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「蟹工船」日本丸から、21世紀の小林多喜二への手紙。

小林多喜二を通じて、現代の反貧困と反戦の表象を考えるブログ。命日の2月20日前後には、秋田、小樽、中野、大阪などで集う。

1932年10月14日 『東京朝日新聞

2009-10-14 11:01:09 | takiji_1932
10/14日『東京朝日新聞』「赤色テロの新事実暴露 刑務所を武装襲撃 被告奪還の陰謀 当局極度に緊張す」の見出し「…武装動員による刑務所襲撃を計画各被告の奪還を計画、これがため武器の入手をいそいでいた事実が略明らかになり、当局も今更ながら愕然とし極度に緊張している。」

「多額の資金集めは重大陰謀計画が目的 彼等の真意略明瞭」

 西銀座8丁目都ビルにも 秘密本部を設置 党員を女事務員に仕立てて 官憲の目を欺く

 「赤色ギャング一味が川崎第百銀行大森支店襲撃のため設けた新橋駅前堤第一ビル五階の秘密本部は、十日彼等の自白によりてその実体を暴かれたが、十三日にいたりて彼等の本部が同所の外に京橋西銀座八丁目の都ビル五階にも設けられていたことが発覚、同日午後警視庁特高課の一隊が同ビルを襲い、彼等の秘密本部に当てられた五階の一室に殺到した。

 秘密本部は表のドアには太平洋図案部の看板がかかっており、室内には壁の通風口に置き忘れられた弾丸六発をはじめ立派なテーブルや高価な調度品が残されていた。彼等が犯行前豊富なる軍資金を擁してかかった陰謀なることを証明している。

 彼等が同ビルを借りたのは…(以下不明)…あった最初ここを足場に当てた彼等は同所を第一本部として更に兇行当日の六日新橋駅前の堤第一ビルに第二の本部を設二ケ所において陰謀を進めていたものである。

 尚用心深き彼等は両ビルの部屋を借りにくるやビル内の人に怪しまれぬため 即日美しい女事務員を一人づつ雇い入れたが特高課で捜査をすすめると 実はこの女事務員も女党員で かつ彼等と情交関係あることも分かった。

 同女らの下宿から赤旗や党機関紙等が発見された、あるいは富豪邸の女中にすみこんで邸内の様子を探った女党員の一員ではなかろうかというので 当局は目下しきりに両女の行方を捜査している。

1932年10月11日

2009-10-11 10:58:09 | takiji_1932
10/11日『東京朝日新聞』「銀行襲撃のギャング 全部三人捕縛さる 共産系が資金集めの犯行」

今泉善一は、小石川区原町147上野きく方をアジトに、雑誌記者西村と称して愛媛県出身の長谷部みゑ子20歳と同居していた。

1932年9月下旬 多喜二の林房雄批判の観点

2009-09-21 18:49:04 | takiji_1932

9月下旬、多喜二は、麻布桜田町に一戸建てを借りてうつる。

この前後から、林房雄を代表とする分裂主義的言動への批判に力をそそぐ。

 『プロレタリア文化』10月号に、評論「二つの問題について」

『プロレタリア文化』11・12月合併号に、評論「闘争宣言」〈10・24〉

『プロレタリア文学』12月号に、評論「右翼的偏向の諸問題」(3、4、5章)  

 

 

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島村輝「「再考・「政治」と「文学」」より」、林房雄に触れる部分を以下に紹介。

http://blog.livedoor.jp/insectshima/archives/50318123.html

http://blog.livedoor.jp/insectshima/archives/50322444.html

激しさの度を加える弾圧の中で、良くも悪くもプロレタリア文学運動の理論的支柱であった蔵原が逮捕・投獄されてしまうと、プロレタリア文学運動に参加していた多くの作家・批評家たちの動揺が始まる。一時はプロレタリア作家を名乗ることで、原稿の依頼を得ていた作家たちも、時代の潮流が大きく軍国主義とファシズムの方向に傾斜し、それにともなってジャーナリズムのシフトも変わってきたことにより、次第に運動指導部との間に距離をとり始めるようになる。先述したように、一方では作家や批評家自身の身の上にも、検挙・投獄といった事態が直接に迫るようになるとともに、他方では運動指導部の側から「政治の優位性」論を前提にした、さまざまな活動要求が相次ぐようになる中で、一年九ヶ月ほどの獄中生活を終えて復帰した林房雄が投じた一石が、「政治と文学」論争の口火をきることとなったのである。

 出獄してきた林は、当時のプロレタリア文学運動の情況の中で、自らの立場を「作家のために」(『東京朝日』32・5)、「文学のために」(『改造』32・7)、「作家として」(『新潮』32・9)などに立て続けに発表する。これらの文章の中での林の主張は、そのことば自体としてみれば、極めて一般的な事柄を述べているに過ぎない。「作家は、学者や政治家や新聞記者が見落として平気でいる現実の神秘な部分に侵入してそれを表現すべきである」とか、「全資料の総合としての歴史を書き上げたとしても、それだけでは作家として不十分であって、作家の任務はその彼方にある知恵や直感、すなわち『作者の目』が必要だ」とかといったような主張は、それが一人前の作家の筆で、宣言として堂々と書き付けられているといういささかの幼稚さを別にすれば、それ自体として特別な主張とはいえない。

