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鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出。その5

2020年12月14日 | Weblog

昭和30年代の夏休みの思い出といえば、川遊び、ラジオ体操、炊事遠足、盆踊りなどが記憶に残っている。

プールがない時代であったが、雨竜川での水泳(川遊びと言ったほうが正しい)にはよく行った。大人の監視もない中での水泳は今ふりかえると危険であり、よく無事故でいられたということかもしれない。

また夏休みには、学年毎の炊事遠足が企画されていた。三号沢へ数回、大ヌップ川へ1回行った。集合したのが学校であったが、学校行事だったかは不明。学年ごとに日をずらして行っていた。

夏休みは今と同様に基本的に25日間だったが、夏休みの中間あたりに登校日といって宿題(なつやすみ帳)のチェックをする日があった。今どきはこんな登校日はないと思われる。

子供が多かったので、学校グラウンドで行われたこども盆踊りもにぎやかだった。踊りの輪が二重にもなっていたことを思い出す。

写真上は鷹泊小学校記念誌から転載した、二代目校舎。写真の右端にプールがあるのがわかる。時代の流れを感じさせる。

写真下はなつやすみ帳(昭和31年)

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鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出。その4 7月

2020年12月12日 | Weblog

鷹泊小学校が平成9年に閉校されて、その当時の門柱は今も残っている。

旧鷹泊小学校の門柱は、記憶の中にはあったが写真が残っていないとずっと思っていた。

しかし、昭和30年7月の鷹泊の大水害写真を見ていたら、昔の鷹泊小学校の門柱が写っているのを発見したのでアップする。記憶では木製の円柱状の門柱だったが、やはり丸太をそのまま利用したような校門の門柱であるのを再確認した。

今も残っている門柱と比べても、やはり昭和らしい。

写真は水害の鷹泊小学校(鷹泊小学校記念誌から転載)

記念誌の写真を一部加工。

 

7月25日終業式、7月26日-8月20日 夏季休業。

今の時代、7月には水泳学習が組まれることが多いはずだが、プールがなかったあの当時、雨竜川での全校水泳授業が昭和30年代の初めの頃だけ年1回あった。それだけでは泳げるようにはならず、あとは夏休みに自分で頑張ってくれということだったのかも。

雨竜川には、学校公認水泳場が第1から第4水泳場まで4箇所あった。振り返ってみると、子供たちだけでの川泳ぎはかなりの危険を伴っていたと思う。

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鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出。その3 6月 

2020年12月10日 | Weblog

写真は昔の鷹泊小学校(鷹泊小学校記念誌から転載)

6月13日  運動会 

田植えが終わって父母その他が参加可能な時期ということで6月中旬が選ばれていたと思う。

父兄が材木を組んで作った生徒応援席で紅白の旗を振り「♪浅羽の山の峰かすみ 雨竜の流れ 悠々と♪」と応援歌を歌った。 赤白のはちまきをして、運動靴はなくて足袋をはいて走り回った。足袋は昭和のいつ頃まで使用されていたのだろうか。

多度志地区の各学校の選手で行われた他校リレーがユニークだったように思う。はちまきの色は、鷹泊が黄色、幌成が水色、多度志がエンジ、宇摩が赤、湯内が白だった。この競技があったことで、各学校の運動会の日は同一日でなかったはずである。

部落対抗リレーも今となってはなつかしい。南鷹、下鷹、中鷹、上鷹、ペンケ、竜水、ヌップで各学年1人選手を選んでリレーを行った。 子どもたちが多かったからできた種目であるが、いずれのリレーも関係チームを必死で応援することで運動会は盛り上がっていた。

6月20日-22 日 小学校修学旅行 

地域のバスがなかった時代、バスに乗ること自体がめずらしかった。チャーターバスで札幌まで行き、テレビ塔・大通公園・デパートなどを見て回ったことを覚えている。

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 鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出。その2 5月

2020年12月08日 | Weblog

写真は解体中の鷹泊校舎(鷹泊小学校記念誌より。)これは昭和50年4月の写真であるが、鷹泊小·中学校の校庭の積雪量の多さにあらためて驚く。

5月は桜の季節であるが、鷹泊の開花は他地域より遅いようだ。10年前の5月に鷹泊を訪れた時には、途中の多度志までは桜の満開を確認したが鷹泊では開花しておらず、1週間後に再度訪れてやっとリフレッシュプラザ鷹泊の千本桜がきれいに咲いているのを見た経緯がある。

昭和39年は5月15日が春の遠足日であったが、鷹泊小中学校の遠足は秋の遠足を含めて、鷹泊ダムが主たる遠足先だった。小学4年の時は、遠足先がペンケ神社であったが、ちょうど神社境内の桜が満開でありその美しさは記憶は今も脳裏に焼き付いている。

