働組合全国協議会関東金属労組本部書記などをつとめる。地下活動で潜伏中の昭和10年1月27日東京浅草で焼死。28歳。東京出身。名は「よしこ」ともよむ。

1932年9月 リットン調査団報告提出

2009-09-10 09:17:45 | takiji_1932
満州事変勃発後の日本側の強硬な態度と、イギリス・フランスを中心とする列強の対日宥和のために、1932年(昭和7)1月、国際連盟は、イギリスのリットンを長とし、フランス・ドイツ・イタリア・アメリカの代表から成る委員会を編成した。


同調査団は、同年3~6月にわたり中国・満州を調査し、9月に報告書を提出した。
この間の3月1日に満州国が独立を宣言、中国政府は承認しなかったが報告書提出前の9月15日に、日本は同国の独立を承認した。


                 ◇

国際連盟・リットン調査団による報告は、満洲事変を「内政干渉」としつつも日本にも一定の理解を示した。

この報告により、連盟各国は和解の基礎が築かれたと大きな期待をもった。



リットン報告書は柳条溝事件における日本軍の侵略は自衛とは認められず、また、満州国の独立も自発的とはいえないとした。しかし、事変前の状態に戻ることは現実的でないという日本の主張をとり入れ、日本の満州国における特殊権益を認め、日中間の新条約の締結を勧告した。

この報告書をめぐり日中は対立したが、連盟で採択されると日本はすぐに国際連盟を脱退した。

内容的には日本にとって「名を捨て実を取る」ことを公的に許す報告書であったにもかかわらず、報告書の公表前に満洲国を承認し、「満洲国が国際的な承認を得る」という1点だけは譲れない日本はこれに反発。

1933年2月の総会決議の結果、賛成42・反対1(日本)・棄権1(シャム(現・タイ王国))、松岡洋右全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場、そして日本国内世論はこれを拍手喝采をもって迎えた。


1932(昭和7)年9月1日

2009-09-09 23:49:06 | takiji_1932
1932(昭和7)年9月1日、日本共産党は対軍隊工作のために「兵士諸君に与ふ」と題したパンフレットを作成した。

 日本共産党は前年の1931年9月の満州事変から1932年3月の「満州国建国」によって、中国大陸での日本帝国主義の侵略拡大に反対し、軍隊内での反戦活動をうったえていた。

7月、日本共産党中央は、機関紙『兵士の友』発行などの活動をはじめ、軍内部に革命的兵士による細胞を結成して、軍事委員会を建設することを目指した。
同年8月に軍事活動の行動綱領を決定して、それを9月1日に赤旗パンフレット第29集として発行した。それが『兵士諸君に与ふ』である。



 そこには「兵営・軍艦の兵士諸君!
 吾々はかつては、労働し搾取される労働者農民であった。今は軍服を着た労働者、農民である。そして、除隊後は再び労働し、搾取される労働者、農民となる。我々は一刻も工場・農村で苦闘しつつある友人を忘れない」と呼びかけている。
そして軍隊内での活動について「我々は………兵営で、軍艦で、あらゆる場所で、機会ある毎に『何が真実か』『我々は何をなすべきか』を具体的事実に依って懇切に教へ、実際のとうそうを通じて、一切の欺瞞から救ひ上げ、固く手を握って共に闘ひ得る様に導かねばならぬ」と述べている。

 日本共産党の対軍隊内工作の特徴は、第一に兵士の日常的要求・不満などをとりあげて、これを大衆運動にまで発展させていく方針であり、パンフレットには
「入営・出征中の家族の生活保証」
「入営に依る失業反対。除隊後の即時就職」
「士官並みの食事」
「七時間勤労制の確立」
「勤務時間以外の使役反対」
「奴隷的服従反対」
「体罰・不当処罰反対」
「天皇主義的強制教育反対」
「帝国主義戦争反対」
「満州・朝鮮・台湾の独立」
などの要求を掲げた。

 第二に兵士に対する分断工作の克服をめざし、パンフレットには、「軍隊内では、あらゆる手段、方法を尽して、兵士の問に離間策が講ぜられてゐる。
上等兵と一、二等兵、古兵と新兵とは極度に対立さされてゐる。これは支配階級の奸策だ。それに依って兵士大衆の団結を防止しようとしてゐるのだ」

としている。


1932年8月30日、多喜二著『沼尻村』発売!!

