昨年は、師走に入って漁師は時化のため、沖や海士(素潜り)漁に出られる機会が少なかった。
冬の山陰・日本海の厳しい寒波到来が例年になく早く、稼ぎ時を逸した感じとなった。
自然相手のこれが偽らざる過酷な現状です。
記録によると、1704年頃から見島と言うか県下の沿岸では、魚ではなく鯨漁が始まり盛んだったそうな。
以前は見事な松林だった海端の高見山頂上には、鯨を供養する鯨塚がわずか6年で95本建立とあり、相当な数だったに違いない。
明治に近づくと、長門方面からも九州の人間を雇って漁をし今の発電所辺りで解体してたようだ。
私は、学校給食が開始されて以来、スキムミルクと鯨の竜田揚げのケチャップ煮込みで育った年代です。
鯨を嫌いな友のおかげで、いっぱい食べられました。いい思い出をありがとう。
話は横にそれるが、単品で銀紙に包んだプロセスチーズを最初から食べてたは、独りぐらいだったな。他はカバンの肥やしに。
父親が米軍と仕事してたからか。
鯨も今や高級食材で、いいものが手に入らないのは残念だ。
わざわざ南氷洋まで行かなくても、たいした装具でなくても捕れてたのに、ほどほどにしとけば良かったのに問題も起きず。
小学生の頃、浜の桟橋にはたくさんのトロ箱にいわしが満タンで積み上げられていた。
かなり強烈な臭いもしてました。半端な量ではなかった。
すべて、鰤の飼い付け漁の餌だったとはずいぶん後に知る。
船に積むのにポロポロとこぼれ落ちたいわしを、割り箸に段違いとかで木綿糸でくくりつけた針に付けて、
バリ子(あいご)を引っ掛け釣りして愉しんでました。懐かしいな。
この頃、親戚が底引き網漁してて、毎日のようにあんこう、ほうぼう、エイ、キンタロウ そしてうちわエビなどがお裾分けされてた。
が、味しらずの子供もゆえ、ほとんど食べなかった。これを口惜しいと表現するのだろうな。ちょっと時間がずれていたなら、タラ腹。
小学4年生頃から、上級生と一緒に岩場の磯で潜ったりして泳いでました。
見島では、尻が浮いて潜りの下手な人を「ケツあま」と呼んで茶化してた。小さい子はみな、ケツあまでした。
ケツあまは、水中眼鏡も海水がいっぱい充満してました。
その頃は浅背でさえ、嘘やホラなしでサザエを足探りで、潜らずとも採れていました。
今頃食べる壺焼きのものよりはるかに大きかったけど、家には「そんなこまいもんは、持って帰るな」と叱られてました。
父が採るのは、蓋が黒ずみ貝の周りにはフジツボが付着した「爺サザエ」とよばれる、大物でした。
ちょっと潜れるようになると、浅瀬でタコが採れて、次の日には同じ穴にまた入っていたりとけっこう楽しめました。
時が過ぎ、漁師を家業にする人が減ると島以外の大きな船にせっかくの好漁場が、漁獲高を持ってかれてしまうのが現実。
遊漁の人たちが、良い魚釣ったりしてね。
近年、本マグロのでかいのから、少し遠出して小ぶりのヨコワとか釣れてるときは、活気があるけど毎回じゃないから、
昔のように一発当てるのが容易じゃない。
伯父さんが詠んだ句に「鰤になる、藻じゃこ、ハマチの一苦労」ってのがあります。
鰤は言わずと知れた出世魚、幼少の赤ちゃん時代は危険な浮き藻の中を集団で身を守るジャコと呼ばれるときから、
地方によってヤズやワカナと呼ぶハマチから小鰤のメジそして成魚の鰤になる。
この間、彼らにも並大抵の苦労がつきまとい、大海を生き抜く成長過程を詠んでます。
因みにタイも出世するんですよ。けいさつよびタイ→ほあんタイ→じえいタイとこれ以上成長すると困りますね。
これは余談なり。
南東方向からの見島鳥瞰 鯨塚の高見山遠望
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