5月17日-21日  中学校修学旅行。青函連絡船に乗り、弘前・十和田湖まで行き、函館を通って戻るコースで、今とそれほど変わっていないのかもしれない。深川よりも遠くにでかけたことがない当時の生徒にとって見聞を広げる修学旅行の原点たる機会であった。

5月28日-6月1 日 農繁休暇。農業が主体だった当時の鷹泊では、苗植え時期と稲刈りに合わせたと思われる日程で農繁休暇があった。今はこのようなことで学校が休みになったりしないはずである。農業が機械化される前の時代で、田植えには猫の手も借りたいということで、カッコウの声を聞きながら田植えを手伝ったことを思い出す。

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鷹泊小中学校での遠い日の思い出。その1

2020年12月06日 | Weblog

昭和30年代に鷹泊小・中学校に在学した者として、このブログで学校関連のことも過去にいろいろ書いてきましたが、今回も学校跡を訪れてみていろいろ思い出すことがありました。過去の記載と重なることも多々ありますが、主に昭和39年度の日付を入れながら拙い個人的な思い出を書いてみます。

まずは4月。(日付は昭和39年を原則としていますが、内容は年度が必ずしも39年というわけではなく変則的な内容となります。)

4月1日、小・中入学式。4月6 日、始業式。

新小学1年生にとっては感激する学校への一歩の日だった。保育所とか幼稚園のなかった鷹泊では、集団生活が始まる最初の日である。雪が残った道を校門を通って、真っ直ぐの道が小学校玄関へ。右が中学校玄関へ。下駄箱に名前が書いてあり、担任の先生や上級生の出迎えの中、教室へ入った日は感激の一日であった。

同じ校舎ゆえに、新中学1年生にはそれほどの感激もない日だった。男子にとっては、白線の入った学生帽をかぶれるようになったくらいの変化しかなかった。

なんといっても小学校と中学校が一緒だったのは当時は当たり前の時代であった。

写真は旧鷹泊小中学校校舎(昭和46年)。鷹泊小学校記念誌より転載。

4月の思い出として、4月の新学期になっても雪解けの進行が遅く、中学時代は校庭の雪割りをしたことが思いだされる。野球部が土の上で練習したくてもできず、やむなく校庭全体を覆い尽くしていた硬い雪をスコップで割って運び出す重労働を行ったが、北空知のほかの学校と比べて大きなハンディーだったと思う。

実際今年(令和2年)12月5日現在の積雪は気象庁の発表で、鷹泊の記録はないが、お隣の幌加内が87cm、深川市の中心部が5cmとある。鷹泊と幌加内はほとんど変わらないはずなので、おそらくかなり積もっているはずである。

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昭和30年代の思い出捜しの鷹泊小中学校跡

2020年12月02日 | Weblog

リフレッシュプラザ鷹泊に来てみると、ここが昭和30年代に9年間通った学校があった場所だという懐かしさはよみがえるものの、さすがに校舎を含め当時あったものはほとんど残っていない。

しいて挙げれば鷹泊小学校の門柱そして二宮金次郎像が残っている。

下の写真は平成9年閉校の鷹泊小学校の門柱。

下の写真は二宮金次郎の銅像。

二宮金次郎の銅像には昭和37年寄贈とある。58年が経過して、腐食が進んでいるのは明らかだ。 この銅像が旧校舎の中心方向を向いているのに気づいた。意図的なのか偶然かはわからないが勤勉の象徴だった二宮金次郎ゆえ、敢えて旧校舎中心部方向を向かせて設置したと考えたい。

ともかく、年月を経てもたたずんでいるだけで小・中学校時代が思い起こされる場所である。

しばらく学校跡で時間を過ごした後、鷹泊での有意義な一日を過ごせたという満足感にひたって帰途についた。

これでコロナ禍で、密を避けることが後押した「Go To 鷹泊の旅」の記載を終了とします。このブログを見てくださった方にお礼申し上げます。

追記

後は付け足しとして、鷹泊小中学校跡へ来たことで昭和30年代のことが思い出されてきたので、以前のブログ内容とかぶっていることがありますが個人的なとりとめもないことを数回だけ書いてみる予定です。