2009-08-30 13:05:03 | takiji_1932
『沼尻村』日本プロレタリア作家同盟叢書第二篇が、1932年8月30日に発売された。

この作品は、『改造』1932(昭和7)年4、5月号に連載されたものを一冊にまとめたもので、80ページほどの小説集。

初出は全編にわたって削除や伏せ字が多い。特に第4章。



装丁も、簡略なものでタイトルロゴが表紙に踊るだけのものだ。


著者は、この作を発表するとほぼ同時地下活動に追い込まれていた。
前年9月、中国・東北部で「満州事変」を引き起こし、この年の3月1日、傀儡国家 「満州国」を建国し、新たな侵略戦争拡大を狙っていた日本は、国内に対しては1932年春から文化運動に対して集中的な弾圧を加え、主要な活動家を投獄した(宮本百合子「一九二八年の春」はこの弾圧をクロッキーしている)。ロシアから秘密裏に帰国し、地下にもぐって文化分野の反戦運動を指導していた蔵原惟人は、スパイMの罠にはまり4月4日検挙された。

蔵原は、田中清玄指導部崩壊以後の、中央活動家の幹部の一人として過酷な取り調べと拷問を受けながらも果敢な闘争を続けた。

宮本顕治は、蔵原検挙後の文化分野の指導に多喜二をあたらせた。

この『沼尻村』は、貧しい装丁ではあるものの、そうした多喜二の闘いの姿勢を示すものとして刊行され、読まれたものだった。


当時、作家同盟の出版部長だった猪野省三の証言によると、

この著書の出版については、人を介して地下活動にあった多喜二と相談し、多喜二の了承を受けてのもので、多喜二が加筆、削除を加えたものだという。
この版は、『改造』発表時の伏せ字・削除を大幅に復元し、4章以下の数か所をわずかに伏せ字にしたものだったが、発行直後に販売を禁止された。その後、さらに「改訂版」が刊行された。

同作は、満州事変からまもない、北海道〈沼尻村〉を舞台に、不景気ゆえ、これまで街に出ていた若者たちも食い詰めて村へ戻ってくるようになり、若い娘たちは近くの郁秋別炭山へ日雇いに出かけるものが多くなった農村の人々を描写する。

主要登場人物は、小作農の息子で、東京で全協日本金属の仕事を経験した兼一郎。炭山の選炭場でこきつかわれ、身体を悪くしていた兼一郎の妹・ふみ。自作農の息子で農本主義のファシスト・要吉。
沼尻村・全農組合リーダーで中年の自作農山館。

山村という貧農の小作が、地主の吉田屋から土地を追い出され、その妻子が心中する事件から争議が起こったとき、山館は闘わずして折り合いをつけようとしたため、この事件に憤った小作人たちは山館から離れ、闘争的で若い河原田についた。結果として河原田たちは争議に勝つが、それ以後、全農は山館と河原田の二派に分裂してしまった。

兼一郎は河原田に近づき、村に「倶楽部」をつくり、農民たちが新聞を読んだり話し合ったりできる場を提供するなど、組織的な仕事を始めていった。

秋、米は凶作であったが、過酷な取り立ては行われることになった。しかも、貧農の頼みの綱であった炭山でも首切りが始まった。さらに、満州での戦争が始まったことで、貧しい家の唯一の働き手が召集されていった。それを受けて、組合では会合がもたれた。

兼一郎たちは、これをただの会合ではなく農民大会にし、未組織の農民とともに闘う地盤を作ろうと考えていた。小作人たちが窮乏を訴え、小作料の全免や借金棒引きを要求し、河原田が闘争案を持ち出したとき、山館が、戦争中に国民として騒ぎを起こすべきではない、政府から凶作救済の金や御下賜金まで出る、と発言する。そこで河原田は、これまでの救済金が一度も農民を救済できなかったこと、お上でやる土木事業の無謀さ、そして戦争が働き手を奪うばかりで、余計に生活を苦しくさせていることを話した。

