9月下旬、多喜二は、麻布桜田町に一戸建てを借りてうつる。
この前後から、林房雄を代表とする分裂主義的言動への批判に力をそそぐ。
『プロレタリア文化』10月号に、評論「二つの問題について」
『プロレタリア文化』11・12月合併号に、評論「闘争宣言」〈10・24〉
『プロレタリア文学』12月号に、評論「右翼的偏向の諸問題」(3、4、5章)
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島村輝「「再考・「政治」と「文学」」より」、林房雄に触れる部分を以下に紹介。
http://blog.livedoor.jp/insectshima/archives/50318123.html
http://blog.livedoor.jp/insectshima/archives/50322444.html
激しさの度を加える弾圧の中で、良くも悪くもプロレタリア文学運動の理論的支柱であった蔵原が逮捕・投獄されてしまうと、プロレタリア文学運動に参加していた多くの作家・批評家たちの動揺が始まる。一時はプロレタリア作家を名乗ることで、原稿の依頼を得ていた作家たちも、時代の潮流が大きく軍国主義とファシズムの方向に傾斜し、それにともなってジャーナリズムのシフトも変わってきたことにより、次第に運動指導部との間に距離をとり始めるようになる。先述したように、一方では作家や批評家自身の身の上にも、検挙・投獄といった事態が直接に迫るようになるとともに、他方では運動指導部の側から「政治の優位性」論を前提にした、さまざまな活動要求が相次ぐようになる中で、一年九ヶ月ほどの獄中生活を終えて復帰した林房雄が投じた一石が、「政治と文学」論争の口火をきることとなったのである。
出獄してきた林は、当時のプロレタリア文学運動の情況の中で、自らの立場を「作家のために」(『東京朝日』32・5)、「文学のために」(『改造』32・7)、「作家として」(『新潮』32・9)などに立て続けに発表する。これらの文章の中での林の主張は、そのことば自体としてみれば、極めて一般的な事柄を述べているに過ぎない。「作家は、学者や政治家や新聞記者が見落として平気でいる現実の神秘な部分に侵入してそれを表現すべきである」とか、「全資料の総合としての歴史を書き上げたとしても、それだけでは作家として不十分であって、作家の任務はその彼方にある知恵や直感、すなわち『作者の目』が必要だ」とかといったような主張は、それが一人前の作家の筆で、宣言として堂々と書き付けられているといういささかの幼稚さを別にすれば、それ自体として特別な主張とはいえない。
しかしそれは一般的・常識的な事柄であるだけに、特権化された「文学主義」の立場を直接的に擁護する考え方であった。今日では、こうした林の主張が、言語表象が「文学」という形をとるためのさまざまな仕組みについての理論的構制への問題意識が欠落していると見えることは明らかであり、その「文学主義」のあまりの楽天性にむしろ驚くのであるが、「政治の優位性」論を主軸とする当時のプロレタリア文学運動の理論展開からすれば、こうした林のある意味で素朴な「文学主義」的主張も、大変危険なものとしてとらえられることになったのである。
なぜなら、それは素朴な「文学主義」であるがゆえに、コップの創作論と組織論の支柱を揺るがせ、理論的歯止めを自ら放棄して、軍国化とファシズムに対する防衛線をずるずると後退させていく結果を生むと危惧されたからである。そうした批判の先頭にたったのが、小林多喜二と宮本顕治であった。
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宮本百合子は、「解説『風知草』」で、当時を回顧している。
「乳房」について 「乳房」は一九三五年(昭和十年)三月に書かれた。発表されたのは中央公論四月号であった。 たいして長い小説ではないけれども、この作品がまとまるまでにはいろいろ当時としてのいきさつがあった。
そのいきさつのあらましは、一九三二年の三月下旬「日本プロレタリア文化連盟」にたいする弾圧があった時代にさかのぼって話されなければなるまい。それまでは「コップ」や「ナップ」で公然と文筆活動をしていた小林多喜二、宮本顕治その他の人々が、一九三二年三月以後はこれまでの活動の形をかえて、地下的に生活し働かなければならないようになった。
わたしも一九三二年四月七日に検挙されて六月十八日ごろまで、警察にとめられていた。小林多喜二、宮本顕治は不自由な生活と活動の条件にかかわらずどこかでずっと無事に暮していた。
同じ年の九月「コップ」の婦人協議会がそっくりつかまって、わたしはまた一ヵ月警察生活をした。 共産党の中央部が破壊を蒙った熱海事件がこの一九三二年十月にあり、そのころ共産党中央委員であった岩田義道が、検挙と同時に殺された。
翌一九三三年の二月二十日に小林多喜二が築地署で拷問のために虐殺された。つづいて、野呂栄太郎が検挙され、このひとは宿痾の結核のために拷問で殺されなくても命のないことは明白であると外部でも噂されている状態だった。
一九三三年は、日本の権力が、共産党員でがんばっている者は殺したってかまわない、という方針を内外にはっきりさせて行動した年であった。そして、一九二八年三月十五日、三・一五として歴史的に知られている事件のころから共産党の組織に全国的にはいりはじめていた警察スパイが、最もあからさまに活躍して、様々の金銭問題、拐帯事件、男女問題を挑発し、共産党員を破廉恥な行為へ誘いこみながら次から次へと組織を売っては殺させていた年であった。
