昨年、といっても数週間前の大晦日だった。閉校となった小学校の校庭で親子のプレイパークが行われた。大晦日だから人は集まらないだろうというオイラの予想はまたもや大きく外れた。20組以上の親子が続々と参集した。小学校の管理は地元の民間会社に移行され、その前向きな好意のおかげで実現の運びとなった。強風の心配は杞憂だった。紺碧の空と風光明媚な山並みが若い親子を迎えてくれた。市街地から迷いながらもはせ参じた親子が多い。
やはりメインとなったのは焚き火となった。直火は消防署の「指導」で実現しなかったが、山猿さんのドラム缶コンロが大活躍した。オイラもさっそく若い夫婦と子どもたちに混じりながら、お餅を焼いたり、ハブ茶の実の焙煎をやったり、焚き火クッキングに勝手に参入する。山猿さんも大量の甘酒を用意するばかりか焚き火キーパーとして参加者の焼き芋やお餅の焼け具合を見てくれた。
広い校庭で子どもたちが駆け回るのをチャンスとして親同士の会話も余念がない。そんな中に、不登校の子どもたちの居場所を考えている親がいた。そこにそれを支援してくれるようなアドバイスが飛び交う。たとえば、山猿さんも木工教室のリーダーとの相談がまとまったようだ。このように、切実な問題をかかえた親子にとっても、このプレイパークの空間が生かされている。
なにしろ、親子が持参してきたお餅・サツマイモ・焼きそば・豚汁などが焚き火という非日常を豊かにしてくれる。それ以上に、広い校庭という安心できる子どもの遊びがあるというのが、親のおしゃべりを支援してくれる。
子どもたちは水たまりでヤゴを発見したり、その近くからウスバカゲロウの幼虫「アリジゴク」を確保していた。その素早い行動と感性はプレイパークならではのものでもあった。はじめは親から離れない子どもでも、いつのまにかどこにいるかわからないほど校庭を走り回る駿馬となっていた。
不思議なもので、とある参加者がどでかいエア遊具や大量の市販のおもちゃを持ちこんだが、子どもたちはあまり遊ばない。むしろ、泥・水・木・火などの魅力や手作り遊具そのものの面白さを常連の子どもたちはわかっているようだった。
閉校された校内には色あせたレリーフがひっそり残されていた。そこには、宝塚の白井鐵造にちなんだスミレの花があり、急坂の上にある校舎に通う児童を見守る茶畑の大人の温かい構図が見事だ。
過疎の小学校のゆったりした空気は都会の競争原理と経済効率には無力だった。しかし、このプレイパークにこだまする親子の弾む空気は、目線を上に空に向けられる。この空間を後押しするパワーがここにはある。生きる勇気とヒントとがそこに秘められているように思える。
開校100周年を記念して建立した石碑には、「遥かなる我が道 逞しく進まん」という言葉が刻まれていた。ひっそりたたずんでいたこの石碑は、今は束の間かもしれないが息を吹き返したのだった。この言葉は、本校の児童へのメッセージだけではなく、地域に生きる人間に向かって投げられた願いでもあったのだ。この石碑を知った参加者はおそらくいなかったのではないかと思えるが、大志はいつか実現するものだと思いたい。プレイパークを主催するコアなところではすでにこの言葉は伝授されているよと申し送りたい。