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江戸の『習 近平』政策松平定信

2015年01月17日 | 知識取得
江戸の幕閣松平定信

松平定信 ⇒大名、老中、陸奥白河藩藩主、徳川吉宗の孫、寛政の改革
松平定信『寛政の改革』今の中国『習近平』政策?
















松平定信(ネットより画像引用)

松平定信白川藩養子に
御三卿の田安徳川家の初代当主徳川宗武の七男として生まれる
幼少期より聡明で知られ、将軍徳川家治の後継と思われていました
田沼政治を「賄賂政治」と批判したため、陸奥白河藩藩主松平定邦の養子にされました
定信は、養子とした、田沼意次を憎みましたが、幕閣入りを狙って、自ら意次に賄賂を贈っていました

松平定信白河藩主時代
天明の大飢饉で領民を救うため、領民に対する食料救済措置を迅速に行なった
子弟のための藩校立教館、庶民のための郷校敷教舎を設置し、民衆に学問への道を開いた
老中失脚後は、白河藩の藩政に専念し、馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた
定信の政策は、農村人口の維持と生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励した

松平定信寛政の改革
白川藩の財政建て直しの手腕を認められた定信は、将軍徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる
幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、寛政の改革を行い、幕政再建を目指した
倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への学問吟味政策などで成果をあげた
逆に、大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された
様々な方面から批判が続出し、6年後老中を失脚する

松平定信寛政の改革への批判
国防の危機を説いた林子平らを処罰、蝦夷地開拓政策を放棄、蘭学を排除等、幕府の海外に対する備えを怠らせた
ロシアが、日本人漂流民と交換での日本との通商を求めるの事件でも対応は不備でした
定信の辞任の原因は、光格天皇の朱子学を否定し、尊号一件を契機に、将軍・家斉とも対立していた
海防のために出張中、定信は辞職を命じられ、老中首座並びに将軍補佐の職を辞した
寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった

松平定信のその後
老中失脚後は、白河藩の藩政に専念、その後引退し江戸屋敷へ
江戸の大火で、松平家の上屋敷や下屋敷である浴恩園も中屋敷も類焼し住まいを失う
火事での非難で、松平家の家人が邪魔な町人を斬り殺したという噂が世上に流布(出版業界の復讐)?
屋敷の焼失により、定信は伊予松山藩の上屋敷に避難し避難先で死亡
辞世は「今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は」

松平定信人物・逸話
白河藩主としては、名君として高く評価されているが、老中としての評価は分かれる
大名ながら、浮世絵にも親しみ、起倒流柔術も優れ、弓術は、師から書を授けられるほどの腕前でした
定信は学問吟味の政策の一環と人材登用の手段として学力試験を行った

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