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リフレッシュプラザ鷹泊の千本桜とパークゴルフ場のこと。

2020年11月30日 | Weblog

写真はリフレッシュプラザ鷹泊

リフレッシュプラザ鷹泊の建物前には公園があり、東屋や花壇、そして芝生内には桜が植えられ、パークゴルフ場も造られていた。

夏に訪れると、きれいな花壇に植えられた花が出迎えてくれる。

いったん再開したように見えたパークゴルフ場は残念ながら消滅していた。パークゴルフをする人がいなくなったのが原因と推測される。

写真上は東屋と花壇。花はきれいだったが、花壇は以前よりかなり小さくなっていた。

写真下は元のグラウンドの北側部分に植えられた千本桜。

千本桜として植樹された桜は、トータルで何本植えられたかはわからないが枯れてしまった樹もあり、約60本ほどが残っていた。一度だけ桜の季節にここを訪れたが、さすがにきれいだった。桜の樹には寄贈した人の名を書いた名札がついていたが、約20年の月日の経過で、名札の多くはなくなっていた。 前市長が平成9年に寄贈した桜、現市長が平成22年に寄贈した桜には名札が残っていた。

このあたりが、あの時代走り回ったグラウンドの北側にあたるのだと思うと、当時のことが頭の中に蘇ってきた。

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リフレッシュプラザ鷹泊は学校時代の思い出の場所。

2020年11月28日 | Weblog

広範囲に鷹泊を見て回ったが、最後は鷹泊小学校跡にできたリフレッシュプラザ鷹泊だ。

国道から学校跡までは約100メートルの「市道鷹泊学校線」を通って到着ということになる。プラザ鷹泊線みたいな名前が適切と思うが、いったん名前が付くと変更されないということか。

周りの風景は大きく変わったが、9年間通い続けた思い出の多い道である。

写真上は学校跡への分岐地点。昔はここに宮部商店があり、学用品をよく購入した。今は大きな樹が残っている。

写真下 学校グラウンドがあった場所にリフレッシュプラザ鷹泊の東屋があるのが見える。

リフレッシュプラザ鷹泊の駐車場に車を停めて、周囲を散策予定とした。リフレッシュプラザ鷹泊に常駐職員はいないと思われ、建物内部に入ることはしなかった。人が少ないのでしょうがない。

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市道竜水線の起点終点はどこ?ヒグマはどこに出現したのか。

2020年11月26日 | Weblog

上図は深川市のヒグマ目撃情報位置図

昨年11月12日に市道竜水線の起点から南に約80メートルの地点でヒグマの足跡を複数発見とあった。しかしよく見ると深川市のヒグマ目撃情報位置図で✗マークがついている地点とその場所とは違うようだ。(終点から南に80メートルでないだろうか。)ヒグマが出たのはいったいどこなのか。

竜水線は市道網図によると起点が竜水会館があった付近で、途中若干の右左折のあと終点に至る道である。なぜかはわからないが、途中まで緑色で表示され、後半が青色表示になっている。(図は市道網図の一部を抜粋したもの)

市道の起点、終点の決め方に関しては(1)交通上重要度の高い方の道路の中心点を起点とする。(2)都心部に近い方を起点とするとのことで、◯が起点で矢印が終点を表していると考えられる。

上図の✗印あたりでないだろうかと思うが実際どうなのだろう。いずれにしても竜水地域の山とは少し離れている農耕地にクマが出るとは困ったものである。

近年、札幌市をはじめ全道的にヒグマの市街地への出現報道が多くなっている。ヒグマの生息数そのものは変わらないが、山のドングリの不作が原因だとか、ヒグマが人を恐れなくなった等の理由がいわれている。

ヒグマの駆除については、北海道では、毎年500頭以上のヒグマが駆除されているとのことである。

2019年度については、756頭という報告もあるし、918頭という報告もある。もある。どうして数が違うのか疑問ではあるが。

 

写真左は竜水会館跡付近から竜水線の南方向を撮影。左奥の金毘羅神社跡のさらに奥にイノシシ山。

写真右は逆サイドから撮影。遠くに浅羽山が見える。

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竜水1号線は金比羅神社へ繋がっていた道。

2020年11月24日 | Weblog

竜水1号線は東西方向へ走り、金比羅神社へ繋がっていた道である。竜水1号線はあっても、2号線や3号線はないのが疑問ではある。道沿いに同級生の家があったので、よく遊びに来た。

半世紀前はあたり一面水田だった。その後鷹泊全体の半分ほどの水田がソバ畑に変わっている中で、この竜水1号線周辺には水田が多く残っている。

写真は道沿いにある農家と水田。山方向を撮影。下図はGoogle 航空地図。

竜水1号線の終点には金毘羅神社があった。神社のお祭りの子供相撲でS君が骨折したのを思い出した。ボキッと音がしたのを今でも覚えている。

ヒグマの目撃情報によると、竜水1号線沿いの農作地に令和元年8月25日ヒグマの足跡及びフンを発見、踏み倒しによる水稲の被害が発生とあった。神社跡に潜んでいるかもしれないと不安にかられ、金比羅神社跡には近寄らず退散した。

写真下つきあたりは金毘羅神社跡。

 

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