しかし、その結果、警察が河原田を検束しただけではなく、要吉のグループからも殴り込まれ、会を壊されてしまう。警察は、要吉たちは検束しなかった。だが、早くもその晩に、兼一郎は、水原や宮本、そして要吉の妹・ヨシエと立ち上がり、ビラを刷る。ビラを組合の書記に届けてくれるのは、要吉の家に間借りしている女性教師、吉井タキであった。

ビラで闘争を続けていた兼一郎らは、その後、首切り後の炭山で、デモを計画する。労働者が農民を踏み台にする、という要吉の考えとは異なり、兼一郎は労働者と農民が手を結ぶべきだと考えていた。炭山に向かう兼一郎は、途中の分かれ道までヨシエと共に歩いた。二人の間には、信頼と恋が芽生えていた。

「極東平和友の会」創立総会はいつ開催されたのか?

2009-08-27 09:14:09 | takiji_1932
※「極東平和友の会」創立総会がいつ開催されたのかは、調査が必要かもしれません。

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(『葉山嘉樹日記』(昭和46年2月9日 筑摩書房 )

1933(昭和8)年9月2日

夕方から、江口渙の家へ里村と行く。布施辰治、高津正通〈道〉、加藤勘十、江口渙、佐々木高丸、里村と自分と、も一人若い何とか云ふ青年と、平和の友の会の事で雑談中、田無署の刑事がやつて来て、駐在所まで来てくれと云ふ。そこまで行くと、署まで行つてくれと云ふ。署まで行くと、直ちに留置場へ。(中略)四人づゝに分けられて、先客四人の中に割り込む。暑くて狭くて足のやり場が無くて困る。



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田中真人『1930年代日本共産党史論』の第2章



一九三三年九月に予定された極東反戦大会にむけて六月にはロマン=ロラン、アンリ=バルビュス署名のよびかけが発せられ、これをうける形で、上海会議支持日本国内委員会ともいうべき「極東平和の友の会」が六月にその準備会として発足した。八月二五日に東京日比谷公園内東洋軒で合法的に開かれたその発会式(当局は上海会議に触れないことを条件に開催を認許=『社会運動の状況』一九三三年、三二八ページ)で選出された同会の幹事は、次のような幅広い顔ぶれとなっている。



 水野広徳 布施辰治 山崎今朝弥 加藤勘十 奈良正路 神道寛次 新居格 猪俣津南雄 木村毅 金子洋文 葉山嘉樹 荒畑勝三 岡邦雄 大宅壮一 石原辰雄 生田花世 矢部友衛 佐々木孝丸 上村進 佐々木秋夫 大森詮夫 江口渙 山花秀雄 堺真柄 河合篤 黒田寿男 黒村欣三 妹尾義郎 須山計一 鈴木茂三郎 小牧近江 高津正道 関鑑子 戸沢仁三郎



 また、この極東平和の友の会準備会が招集して七月二一、二六両日に開催された上海反戦大会支持無産団体協議会への参加団体は次のとおりである(同前、三三〇ページ)。

 総評 統一会議 社会大衆党××青年部 新興仏教青年同盟 排酒同盟 反宗教同盟 ソヴェート友の会 日本消費組合連盟 労農救援会(以上代表出席、以下欠席) 総労 社大党婦達有志 全農全会 文化連盟 赤色救援会



 協議会は代表派遣のための二五〇〇円募金活動や、ロード=マレー代表団歓迎活動、上海反戦大会報告書宣伝印刷物作成などの活動を展開した。このうちロード=マレー代表団とは、イギリス労働党上院議員ロード=マレーやベルギーのブラッセル市助役らで構成された上海会議代表団で、会議開催に先立ち八月二一日神戸港に入港し、日本の当局と会見を申し入れるなど日本の代表の参加を容易にするための工作を行なう予定であったが、日本の官憲は神戸港近くのホテル以外の上陸を禁止した。



 上海反戦大会は九月三日より開催される予定であったが、会場の確保がおくれ、かつ日本・オーストラリアからの代表団の到着がおくれたこともあって、結局九月二九日より三〇日にかけて、事実上の非合法状態で開催された。補注(6)