しかしそれは一般的・常識的な事柄であるだけに、特権化された「文学主義」の立場を直接的に擁護する考え方であった。今日では、こうした林の主張が、言語表象が「文学」という形をとるためのさまざまな仕組みについての理論的構制への問題意識が欠落していると見えることは明らかであり、その「文学主義」のあまりの楽天性にむしろ驚くのであるが、「政治の優位性」論を主軸とする当時のプロレタリア文学運動の理論展開からすれば、こうした林のある意味で素朴な「文学主義」的主張も、大変危険なものとしてとらえられることになったのである。

なぜなら、それは素朴な「文学主義」であるがゆえに、コップの創作論と組織論の支柱を揺るがせ、理論的歯止めを自ら放棄して、軍国化とファシズムに対する防衛線をずるずると後退させていく結果を生むと危惧されたからである。そうした批判の先頭にたったのが、小林多喜二と宮本顕治であった。

                                                    ◆

宮本百合子は、「解説『風知草』」で、当時を回顧している。

 「乳房」について 「乳房」は一九三五年(昭和十年)三月に書かれた。発表されたのは中央公論四月号であった。  たいして長い小説ではないけれども、この作品がまとまるまでにはいろいろ当時としてのいきさつがあった。

そのいきさつのあらましは、一九三二年の三月下旬「日本プロレタリア文化連盟」にたいする弾圧があった時代にさかのぼって話されなければなるまい。それまでは「コップ」や「ナップ」で公然と文筆活動をしていた小林多喜二、宮本顕治その他の人々が、一九三二年三月以後はこれまでの活動の形をかえて、地下的に生活し働かなければならないようになった。

わたしも一九三二年四月七日に検挙されて六月十八日ごろまで、警察にとめられていた。小林多喜二、宮本顕治は不自由な生活と活動の条件にかかわらずどこかでずっと無事に暮していた。

同じ年の九月「コップ」の婦人協議会がそっくりつかまって、わたしはまた一ヵ月警察生活をした。  共産党の中央部が破壊を蒙った熱海事件がこの一九三二年十月にあり、そのころ共産党中央委員であった岩田義道が、検挙と同時に殺された。

翌一九三三年の二月二十日に小林多喜二が築地署で拷問のために虐殺された。つづいて、野呂栄太郎が検挙され、このひとは宿痾の結核のために拷問で殺されなくても命のないことは明白であると外部でも噂されている状態だった。

 一九三三年は、日本の権力が、共産党員でがんばっている者は殺したってかまわない、という方針を内外にはっきりさせて行動した年であった。そして、一九二八年三月十五日、三・一五として歴史的に知られている事件のころから共産党の組織に全国的にはいりはじめていた警察スパイが、最もあからさまに活躍して、様々の金銭問題、拐帯事件、男女問題を挑発し、共産党員を破廉恥な行為へ誘いこみながら次から次へと組織を売っては殺させていた年であった。

  そういう兇猛な雰囲気のなかで、良人である宮本顕治が地下的生活をしているということはわたしに一刻も安らかなこころを与えなかった。常に不安があった。ほんとに寝ても、醒めても。その上、夫婦の愛情をおとりにし、運動に習熟していない妻であるわたしをとおして、宮本顕治をとらえようと計画する企図も試みられた。自分の愛を最もたえがたい方法によって悪用されまいとするだけにも、絶間ない精神と肉体の緊張を必要とした。

 一九三三年はこういう時期であった一面に、プロレタリア文学運動は最後的な紛糾状態におかれていた。林房雄その他の人々によって、それまでのプロレタリア文学運動の指導方針の政治的偏向ということが一方的に云いたてられ小林多喜二の虐殺によっておじけづいた人々が心理的にそれにどんどんまきこまれて行った。

丁度ソヴェト同盟では前年に第一次五ヵ年計画を完遂した結果、これまでのプロレタリア芸術理論を発展させるような社会条件がそなわって来て、従来の唯物弁証法的創作方法を、社会主義的リアリズムにおしすすめた。その社会主義的リアリズムの創作方法の理論は、不幸にして日本につたえられた時期が、そういうプロレタリア芸術運動の潰走期であったために、忽ち、これまでの日本プロレタリア芸術運動の方針を否定する便宜な口実として逆用された。蔵原惟人、小林多喜二、宮本顕治などの、既に当時は公然とした文化の場面で討論する自由を失わせられていた人々の努力をひたすら否定し、抹殺することで自身の保身法とするために、ソヴェトの社会主義的リアリズム論が歪めて援用された。これは一九三三年六月に佐野学、鍋山貞親を先頭とする「転向」の濁流の渦巻きとともにあらわれた。その有様のあさましさは今日の想像しにくい毒気をまきちらした。

