見島人(Mishiman)


山口県最北端・・萩市見島の住人~ふるさと日記。

見島にとってうれしい漂流物

2014年01月07日 | 日記

見島の周囲は五里に足らないが、時として海からの珍しい贈り物が届いたりする。

先ずは、波が起きて潮が運んだ例としての私の経験は2例あります。

ひとつは、積み荷のメリケン粉が大量に流れ着き、どこのお宅もかなり長い間うどんやすいとんが続いてました。

うどん嫌いになった子が多くなったことは言わずもがなです。。

もうひとつは、はっきり憶えています。横文字の缶ビールとひげ剃りクリームのスプレー缶が磯の至る所に流れ着いてました。

子供の私たちには無用の長物で、ただただ拾っては開けたり出したりの単純遊びに終わってました。

もっといい物が流れてこないかと願ったものです。

昭和50年代の初めから後半近くまでは、年末や大寒の頃に急激な寒波が押し寄せて来たことが間々ありました。

当時は、ややお天気情報も今ほど正確じゃなかったので人も魚も心の準備が出来なかった所為か、高級魚のアラや鯛、

カワハギの他、いろいろな近海魚種がプカプカ浮いたことがありました。

これこそ濡れ手に粟とか、「漁夫だけの利」とか言えるんじゃないかと思うが海の神様もそう甘くはなかった。そうはない。

それでも、知り合いの方は寒が入ると必ず朝イチ海岸チェックに行っては、「今日も鯛が寄ってた」とか聞きました。

やっぱり早起きしなくちゃいけないな。

島根の中海近隣で仕事していたことがあります。

同じような寒の入りで、1回目は背中に舟が入っている短足の甲イカが大量に岸に打ち上げられたことがありました。

ウミネコとの奪い合いでしたが、すぐにバケツいっぱい採れました。分厚くて干物にも適さない上に、当時は食い方も

ろくに知らないしもったいなかったなぁ。と、たらればの世界です。

これに味を占めて、一度あることは二度ある、地元では青手と呼ぶカニ(本来夏が旬)が、これまた大量に寄ってきました。

こちらはまだ生きていて、浅いところで泳いだりしてましたね。

あちらでは安くはないカニですが、甲羅も堅く身が少ないし、汁物に向きだから独身のわれわれにはたくさん要らなかった。

それからも次は何かとちょくちょく点検してましたが、さすガニ仏の三度はありませんでした。

見島も同様なので、たぶん温暖化が進んだのか、彼らが学習して耐力を付けたのか。

はたまた天気情報入手が上手くなって、保身本能がはたらいているのかも知れない。

魚も賢くなってきているのでしょう、同じ手は食わないし食われない。

そのうち、南国育ちの魚種が、一帯を占めてカラフルになるのも遠くはないかも知れない。

対馬海峡辺りを封鎖しなくては、日本海が「美ら海」とかになりそう!?

  初日の出(出港)

         何か海からの恵みが...?有りそうな予感!

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見島、そして漁

2014年01月07日 | 日記

昨年は、師走に入って漁師は時化のため、沖や海士(素潜り)漁に出られる機会が少なかった。

冬の山陰・日本海の厳しい寒波到来が例年になく早く、稼ぎ時を逸した感じとなった。

自然相手のこれが偽らざる過酷な現状です。

記録によると、1704年頃から見島と言うか県下の沿岸では、魚ではなく鯨漁が始まり盛んだったそうな。

以前は見事な松林だった海端の高見山頂上には、鯨を供養する鯨塚がわずか6年で95本建立とあり、相当な数だったに違いない。

明治に近づくと、長門方面からも九州の人間を雇って漁をし今の発電所辺りで解体してたようだ。

私は、学校給食が開始されて以来、スキムミルクと鯨の竜田揚げのケチャップ煮込みで育った年代です。

鯨を嫌いな友のおかげで、いっぱい食べられました。いい思い出をありがとう。

話は横にそれるが、単品で銀紙に包んだプロセスチーズを最初から食べてたは、独りぐらいだったな。他はカバンの肥やしに。

父親が米軍と仕事してたからか。

鯨も今や高級食材で、いいものが手に入らないのは残念だ。

わざわざ南氷洋まで行かなくても、たいした装具でなくても捕れてたのに、ほどほどにしとけば良かったのに問題も起きず。

小学生の頃、浜の桟橋にはたくさんのトロ箱にいわしが満タンで積み上げられていた。

かなり強烈な臭いもしてました。半端な量ではなかった。

すべて、鰤の飼い付け漁の餌だったとはずいぶん後に知る。

船に積むのにポロポロとこぼれ落ちたいわしを、割り箸に段違いとかで木綿糸でくくりつけた針に付けて、

バリ子(あいご)を引っ掛け釣りして愉しんでました。懐かしいな。

この頃、親戚が底引き網漁してて、毎日のようにあんこう、ほうぼう、エイ、キンタロウ そしてうちわエビなどがお裾分けされてた。

が、味しらずの子供もゆえ、ほとんど食べなかった。これを口惜しいと表現するのだろうな。ちょっと時間がずれていたなら、タラ腹。

小学4年生頃から、上級生と一緒に岩場の磯で潜ったりして泳いでました。

見島では、尻が浮いて潜りの下手な人を「ケツあま」と呼んで茶化してた。小さい子はみな、ケツあまでした。

ケツあまは、水中眼鏡も海水がいっぱい充満してました。

その頃は浅背でさえ、嘘やホラなしでサザエを足探りで、潜らずとも採れていました。

今頃食べる壺焼きのものよりはるかに大きかったけど、家には「そんなこまいもんは、持って帰るな」と叱られてました。

父が採るのは、蓋が黒ずみ貝の周りにはフジツボが付着した「爺サザエ」とよばれる、大物でした。

ちょっと潜れるようになると、浅瀬でタコが採れて、次の日には同じ穴にまた入っていたりとけっこう楽しめました。

時が過ぎ、漁師を家業にする人が減ると島以外の大きな船にせっかくの好漁場が、漁獲高を持ってかれてしまうのが現実。

遊漁の人たちが、良い魚釣ったりしてね。

近年、本マグロのでかいのから、少し遠出して小ぶりのヨコワとか釣れてるときは、活気があるけど毎回じゃないから、

昔のように一発当てるのが容易じゃない。

伯父さんが詠んだ句に「鰤になる、藻じゃこ、ハマチの一苦労」ってのがあります。

鰤は言わずと知れた出世魚、幼少の赤ちゃん時代は危険な浮き藻の中を集団で身を守るジャコと呼ばれるときから、

地方によってヤズやワカナと呼ぶハマチから小鰤のメジそして成魚の鰤になる。

この間、彼らにも並大抵の苦労がつきまとい、大海を生き抜く成長過程を詠んでます。

因みにタイも出世するんですよ。けいさつよびタイ→ほあんタイ→じえいタイとこれ以上成長すると困りますね。

これは余談なり。

 

                                                                 

                            南東方向からの見島鳥瞰                    鯨塚の高見山遠望

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