 上海反戦大会に日本内地からの参加は不可能に終わったようであるが、これに先立ち、九月一日、極東平和の友の会の名において本所公会堂で上海反戦大会支持無産団体協議会を開き、これを事実上の日本反戦大会とせんとした。しかし合法的開催はやはり実現できず、反帝同盟、モップル、全協、全農全会らの代表団は翌九月四日に非合法に集会をもった。



 極東平和の友の会と上海反戦大会支持無産団体協議会は合法左翼、社会民主主義者、自由主義者をふくむ極めて幅広いものであった。「満州事変」の軍事緊張が一九三二年の上海事変ののち一定の小康状態をみせる一方で、「一九三五・六年の危機」と呼ばれた、再度の世界大戦の到来に対する危機感が、日本においても反戦平和への希求となり、「満州事変」直後の熱狂をさまさせていた。

反戦の元海軍大佐、水野広徳とは?

2009-08-27 08:45:38 | takiji_1932

2008年4月10日付「しんぶん赤旗」に 「反戦の元海軍大佐、水野広徳とは?」という記事があるので、紹介する。以下。

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〈問い〉 反戦の元海軍大佐、水野広徳とは? 関連する文献を教えてください。(宮城・一読者)  

〈答え〉 水野広徳(ひろのり)は1875年(明治8年)、現在の愛媛県松山市三津で生まれ、日露戦争で水雷艇艇長として日本海海戦に参加した軍人で、体験をまとめた戦記『此一戦』は当時ベストセラーとなりました。しかし、47歳のとき海軍大佐の職を捨て、以後は軍事・社会評論家として、『中央公論』『改造』などで軍縮の論陣をはり続け、戦時下には執筆禁止の状況に追い込まれながら、屈せず反骨の生涯を貫きました。

  軍国主義者から平和主義者への水野の転機は、第1次世界大戦時のヨーロッパ視察で、ドイツ軍だけで50万人の死者を出したフランス・ベルダンの戦跡や、失業者であふれる敗戦国ドイツの惨状をみたことでした。近代戦の「残忍なる殺戮(さつりく)」や「戦争の害毒、軍備の危険、軍国主義の亡国」を実感した水野は、以後、「我国は列国に率先して軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきである。これが日本の生きる最も安全策であると信ずる」と、日本国憲法の系譜に連なる徹底した反戦・軍縮論を主張しました。

  植民地の民族運動の高揚にも注目し、中国との対等な条約(治外法権の撤廃、関税自主権の回復)を主張、「真の世界平和の為には…根本は『被征服』民族の解放である」としました。

 水野の論でとくに注目されるのは、卓抜した軍事分析です。艦隊(戦艦)中心主義の当時にあって、将来の海上戦闘は航空機と潜水艦が主力になると予見。23年には米国を仮想敵国とした軍部の「新国防方針」にたいし、日米戦争の詳細な分析を基礎に日本の敗北以外にないと日米非戦論を展開しました。

  32年発行後すぐに発売禁止となった仮想戦記『興亡の此一戦』は、「満州国」の建設が中国あげての対日抵抗を招き日米戦争に発展するというシナリオで、中国戦線での泥沼化、米機動部隊による都市空襲、残存海軍兵力をあげての米艦隊主力との決戦など、その後の展開を洞察していました。

 「軍部大臣武官制」や「帷幄(いあく)上奏権」が軍部の暴走を招くとも早くから批判していました。さらに水野は、世界的な社会主義勢力の前進に着目し自らの軍縮論と結ぶ試みをし、憲兵や特高の監視下、33年8月の「極東平和友の会」創立総会では発起人の一人として講演しています。敗戦後は戦争責任者の厳罰は当然とし、天皇神格化を否定しました。45年10月、71歳で死去しました。(喜)  

〈参考〉『水野広徳著作集』全8巻、雄山閣、曾我部泰三郎『二十世紀の平和論者・水野広徳海軍大佐』元就出版社、河田宏『第一次大戦と水野広徳』三一書房、前坂俊之『海軍大佐の反戦、水野広徳』雄山閣  

 

 

 


1932年8月27日 アムステルダム国際反戦大会

2009-08-27 02:53:52 | takiji_1932
小林多喜二が反戦小説「党生活者」を書きあげて二日後、オランダ・アムステルダムで国際反戦大会が開催された。