  もとより、一九三一――三年間の、日本におけるプロレタリア文化・芸術運動の方針が、それとしてきりはなして今日研究されたとき、指摘されるべきいくつかの論点があることは明白である。けれども、どういう社会現象も当時互に関連して動いていた諸事情の具体的な現実を綜合してしらべてみなければ、真実はつかめない。一九三三年代の所謂「政治的偏向」も、それに対する殆ど痙攣的だった保身的批判理論も、どちらも、十五年たったきょう顧みれば、日本の治安維持法の殺人的跳梁に影響された現象だった。当時の権力はまんなかに治安維持法の極端な殺人的操法をあらわに据えて、それで嚇し嚇し、一方では正直に勇敢だった人々を益々強固な抵抗におき、孤立させ、運動を縮みさせ、他面では、すべての平凡な心情を恐怖においたてて、根本は治安維持法に対するその恐怖心を、所謂指導者やその理論批判に集中表現させることで、進歩的戦列を崩壊させる手段としたのであった。  きょうより考えれば、あれほど残虐非道な治安維持法を嫌悪し、恐怖し、抵抗を感じるのは、当然だったと思う。人間なら、ああいう非人間的暴力には精神的にも肉体的にも堪えがたいと感じるのはむしろ自然である。しかし、こんにちの私たちにとって、一つの深刻適切な教訓がこの経験よりくみとられて来る。それは、将来どんなことがあっても人民的な立場のすべての人々は再び一九三三年代の素朴な誤りに陥ってはならないということである。すなわち、権力が悪用しようとするすべての悪法への嫌悪と、それにあくまで抵抗してゆく民主的理論についてゆくことをこわく思う個人の心とを、ごっちゃにして歴史の前進と自身の運命を混乱させてはならないという教訓である。

幸、この教訓は、きょうの人々の理性に生きた実感となって来ている。日本の、肉体で労働する人々、民主的作家をこめて精神で労働している人々が、一つとなって内外のファシズムと戦争に反対して立つ気風が顕著になって来ていることが、その証明である。

  さて、こういうように、日本の社会史の上でも画期的な規模と深さとをもってまきおこされた混乱に処して、わたしはおさなく、しかし純粋な憤懣で焼かれるしか心の表現の方法を知らなかった。一九三三年一月の『プロレタリア文学』に発表された「一連の非プロレタリア的作品」という論文と、そののち同誌に発表された自己批判の文章とは、当時の政治的文学的混乱の大渦巻をリアルな背景として見て、はじめてその誤謬をも理解することができる性質のものである。作品批評の表現をとっているけれども、これはわたしの生きて体を流れ貫いている血が信じるに足りない者であることを次々に示してゆく、かつての仲間に対して、人間として妻として抗議しずにいられなかった絶叫であった。だから、批評の対象とされた作家は度はずれな尺度でものを云われ、そのことでプロレタリア文学の理論そのものまでふみやぶられていて後に自己批判を必要とされた次第であった。

  一人の婦人作家がこういう荷にあまる歴史的な苦しさに焼かれて日々をすごしているとき、おちついたこころもちで、小説を書くということは不可能なことであった。おちつかないその心のままで書ける小説は発表され得なかった。「刻々」という題によって書かれた留置場生活の記録など。――それにもかかわらず小説はかかれなければならなかった。プロレタリア文学の方針が政治偏向で、小林多喜二のように作家を政治的な場面においこんで、才能を濫費させたという、本質的にはデマゴギッシュな団体内外の批判に対して事実で答える責任のある作家は一つでもいい作品を発表する必要があった。 「乳房」の第一の原稿はこの時期に準備された。一九三三年の夏、わたしは、幾度か荏原の労働者地区にあった無産者托児所へゆきそのぐるりのお母さんたちの生活にふれた。職場の人々との会合の、字では書いておくことのできなかった記録を整理した。そして八九十枚まで、小説としてかきはじめた。  ところが、それは小説にならなかった。


『独房』の文学的価値、政治的価値? (ザーケリー)

2009-09-18 09:53:30 | takiji_1932
今日は
日本文学をペルシャ語に翻訳しているザーケリーです。

今、日本の短編小説集をペルシャ語に翻訳中です。一つの短編小説として小林多喜二の『独房』を翻訳したいと思います。

『独房』は文学的価値ありますか?
政治的価値がありますか?

