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慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

『天皇家と伊勢神宮』『大嘗祭』『草薙剣』『崇神天皇』

2025年07月19日 | 宗教
🌸天皇家の主要な儀式・行事2

⛳天皇と伊勢神宮の歴史的関わり
 ☆ 天皇家にとり、伊勢神宮は、特別な存在
 *伊勢神宮は、古くから他の神社とは一線を画す特別な存在として
 *朝廷(天皇家)から最高の崇敬を受けてきた
 ☆私幣禁断(しへいきんだん)
 *長らく、伊勢神宮への個人的なお供え(私幣)は
 *天皇以外には許されませんでした
 *伊勢神宮が天皇のための特別な場所であることを示している
 ☆天皇の参拝
 * 近世以前、歴代天皇が直接伊勢神宮を参拝することは非常に稀だった
 *天皇が直接祀ることで、神の威光が強くなりすぎるといった考えや
 *宮中での祭祀を重視したためなど、様々な説がある
 *明治維新以降、明治天皇が伊勢神宮を参拝して以降
 *天皇や皇族方の伊勢神宮参拝は皇室にとって重要な儀式となっている
 ☆祭主(さいしゅ)
 *現在、伊勢神宮の祭主は、天皇陛下の妹である黒田清子さん
 *皇室が直接、伊勢神宮の祭祀に関わっていることを示している
 ☆大嘗祭(だいじょうさい)
 *天皇が即位した後に行われる最も重要な儀式の一つ
 *伊勢神宮から献上された新穀を神々に供え、自らも食することで
 *天皇が国の安寧と五穀豊穣を祈る儀式

⛳伊勢神宮は単なる一神社ではない
 ☆天皇家がその正統性や神聖性を支える最も重要な信仰の拠点
 ☆日本の国家と皇室の根源に関わる聖域として
 ☆現在に至るまで特別な地位を保ち続けている

🌸『神社が語る古代12氏族の正体』での天皇家

 ☆この本は、伝統的な歴史観や『記紀神話』に疑問を呈し
 ☆神社に残された痕跡から古代史の真実を読み解こうとする

伊勢神宮の謎
 ☆天皇家の祖神を祀る伊勢神宮
 *大和から遠く離れた伊勢の地につくられたのか
 *大和に天皇家の中枢があったにもかかわらず
 *重要な祖神を別の場所に祀る必要があったのだ
 ☆伊勢神宮の配置の背後には
 *記紀に描かれるような単純な神話だけでなく
 *古代の権力構造や、天皇家と他の有力氏族との関係性が
 *隠されている可能性を指摘する
 ☆伊勢神宮が天皇家の唯一絶対の氏神になるまでの過程には
 *様々な政治的駆け引きがあったと推察している

⛳三種の神器と地方勢力
 ☆三種の神器の一つである草薙剣
 *尾張(熱田神宮)で祀られたのか?」という点
 ☆天皇家の象徴である神器
 *中央から離れた尾張の地に存在し続けるのかという疑問
 ☆尾張氏のような地方の有力氏族と天皇家
 *初期の天皇家が様々な地方勢力とどのように結びついて
 *力を拡大していったの為と推察している

⛳崇神天皇の「祟り」
 ☆「崇神天皇はなぜ祟られたのか」という疑問
 *記紀に記される崇神天皇の時代に疫病が流行
 *それが神の祟りであるとされた記述されているが、単なる天罰ではない
 *当時の政治的な背景や既存の信仰との衝突の可能性を示唆している
 ☆当時の政治的な背景や
 *既存の信仰との衝突があった可能性を示唆している
 ☆関氏の著作は、神話の記述をそのまま受け入れるのではなく
 *その裏に隠された政治的な意図や
 *権力闘争の痕跡を探る傾向がある

⛳記紀神話の「操作」
 ☆『神社が語る古代12氏族の正体』では
 *天皇家に関する記述や神社の由来が
 *『日本書紀』などによってどのように「改竄」されたり
 *「都合よく」書き換えられたりしたのかの視点が含まれている
 ☆勝者である天皇やその擁護者(藤原氏など)の視点から
 *歴史が記述された結果
 *本来の姿が覆い隠されている、と考察している
 ☆関裕二氏は『神社が語る古代12氏族の正体』
 *天皇家の神聖性や系譜を単純に受け入れるのではなく
 *各氏族が祀る神社やその伝承、記紀に描かれた歴史の「闇」から
 *当時の複雑な政治状況や、天皇家の実態に迫ろうとしている
                        (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『神社が語る古代12氏族の正体』







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『イラン=十二イマーム派』『中東情勢』『ムスリム大国インドネシア』