この反戦大会は、作家のロマン・ロランやアンリ・バルビュス、アンドレ・ジッド、アンドレ・マルローらの呼びかけによって開催された。

38カ国から2196人が参加した。
翌33年6月には、パリのプレイエル会館で第2回大会が開催されるように、この世界での反戦運動のうねりは、「アムステルダム・プレイエル運動」と呼ばれ、その後反戦反ファシズムの大きな運動として発展した。

日本からは片山潜が発起人として参加したほか、多喜二「一九二八年三月十五日」「工場細胞」「オルグ」のドイツ語版翻訳者・国崎定洞もベルリン日本人反帝グループの代表として参加していた。(国崎は、その後、9月4日に片山潜の招きでモスクワに亡命し、コミンテルンでの片山の秘書として活躍するものの、ソ連での5年の生活ののち、1937年8月4日に山本懸蔵のねつ造した「スパイ疑惑」によって逮捕され、12月10日に銃殺され、いわゆる「スターリンによる粛清事件」の日本人犠牲者の一人となる数奇の道をあゆむものとなる。)

 この大会の前月の年7月5日、「三・一五、四・一六」事件の被告197名に死刑1、無期3、その他通刑1,022年の求刑が行われたことに対して、同国際反戦大会で片山潜の提唱によって抗議が送られるなどしたことは注目に値する。

ともあれ、小林多喜二は反帝同盟執行役員として、この大会で設置された国際反戦委員会の提唱による極東反戦会議(上海反戦大会)に呼応して、小説創作だけではなく、実際の反戦運動の組織的運動家としても奔走することになるのである。


極東反戦会議(上海反戦大会)発会式は1933年9月2日、右翼団体の激しい妨害のなかで行われた。発起人となったのは秋田雨雀・江口渙・佐々木孝丸・水野広徳・加藤勘十等ではある。しかし、同会は警視庁に襲撃され、布施辰治・江口・加藤らが逮捕された。

《赤旗》は当初、この運動を支持していたものの、後には〈小ブル平和主義〉的運動として批判に転じた。
〔参〕『秋田雨雀日記』2巻、(1965)⇒1932[国]8.27.


当時すでに、スターリンとトロッキーの対立は公然たるものであったが、トロッキーもこの反戦大会には大きな関心を寄せていた。

トロッキーは、スターリニスト官僚が、平和主義者や改良主義者とともに反戦大会を開こうとしていることを批判した「反戦大会に関する手紙」で、
「スターリニスト官僚は、ドイツでは、改良主義者とのあらゆる統一戦線に反対しながら、国際的舞台では、ロマン・ロランやバルビュスを前面に立てる形で腐った統一戦線政策を進めようとしている」と批判した。

私はその批判的な内容よりも、そこで触れられているロマン・ロランやアンリ・バルビュスの活動の姿とともに、当時の日本に触れている部分に注目したい。

「記録文書および会議資料」(極東反戦大会コミンテルン第13回執行委員会総会)『資料集 コミンテルンと日本〈3(1933~1943)〉』 は未見。
 

極東反戦会議(上海反戦大会)発会式(1933年9月)に参加した・水野広徳について、
前坂俊之「忘れられた反戦の軍人・水野広徳」(2004年7月)は以下のように記している。

●「戦を好むものは皆亡ぶ」
一九三三年(昭和八)八月、「極東平和友の会」 の創立総会が開かれ、水野も出席たが、この会は右翼の妨害によって途中で中止になった。
 このてんまつを書いた『僕の平和運動について』という小冊子の中で、水野は「日本は今、世界の四面楚歌裡にある。いずれの国と戦争を開くとも、結局、全世界を相手の戦争にまで発展せずにはやまないと信ずる。日本の軍部の鼻息がいかに強烈でも、全世界相手の戦争の結果が何であるかは想像に難くない。世に平和主義者をもって、意気地なしの腰抜けとののしるものがある。テロ横行の今の日本において、意気地なくして平和主義者を唱え得るであろうか」
 時流に棹さし、きびしい平和主義、軍縮の為に自己の信条を貫いていた水野の無念さがにじんでいるが、この文章の最後に「悠々子、知己雀百年の後に待ち」との句がある。