この質問にお返事くれたら幸いです。

1932年の「党生活者」の闘争の焦点

2009-09-18 03:09:55 | takiji_1932
中国侵略の最初の中心部隊となった関東軍は、日本が日露戦争のあとロシアから遼東半島南部の租借地を取り上げてこれを「関東州」と呼んで日本の支配下においた。

1919年ここに天皇に直結した軍隊として「関東軍」をおき、関東州の防衛とロシアから譲り受けた南満州鉄道の保護にあたらせた。

この関東軍は、発足当時の公式の任務を越えて、満州(中国の東北部)から華北(北京、天津をふくむ中国の北部)、モンゴル内蒙古)にまで政治・軍事工作の手をのばし、中国にたいする侵略を拡大する中心部隊となった。

関東軍は、「北伐」を口実に山東出兵していたが、蒋介石の国民政府軍の軍事クーデターのあと、「北伐」再開を宣言して、揚子江をこえて華北への進撃を開始したとき、日本は、在留する日本人の安全のための「自衛」措置だと称して、ただちに山東省の青島(ちんたお)に関東軍の一部を派遣した(山東出兵・27年5月)。

これは、中国に租借地や権益をもつ「外国勢力」のなかでも突出した行動であった。日本軍の山東省出兵は一回にとどまらず、翌28年4月、5月と3回にわたってくりかえされ。

とくに第三次の出兵では、総攻撃で山東省の首都済南市をほとんど壊滅させた。この乱暴な軍事行動は、中国の人民のあいだに「排日」の気運を一気にひろげ、日本軍の暴虐ぶりは世界でも有名なものとなった。


「満蒙生命線」論を国策に、、日本は早くから満州とモンゴル(内蒙古)の地域を侵略の第一の対象地域としてねらっていた。

第一次山東出兵のさなかの1927年6月〜7月に、田中義一首相(陸軍大将)の主宰で「東方会議」が開かれ、「対支〔中国〕政策綱領」が指示されたが、ここでは、“「満蒙」地方は日本の国防上も国民的生存の上でも重大な利害関係のある地方だから、この地方における日本の「既得権益」「特殊権益」を確保するためには、必要な場合、軍事行動も辞さない覚悟をする必要がある”と、強調した。

日本政府は、中国の領土である「満蒙」を日本の支配下におくことを、公然と日本の国策とするにいたったのだった。

日本は最初満州支配をねらって、当時満州の軍閥の一人で力をもっていた張作霖(ちょうさくりん)を味方につけて支配の手をひろげるつもりで、いろいろ工作したものの、張作霖がそう簡単には日本の言いなりにならないことがわかると、一転して関東軍は秘密工作で張作霖を消すことにし、1928年6月張作霖が乗っていた列車が通る線路に爆弾をしかけ爆殺してまった(この真相が明らかになったのは、戦後)。

しかし、父のあとを継いだ張学良が、国民党政権の一翼をになう立場をとったので、爆殺によって満州の実権をにぎるという関東軍の思惑は成功しなかった。

 中国人民の抗議と怒りが日本のこの帝国主義的行動に集中したのは、あまりにも当然のことで、日本の侵略行動は、その他の「外国勢力」が「不平等条約」によって租借地などの「権益」をもっていたこととは、まったく比較にならない中国の主権と独立にたいする野蛮な攻撃だったのである。

日本の中国侵略が公然と侵略戦争の形で展開したのが、1931年に始まった満州事変だった。

「満州事変」は、1931(昭和6)年9月18日午後10時20分ごろ、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖(りゅうじょうこ)で、満鉄の線路が爆破される事件が発生した。

関東軍はこれを中国側のしわざだとして、ただちに満鉄沿線都市を占領した。しかし実際は、関東軍がみずから爆破したものだった(柳条湖事件)。

これが「満州事変」の始まりである。この満州事変は、日本政府の方針とは無関係に日本陸軍の出先の部隊である関東軍がおこした戦争だった。政府と軍部中央は不拡大方針を取ったが、関東軍はこれを無視して戦線を拡大して全満州を占領した。満州事変は、まさに謀略で世界をあざむきながら全満州を占領したという戦争であった。

「柳条湖事件」と呼ばれる線路爆破事件が、関東軍のしわざであることは、軍の中央部はもちろん、政府のあいだでも、秘密のことではなかったのだ。
  
天皇制政府はこの機に、特高によって共産党中央委員になりおおしたスパイM、松村(本名飯塚延盈)を使って、共産党を壊滅するため銀行ギャング事件を引き起こさせ、その罪を共産党指導部になすりた。

この結果、10月末から12月下旬にかけて、共産党員の検挙が頻々と相次ぎ、検挙者は1500人を超えた。

それでも、残された少数のメンバーは、共産党中央部の再建のために、過酷な闘争を続けていた。こうしたこともあって、作家同盟指導部内部にも右翼的偏向の潮流が強まっていった。
 多喜二は「右翼的偏向の諸問題」「続右翼的偏向の諸問題」などの評論を連続して執筆し、文学・文化運動の階級的発展の指導に献身していた。

