慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

聖武天皇と橘諸兄 復興への葛藤

2021年09月18日 | 歴史上の人物

🌸聖武天皇と橘諸兄 復興への葛藤


 ☆天平時代、日本は天然痘のパンデミックに襲われた
 *国民の三分の一が失われた
 ☆復興に当たった聖武天皇と宰相の橘諸兄
 ☆復興に当たって聖武天皇が政権を任せた橘諸兄
 *農民の負担を軽くするなど力を尽くす
 ☆天皇は「仏が守る国」を作るために次々と新たな事業を起こす
 *その財源を確保するため
 *諸兄は、律令国家の根幹制度を捨てる選択を選んだ

⛳橘諸兄(たちばな の もろえ)の経歴

 ☆奈良時代の皇族・公卿
 ☆敏達天皇の後裔で、母は橘三千代で、光明皇后は異父妹
 ☆聖武天皇の即位後従四位下に叙せられる
 *天然痘の流行で、藤原四兄弟・中納言ら議政官が次々に死去
 *出仕できる公卿は、参議の鈴鹿王と橘諸兄のみとなった
 ☆聖武天皇は、諸兄を次期大臣の資格を有する大納言に任命
 *諸兄は正三位・右大臣に任ぜられ、太政官の中心的存在となる
 *国政は橘諸兄が担当し、聖武天皇を補佐する
 ☆国政を掌っていた諸兄への批判、藤原氏の政権の回復の動き
 *広嗣が九州で兵を動かして反乱を起こすと(藤原広嗣の乱)
 ☆聖武天皇は伊勢国に行幸
 *乱平定後も天皇は平城京に戻らず遷都が行われた
 ☆孝謙天皇が即位すると、国母・光明皇后の威光を背景に
 *藤原仲麻呂の発言力が増すようになる
 ☆結果、諸兄は辞職を申し出た
 ☆子息の奈良麻呂は橘奈良麻呂の乱を起こし獄死

⛳橘諸兄政権の政治

 ☆天然痘の影響で、大納言諸兄が太政官の主班となる
 *天然痘の流行は非常に大規模で、人口の約40%失われた
 ☆聖武天皇と光明皇后の当面の政治的課題
 *疫病で損なわれた国力の回復
 *光明の異父兄であり、藤原不比等の娘を妻に迎える
 *藤原氏とも親和的な皇族の諸兄を首班に据える
 *皇族・貴族が一体となった挙国一致の政治体制をとった
 ☆聖武天皇と諸兄の関係は、難波宮で複数回宴を催すなど良好な関係
 ☆諸兄は、国力の回復のため実行した施策
 *郡司定員の削減や郷里制の廃止など地方行政の簡素化を行う
 *東国農民の負担軽減を目的として防人を廃止
 *諸国の兵士・健児を停止し公民の負担を軽減した
 *土地の再開発を促べく「墾田永年私財法」を発布
 ☆聖武天皇が次々に新都を建設して遷都を繰り返した
 ☆孝謙天皇が即位し光明皇后が皇太后になった
 *紫微中台の長官に藤原仲麻呂が就任
 *諸兄と並ぶ権力を手に入れた
 *政治の実権が藤原仲麻呂に移行した

橘諸兄の人物

 ☆大伴家持と親交があり、『万葉集』の撰者の1人
 ☆『万葉集』では8首の歌を残している

 ☆大伴家持が諸兄の長寿を寿ぐために作った歌が万葉集にある

 ☆大伴家持と親密な関係にあったことがわかる

                       (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、BSNHK「英雄たちの選択」「WIKIPEDIA」









聖武天皇と橘諸兄 復興への葛藤
「WIKIPEDIA」他より画像引用)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« The New York Times 17 S... | トップ | ゴールドマン、銀行免許を得... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史上の人物」カテゴリの最新記事