そういう兇猛な雰囲気のなかで、良人である宮本顕治が地下的生活をしているということはわたしに一刻も安らかなこころを与えなかった。常に不安があった。ほんとに寝ても、醒めても。その上、夫婦の愛情をおとりにし、運動に習熟していない妻であるわたしをとおして、宮本顕治をとらえようと計画する企図も試みられた。自分の愛を最もたえがたい方法によって悪用されまいとするだけにも、絶間ない精神と肉体の緊張を必要とした。
一九三三年はこういう時期であった一面に、プロレタリア文学運動は最後的な紛糾状態におかれていた。林房雄その他の人々によって、それまでのプロレタリア文学運動の指導方針の政治的偏向ということが一方的に云いたてられ小林多喜二の虐殺によっておじけづいた人々が心理的にそれにどんどんまきこまれて行った。
丁度ソヴェト同盟では前年に第一次五ヵ年計画を完遂した結果、これまでのプロレタリア芸術理論を発展させるような社会条件がそなわって来て、従来の唯物弁証法的創作方法を、社会主義的リアリズムにおしすすめた。その社会主義的リアリズムの創作方法の理論は、不幸にして日本につたえられた時期が、そういうプロレタリア芸術運動の潰走期であったために、忽ち、これまでの日本プロレタリア芸術運動の方針を否定する便宜な口実として逆用された。蔵原惟人、小林多喜二、宮本顕治などの、既に当時は公然とした文化の場面で討論する自由を失わせられていた人々の努力をひたすら否定し、抹殺することで自身の保身法とするために、ソヴェトの社会主義的リアリズム論が歪めて援用された。これは一九三三年六月に佐野学、鍋山貞親を先頭とする「転向」の濁流の渦巻きとともにあらわれた。その有様のあさましさは今日の想像しにくい毒気をまきちらした。
もとより、一九三一――三年間の、日本におけるプロレタリア文化・芸術運動の方針が、それとしてきりはなして今日研究されたとき、指摘されるべきいくつかの論点があることは明白である。けれども、どういう社会現象も当時互に関連して動いていた諸事情の具体的な現実を綜合してしらべてみなければ、真実はつかめない。一九三三年代の所謂「政治的偏向」も、それに対する殆ど痙攣的だった保身的批判理論も、どちらも、十五年たったきょう顧みれば、日本の治安維持法の殺人的跳梁に影響された現象だった。当時の権力はまんなかに治安維持法の極端な殺人的操法をあらわに据えて、それで嚇し嚇し、一方では正直に勇敢だった人々を益々強固な抵抗におき、孤立させ、運動を縮みさせ、他面では、すべての平凡な心情を恐怖においたてて、根本は治安維持法に対するその恐怖心を、所謂指導者やその理論批判に集中表現させることで、進歩的戦列を崩壊させる手段としたのであった。 きょうより考えれば、あれほど残虐非道な治安維持法を嫌悪し、恐怖し、抵抗を感じるのは、当然だったと思う。人間なら、ああいう非人間的暴力には精神的にも肉体的にも堪えがたいと感じるのはむしろ自然である。しかし、こんにちの私たちにとって、一つの深刻適切な教訓がこの経験よりくみとられて来る。それは、将来どんなことがあっても人民的な立場のすべての人々は再び一九三三年代の素朴な誤りに陥ってはならないということである。すなわち、権力が悪用しようとするすべての悪法への嫌悪と、それにあくまで抵抗してゆく民主的理論についてゆくことをこわく思う個人の心とを、ごっちゃにして歴史の前進と自身の運命を混乱させてはならないという教訓である。
幸、この教訓は、きょうの人々の理性に生きた実感となって来ている。日本の、肉体で労働する人々、民主的作家をこめて精神で労働している人々が、一つとなって内外のファシズムと戦争に反対して立つ気風が顕著になって来ていることが、その証明である。
さて、こういうように、日本の社会史の上でも画期的な規模と深さとをもってまきおこされた混乱に処して、わたしはおさなく、しかし純粋な憤懣で焼かれるしか心の表現の方法を知らなかった。一九三三年一月の『プロレタリア文学』に発表された「一連の非プロレタリア的作品」という論文と、そののち同誌に発表された自己批判の文章とは、当時の政治的文学的混乱の大渦巻をリアルな背景として見て、はじめてその誤謬をも理解することができる性質のものである。作品批評の表現をとっているけれども、これはわたしの生きて体を流れ貫いている血が信じるに足りない者であることを次々に示してゆく、かつての仲間に対して、人間として妻として抗議しずにいられなかった絶叫であった。だから、批評の対象とされた作家は度はずれな尺度でものを云われ、そのことでプロレタリア文学の理論そのものまでふみやぶられていて後に自己批判を必要とされた次第であった。
一人の婦人作家がこういう荷にあまる歴史的な苦しさに焼かれて日々をすごしているとき、おちついたこころもちで、小説を書くということは不可能なことであった。おちつかないその心のままで書ける小説は発表され得なかった。「刻々」という題によって書かれた留置場生活の記録など。――それにもかかわらず小説はかかれなければならなかった。プロレタリア文学の方針が政治偏向で、小林多喜二のように作家を政治的な場面においこんで、才能を濫費させたという、本質的にはデマゴギッシュな団体内外の批判に対して事実で答える責任のある作家は一つでもいい作品を発表する必要があった。 「乳房」の第一の原稿はこの時期に準備された。一九三三年の夏、わたしは、幾度か荏原の労働者地区にあった無産者托児所へゆきそのぐるりのお母さんたちの生活にふれた。職場の人々との会合の、字では書いておくことのできなかった記録を整理した。そして八九十枚まで、小説としてかきはじめた。 ところが、それは小説にならなかった。