蔵原惟人をモデルとした「ヒゲ」を描いた「党生活者」

2009-09-18 03:02:30 | takiji_1932
党生活者
小林多喜二



       一

 洗面所で手を洗っていると、丁度窓の下を第二工場の連中が帰りかけたとみえて、ゾロ/\と板草履(ぞうり)や靴バキの音と一緒に声高な話声が続いていた。
「まだか?」
 その時、後に須山が来ていて、言葉をかけた。彼は第二工場だった。私は石鹸(せっけん)だらけになった顔で振りかえって、心持眉(まゆ)をしかめた。――それは、前々から須山との約束で、工場から一緒に帰ることはお互避けていたからである。そんな事をすれば、他の人の眼につくし、万一のことがあった時には一人だけの犠牲では済まないからであった。ところが、須山は時々その約束を破った。そして、「やアあまり怒るなよ」そんなことを云(い)って、人なつこく笑った。須山はどっちかと云えば調子の軽い、仲々愛嬌(あいきょう)のある、憎めないたちの男だったので、私はその度に苦笑した。が、今は時期が時期だし、私は強(き)つい顔を見せたのである。それに今日これから新しいメンバーを誘って、何処(どこ)かの「しるこ屋」に寄る予定にもなっていた……。が、フト見ると、ひょウきんな何時(いつ)もの須山の顔ではない。私はその時私たちのような仕事をしているものゝみが持っているあの「予感」を突嗟(とっさ)に感じて、――「あ直(す)ぐだ」と云って、ザブ/\と顔を洗った。
 相手にそれと分ったと思うと須山は急に調子を変えて、「キリンでゞも一杯やるか」と後から云った。が、それには一応何時(いつ)もの須山らしい調子があるようで、しかし如何(いか)にも取ってつけた只(ただ)ならぬさがあった。それが直接(じか)に分った。
 外へ出ると、さすがに須山は私より五六間先きを歩いた。工場から電車路に出るところは、片方が省線の堤で他方が商店の屋並に狭(せば)められて、細い道だった。その二本目の電柱に、背広が立って、こっちを見ていた。見ているような見ていないようなイヤな見方だ。私は直(す)ぐ後から来る五六人と肩をならべて話しながら、左の眼の隅(すみ)に背広を置いて、油断をしなかった。背広はどっちかと云えば、毎日のおきまり仕事にうんざりして、どうでもいゝような物ぐさな態度だった。彼等はこの頃では毎日、工場の出(で)と退(ひ)けに張り込んでいた。須山はその直ぐ横を如何にも背広を小馬鹿にしたように、外開(そとびら)きの足をツン、ツンと延ばして歩いてゆく。それがこっちから見ていると分るので、可笑(おか)しかった。
 電車路の雑沓(ざっとう)に出てから、私は須山に追いついた。彼は鼻をこすりながら、何気ない風に四囲(まわり)を見廻わし、それから、
「どうもおかしいんだ……」
と云う。
 私は須山の口元を見た。
「上田がヒゲと切れたんだ……!」
「何時(いつ)だ[#「何時(いつ)だ」は底本では「何時だ(いつ)」]?」
 私が云った。
「昨日。」
 ヒゲは「予備線」など取って置く必要のない男だとは分っていたが、
「予備はあったのか?」と訊(き)いた。
「取っていたそうだ。」
 彼の話によると、昨日の連絡は殊(こと)の外重要な用事があり、それは一日遅れるかどうかで大変な手違いとなるので、S川とM町とA橋この三つの電車停留所の間の街頭を使い、それもその前日二人で同じ場所を歩いて「此処(ここ)から此処まで」と決め、めずらしいことにはヒゲは更に「万一のことがあったら困る」というので、通りがかりに自分から安全そうな喫茶店を決め、街頭で会えなかったら二十分後に其処(そこ)にしようと云い、しかも別れる時お互の時計を合せたそうである。「ヒゲ」そう呼ばれているこの同志は私達の一番上のポストにいる重要なキャップだった。今迄(まで)ほゞ千回の連絡をとったうち、(それが全部街頭ばかりだったが)自分から遅れたのはたった二回という同志だった。我々のような仕事をしている以上それは当然のことではあるが、そういう男はそんなにザラには居なかった。しかもその二回というのが、一度は両方に思い違いがあったからで、時間はやっぱり正確に出掛けて行っているのである。モウ一度はその日の午後になってから時計に故障があったことを知らなかったからであった。他のものならば一度位来ないとしても、それ程ではなかったが、ヒゲが来ない、予備にまで来ないという事は私達には全たく信ぜられなかった。
「今日はどうなんだ?」
「ウン、昨日と同じ処(ところ)を繰りかえすことになってるんだって。」
「何時だ。」
「七時――それに喫茶店が七時二十分。で俺はとにかくその様子が心配だから、八時半に上田と会うことにして置いた。」
 私は今晩の自分の時間を数えてみて、
「じゃ、オレと九時会ってくれ。」
 私達はそこで場所を決めて別れた。別れ際に須山は「ヒゲがやられたら、俺も自首して出るよ!」と云った。それは勿論(もちろん)冗談だったが、妙に実感があった。私は「馬鹿」と云った。が彼のそう云った気持は自分にもヨク分った。――ヒゲはそれほど私たちの仲間では信頼され、力とされていたのである。私達にとっては謂(い)わば燈台みたいな奴だと云っても、それは少しも大げさな云い方ではなかった。事実ヒゲがいなくなったとすれば、第一次の日からして私達は仕事をドウやって行けばいゝか全く心細かった。勿論(もちろん)そうなればなったで、やって行けるものではあるが。――私は歩きながら、彼が捕(つか)まらないでいてくれゝばいゝと心から思った。


