慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

江戸幕府「二重公儀体制」実施していない

2021年11月21日 | 歴史
🌸江戸幕府「二重公儀体制」実施していない

徳川家康と豊臣秀頼による「二重公儀体制」
 ☆近世の定説で疑問に思うのは「二重公儀体制論」
 *関ケ原の戦いから大坂の陣までの約15年間
 *日本には公儀が2つ、天下人が2人いたとする考え方
 (徳川家康、豊臣秀頼)
 ☆将軍権力は、軍事、政治を持つこと
 *豊臣秀頼は、日本列島全体に影響を与える政治・軍事やっていない
 ☆二重公儀体制を支持する研究者の主張
 *「大名たちが大坂の秀頼の元に挨拶をしに行っていた」
 *秀頼のご機嫌伺いに馳せ参じる者もいました
 ☆諸大名が秀頼に挨拶に行くのは、儀礼の範囲
 *挨拶で、具体的に政治や軍事が動くことはなかった
 ☆秀頼と挨拶来た大名と主従関係が結ばれていない

殺された源義経の悲劇
 ☆主人以外の人間と別途主従関係を結ぶことは、武士のご法度
 ☆鎌倉時代、源頼朝の弟である源義経
 *兄との間に主従関係を持ち、後白河上皇に接近する
 *上皇から官職をもらい主人と家来の関係を結んだ
 ☆勝手に主従関係を結ぶその行為
 *頼朝の逆鱗に触れ、義経は滅ぼされた
 ☆頼朝が鎌倉幕府の権力体を守るため、 一番重要視していたこと
 *自分だけを主人と仰ぐ武士を集めること
 ☆頼朝は、鎌倉幕府を維持するために武士たちに伝えていたこと
 *私の許可なしに、朝廷から官職をもらつてはいけない
 *官職がほしいならば、私に言いなさい
 *私がおまえを推薦して、朝廷から官職をもらってあげる
 ☆義経の場合
 *頼朝経由で後白河上皇から官職をもらつていたなら問題はなかった
 *義経は頼朝を飛ばして、官職をもらうルール違反を犯した
 *頼朝は、我が弟ながら義経を殺さざるを得なかった

徳川と豊臣の二重公儀体制なら、徳川政権は成りたたない
 ☆家康は、絶対にそれを許さなかった
 ☆徳川家康『吾妻鏡』を私財を投げ打って収集した人物
 *『吾妻鏡』を通じて、源頼朝を勉強している
 ☆筆者は、二重公儀体制は、定説としては認められないと思う
                        (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『日本史の論点』

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« The New York Times 21 N... | トップ | 沖縄が米軍の重要な軍事拠点... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

歴史」カテゴリの最新記事