天皇の野獣的拷問に 鉄の沈黙を以て答える 同志蔵原惟人

2009-09-17 23:59:51 | takiji_1932
7月30日付『赤旗』第87号は、
「天皇の野獣的拷問に 鉄の沈黙を以て答える 同志蔵原惟人」と題し「プロレタリア文化教育運動の輝ける指導者である同志蔵原惟人は四月四日に憎むべき敵の陣営に奪われてから(支配階級は同志蔵原が吾党の中央委員長であり)吾党が「文士や小ブルジョアによって構成されている」と云ふとてつもないデマゴーグを飛ばし「党壊滅す」と宣伝した。(略)富坂署、警視庁、品川署、大井署と二十九日に蒸し返へされつつ、今尚残忍極まる白テロのもとに置かれてゐる。

同志蔵原は「知らん」「それは違ふ」のたった一言でもって組織を死守し続けてゐるぞ。憎んでも飽きたらない警視庁のスパイ共は(警部補福田がその指揮者だ。此奴の名を忘れるな!)」

多喜二は品川留置場にいる蔵原の情報をよく把握していた。

※蔵原検挙の手引きは、スパイMだといわれている。

               ◆
宮本百合子
「一九三二年の春」に、
蔵原検挙前後が描かれているので、以下に紹介する。


 ---------------------------------------------------------------       
四月十一日頃であった。朝九時頃、便所へ行きがけに保護室の角を曲ろうとしたら、第一房の錠が開く音をききつけて、待ちかねていたらしく、今野大力がすっと金網ぎわで立ち上り、
「蔵原がやられた」と囁(ささや)いて坐った。
「いつ?」
「二三日前らしい」
 このニュースから受けた印象は震撼的なものであった。帰りしなに、
「ひとりでやられたの?」と訊いて見た。
「そうらしい。しかし分らないよ」

 今野の、口の大きい顔は、そういいながら名状出来ない表情である。わたしは蔵原惟人には個人的に会ったことはない。けれども、日本におけるプロレタリア文学運動の発展の歴史と彼の業績とが、切っても切りはなせない関係にあることは、プロレタリア文学について一言でも語るものは一人残らず知っている事実である。日本におけるプロレタリア文学運動の当初から、その当時にあった客観的条件を、マルクス主義芸術理論家としての立場からたゆまず積極的にとりあげ、階級的文化運動を押しすすめて行った彼の努力は普々(なみなみ)ならぬものであった。

蔵原惟人自身の芸術理論家としての発展の跡を辿って見ても彼が生活態度そのもので混り気ないマルクス主義者であったことは明らかである。彼は書斎的に、実践とは分裂させてソヴェト同盟のプロレタリア芸術論を日本に翻訳し紹介したのではなかった。解放運動の一環としてのプロレタリア文化運動、芸術運動を、常に革命運動の全体性との関係において実践して行きつつ、客観的現実に対する正しい政治的把握から芸術理論の発展の萌芽を敏速にとらえ、その展開、押しすすめのためにあらゆる国際的な経験を精力的に摂取し、批判し、具体的な文化闘争の実践の中に活かした。

だから芸術理論家としての蔵原惟人は、日本におけるプロレタリア解放運動全体の必然的発展とともにその前衛として発展している。資本主義日本における激化した階級対立と、その革命性の見とおし、その政治的方向を国際的見地からはっきり掴んでいたからこそ、同志蔵原はプロレタリア文化闘争において頼もしい実践的理論的指導者であり得た。彼が一九三一年六月の「ナップ」に古川荘一郎という筆名でのせた「プロレタリア芸術運動の組織問題」及八月同誌掲載の「芸術運動の組織問題再論」等の論文の検討をとおして、作家同盟の画期的な方向転換が行われ、文学の基礎が工場、農村の「真にプロレタリア的な基礎」におかれるようになり、サークル活動が勤労大衆の生活にくい入るようになった。

 蔵原惟人はすべての革命的勤労大衆に親しい存在であった。
 アンペラ草履をあっち向きにそろえて脱いで、後じさりに監房へ入る顔の前で、看守はガチャリ錠をおろした。だがわたしは坐らず、両手をうしろに組んで、穢い、つめたい羽目板にもたれて立ちながら、感動に満たされた心持であった。

 このようにしてわれわれは鍛えられていく。何よりもその感じが深くあった。敵は中野重治を奪い、窪川をとらえ、壺井繁治をとらえ、蔵原までひっとらえて活動を妨害する。が、それで日本の湧き上るプロレタリア革命とその文化的欲求が根だやしに出来るとでもいうのだろうか。例えばわたしひとりについてみてさえも、この暴圧はプロレタリア婦人作家としての新たな決意を与えるにすぎない。みんながそうだ。プロレタリアの世界観をもつ者は敵の襲撃をも、それを受けた以上は必ず発展的に摂取する。闘いを通して、中野重治はさらに確乎たる革命詩人と成長するであろう。村山知義も鋭さを加えるであろう。

捕えられた同志に代って、新たな部署についた同志たちは、また複雑な闘争を経て急速に政治的にも文学的にも発展せずにはいられない。このように敵が集中した襲撃を加えて来ることは、とりも直さずプロレタリア文化運動の拡がりと深さを意味するのだから、やがて工場、農村のプロレタリア文学通信員の中から、じりじり優秀な革命的芸術家が出て来るだろう。敵はこの力を止めることが出来るか? プロレタリアなしで彼らの資本主義生産が一日でもやって行けるか? 彼等が半封建的な資本主義的・地主的権力である限り、プロレタリアはプロレタリアであることをやめない。闘争をやめぬ。資本主義の矛盾はここにも現れて、数人の前衛をうばったことは、逆にこれの何倍かの活動家たちを生み出す結果となっているのだ。

 洋々とした確信が胸にみち、自分は思わず立ったまま伸びをし、空に向いて笑った。声を出さず、ひろく唇をほころばして順々に笑った。
 午後二時ごろになると、特高係が留置場へやって来てわたしを出し、二階の一室へつれ込んだ。墨汁だの帳簿だのの、のっかっていたテーブルの向う側に、黒い背広を着、顔の道具だてがみんな真中に向ってすり詰ったような表情の警視庁の特高が腰かけている。

 帝大の学生の東というのを知っているだろう。その学生は青年同盟の出版物へわたしの原稿を貰っているのだといった。
「そんな学生は知らない。またそんな原稿もきいたこともない」
「そんなことはないでしょう。現にあなたの家へ行ってつかまっているんですよ」
 目を凝(じっ)と据え、癖のある嘲弄的な口元で、しつこく繰返した。


押し問答の後、その特高は書類鞄の口をあけ、数枚の写真をとり出した。手札形の大さで、髪にコテをあてた派手な若い女の写真などがある中から一枚ぬき出して、
「これを知っているでしょう」
と、こっち向きにして見せた。大島らしい対の和服で、庭木の前に腕組みをして立っている三十前後の男の七分身である。色白で、おとなしい髭(ひげ)が鼻の下にある。――
「――誰です?」
「知ってるでしょう」ニヤニヤしている。
「知らない」
「そんな筈はない」
「だって、知らないものは仕方がありませんよ」
「――知らないかナ。蔵原ですよ」
 
わたしは我知らず顔を近づけ、さらに手にとりあげてその写真を見た。洋服姿の古い写真をいつか見た覚えはあるが、こんなのは初めてであり、本物かどうかさえよく分らない。写真の裏をかえして見たら、白いところに蔵原惟人、当年三十二歳と書いてある。
「つかまったんですか?」
「あんなに新聞にデカデカ書き立てたじゃないですか」
「新聞なんか見せないから分らない。――見せて下さいな、それを」
「見せてもいいですが」

 そういうぎりである。特高は椅子から立とうともせず、モスクワで会っているだろうなどといった。それにしても、一体この蔵原の写真は、どこでどんな時撮ったものだろう。わたしはもう一遍その写真を見直しながら、
「この写真、どこでとったんですか」と訊いた。
「捕まると直ぐとったんだ」
「うちで?」
 
特高は曖昧に合点のようなことをした。彼らが同志たちをその家へ捕えに行くとき、あらゆる武器をもってゆくことは聞いているが、写真班を同伴していったという話は、ついぞ聞かない。

 警察で写真をとられる。そうだとするとこの蔵原の写真の背景は妙だと思った。閑静そうな庭の様子が納得出来ない。どうして庭らしいところでとった写真があるのだろう? みているうちに疑はますます深くなり、口の中が渋いような、いやな心持になってきた。誰が、いつ、この写真をとった? 蔵原は果してこの写真がこんなところにあることを知っているだろうか。留置場へ戻されがけに特高は後について段階子(だんばしご)を下りて来ながら、

「着物をきましたね、その方がいい。長くなるから」
といった。わたしには見当のつかないその東という学生のためだということだ。印袢纏をきてゴム長をはいた弁当屋の若衆が、狭い段階子の中途で立って待っている。そこのところに「階段の昇降は静粛にすべし。司法室」と書いた貼紙が、角のめくれたところに塵をかぶってはりつけられている。

1932年 「赤旗」文化部長・小林多喜二

2009-09-17 23:57:04 | takiji_1932
●今野良蔵は「産労を支えた人々」(「運動史研究2」三一書房 78)で当時の赤旗の編集部について証言している。

「赤旗は昭和七年四月一日から活版印刷になります。私は前年十一月の岡部逮捕ノ翌日、検挙を逃れるため産労を離れて地下にもぐり、都内や湘南方面を点々としたあと、暮れも押し迫ったころに都内に戻り、年を越す。(だが、どうもその間、あまりまがなかったので、あれこれ考えると、産労を出たのは十一月ではなく十二月、それも半ば過頃だったようですな。)

そして一月半ば過ぎから「第二無新」に入り、同紙の赤旗へ移り、十二月九日の検挙まで赤旗にいました。僕らの頃の編集局は三村亮一、水野秀夫、石井東一と僕の四人から成っていて、毎週一回,会議をやりました。

この名前は本名で水野のほかは後で知ったのだが、変名は三村、水野はなんといったか忘れたが、石井は藤原、僕は細田です。三村君は岡山六高から京大の英文科か何かで、後に、大杉栄事件で有名な甘粕正彦憲兵大尉が理事長をしていた満州映画協会に行き、敗戦後は八路軍に投じ林彪の顧問格で活躍、中国で亡くなったが、なかなの美男で気のやさしい人だった。水野君は僕と一緒に捕まったが早く亡くなり、石井君は府立三中から拓大と聞いたがいまも元気です。

三村は党中央との連絡役というか編集長代理みたいなもので、編集長はいろんな状況からみて岩田義道じゃなかったかと思いますね。というのは、われわれが何か聞いても三村は即答しないで、いつも上に聞いてとくるいってたし、僕なんかも何か問題があると、よく岩田に会ってたから。三村は編集方針を伝えたり、また中央に集まった資料などを我々に渡していた。

水野は労働部、石井は政治部、僕は農民部の担当で、それぞれ担当の紙面をつくったが、農民部にも何人かの助手、その中には諸君や八沢之明君、さっきいった山崎君などもいて、ニューズや資料を集めてくれた。しかしそれがいつもすくなくて困った覚えがある。

ほかにもいろんな部があったと思うんですが、その一つに文化部があって、担当は小林多喜二でした。ただ小林多喜二は著名人で顔も知られているから会議には出さない方針で、その連絡には僕が当たっていました。僕は彼とたいていは麻布十番の山本屋果物店、いまは一の橋のところにあるが、その頃は十番街の中ほどにあって、そこの喫茶室で会ってました。

ご承知のように小林さんは、秋田生れの小樽生育ちでズーズー弁、私も生れがズーズー弁、そこにお互いそこはかない親近感があってね。それに彼はまたなかなか快活な人なんですよ。だからそういう際でも彼と会うのはとても楽しかったですなあ。

一度夏だったが、この時間なら誰もおるまいと思って十時ごろ入っていくと、思いもかけず彼がいて、誰かお婆さんと話していた。知らん顔していると席を立ってきて、「僕の母なんだよ、ちょっと来て、多喜二は元気だから心配するなといってくれよ」というので、お母さんに挨拶したことがあった。

彼は僕に会った後は、いつも宮本(顕治)、秋笹(正之輔)の両君と会うことになっていたらしく、「これから宮本と秋笹に会うんだよ」といっていましたな。彼とはその年の二月か三月頃から、僕が検挙されるあたりまで会っていたと思います。」

手塚英孝「小林多喜二の思い出」

2009-09-17 23:52:37 | takiji_1932
手塚英孝「小林多喜二の思い出」1947 日本評論社)
●「四月の半ば頃のことであったろうか、よい天気で、風のある日であった。春日町附近のある汁粉屋で、Mと私は、その日初めて落ち合うことになっていた小林を待っていた。まもなく、硝子ごしに大いそぎで肩をふりながら歩いて来る彼の姿がみえた。ねずみ色の背広をきて、ロイド眼鏡をかけた妙にかわった格好をみると、私たちは笑い出してしまった。その頃、私たちは追及をまぬずれる一つのほうほうとしてそれぞれため趣向をこらして急ごしらえの変装をしていた。眼鏡をかけたり、ちょび髭をたてたり、ある者は羽織袴で、口髭をのばして、田舎の村長のような様子をしていた。

彼は大風の中を走ってきた子供のように大元気で、いくらかはしゃいでいるようにみえた。それまで私達は背広姿の小林を見たことがなかったので、よい服が手に入ったと云って、彼の洋服姿を珍しがると、「ん、Nが、きる時がくるからしまって置けといったが、とうとうやってきたな。」と笑いながら、私達それぞれの変装ぶりを可笑しがって笑った。

笑うと、彼の大きな間に合わせのロイド目鏡が、段々、特徴のある大きな鼻の上にずり下がってくるので、その様子も可笑しかったし、ズボンのバンドの代わりに赤い細紐を使っているのをみつけて「立派な紳士ができた」といって、私達は大笑いした。

当時、作家同盟の書記長であった小林は、その年の五月に予定されていた同盟五回大会の一般報告の執筆のために、自宅を離れていて、幸い逮捕をまぬがれたのであったが、彼も亦、追求を受けていることを知りながら、約一カ月の間、大きな混乱の中で、どこかで落ち着いて立派な報告書を書き上げたのち、初めて非合法の状態になっていた私達と一緒になったのであった。」

※Mは、宮本顕治、Nは中野重治。