2025年07月19日 | 宗教
🌸原理主義台頭の背景にあるユースバルジ7

⛳十二イマーム派を信仰するイランの独特な政体
 ☆イランはイスラーム教シーア派の十二イマーム派を国教とする
 *シーア派ではムハンマドの娘婿でもあるアリーとその子孫たち
 *「イマーム」と呼ぶ
 *神からの導きを受けた無謬の指導者ムハンマドに並ぶ存在
 *シーア派のなかでも現在最大の勢力を持つのが十二イマーム派
 *十二イマーム派は、アリーから始まる12人のイマームを認める宗派
 ☆現代のイラン
 *最高指導者が「隠れたイマーム」の代理人として統治を行っている
 *イランはシーア派の大国として独自の道を歩んできた
 *現在のイランの政治体制が確立されたのは比較的最近のこと
 *歴史的には十二イマーム派は長いあいだ少数派として迫害を受けてきた
 *イスラームの最高指導者が国家の最高権力者となる
 *最高指導者は隠れイマームが再臨するまでのあいだ
 *代理人として国を統治する役割を担う
 *宗教的権威と政治的権力が一体となった独特の制度といえる
 *現在の最高指導者は、アーヤトッラー・アリー・ハメネイ師
 *イスラーム法が国家の法体系の基礎となっており
 *宗教指導者たちが政治に大きな影響力を持っている
 ☆イラン革命以前はパフラヴイー朝による世俗的な王政だった
 *革命以後、イスラーム法学者たちの政治的な力が強まる一方
 ☆民衆からの評価は必ずしも高くない
 *「古代ペルシャ帝国の栄光よ、もう一度」
 *「ハメネイが居座る体制が続くくらいなら王政に戻ってほしい」た
 *思っている市民も少なくない

冷戦後もアメリカ・西欧・ロシアの思惑に乱される中東
 ☆冷戦終結直後、アメリカは中東における唯一の超大国として台頭した
 *湾岸戦争は、この新たな世界秩序を象徴する出来事だった
 *イラクのサダム。フセイン政権がクウェートに侵攻した
 *戦争はアメリカの軍事力の優位性を世界に示すとともに
 *中東における西側諸国の影響力を強化した
 ☆アメリカ同時多発テロ事件が中東情勢に転換をもたらした
 *アメリカのブツシユ政権はアルカーイダがテロを主導したとして
 *「テロとの戦争」を宣言し、アフガニスタンのターリバーン政権に
 *攻め込んで打倒し首謀者と見られるビン・ラーデイン
 *米軍によって潜伏先のパキスタンで殺害された
 *「大量破壊兵器の保有」を理由にイラク戦争を開始して
 ☆アメリカは、サダム・フセイン政権を崩壊させて占領した
 *反フセインであったシーア派主体の暫定政権を立ち上げた
 *スンナ派が反発してイラクは内戦状態に陥る
 ☆アメリカ以外の西欧諸国(フランス・ロシア)
 *連合王国とフランスは、歴史的に中東地域と深い関わりを持つ
 *「アラブの春」と呼ばれる民主化運動の際には
 *フランスと連合王国がリビアヘの軍事介入を主導し
 *ムアンマル・カダフイ政権の打倒に関与した
 *ロシアも中東地域への関与を強めている
 *冷戦時代からのシリアとの同盟関係を維持するとともに
 *中東における影響力を回復させる狙いがあります
 *大国の介入が、中東地域の宗教的、民族的対立を複雑化させている
 ☆中東の石油資源をめぐる争いという観点も重要
 *中東の石油は依然として世界経済に影響を与えている
 *中国やインドなどの新興国にとっては
 *中東からのエネルギー供給は不可欠であり
 *これらの国々も中東への関与を強めている

⛳アジアへイスラーム教徒の広がった経緯
 ☆世界最大のムスリム人口の国インドネシア
 *人口約2億7000万人のうち87%がムスリム多くがスンナ派
 ☆イスラーム教徒を人口別に見ると1億人以上なのは
 *インドネシア、インド、パキスタン、バングラデシュの4カ国
 ☆イスラーム教のアジアヘの拡大は、3つの経路を通じて行われた
 ①アラブ商人たちによる海上貿易路を通じた伝播
 *彼らは商品と自分たちの信仰であるイスラーム教も持ち込む
 ➁中央アジアを通る陸上のシルクロード
 *アラブ・イスラーム帝国の東方への拡大に伴い
 *中央アジアの諸都市がイスラーム化していった
 ③インド亜大陸を通る
 *8世紀、アラブ軍がインド北西部に侵攻して以来
 *イスラーム教はインド亜大陸に徐々に浸透していく

アジアに多くのイスラーム教徒がいる理由
 ☆イスラーム教がアジアで広く受け入れられた理由
 *イスラーム教徒の商人たちはイスラーム法に基づく
 *公正な取引を行い、信頼を獲得し、広範な交易ネットワークを築く
 *これによってイスラーム教は経済的繁栄と結びつけられ
 *多くの人々にとって魅力的なものとなる
 *東南アジアの港市では、イスラーム教に改宗することで
 *国際的な交易網に参加できるという利点があった
 ☆イスラーム教
 *「アッラーが唯一の神、ムハンマドは神の使徒である」
 *このふたつを信じればムスリムになれ、改宗が簡単だった
 ☆インドのムガル帝国ではイスラーム教が国家の公式宗教となり
 *宮廷や行政機構を通じてイスラーム文化が広められた
 *植民地時代には、イスラーム教は反植民地主義運動と結びつく
 *イスラーム教が民族的アイデンテイテイや独立運動の精神的支柱となる
 ☆現代アジアのイスラーム教は多様性に富んでいる
 *インドネシアやマレーシアでは比較的穏健なイスラーム解釈が主流
 *パキスタンやアフガニスタン、保守的な解釈が強いイスラーム教
                     (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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『ウマイヤ朝』『アッバース朝』『一神教革命』『大翻訳運動』

2025年07月18日 | 宗教
🌸原理主義台頭の背景にあるユースバルジ6

⛳急速に拡大したイスラーム帝国
 ☆イスラーム教の開祖ムハンマドが632年に亡くなったあと
 *イスラーム教徒たちはおどろくべき速さで周辺地域へ進出する
 *正統カリフ時代の第2代カリフであるウマルの時代に
 *イスラーム軍は大きな成功を収めた
 ☆イスラム軍が成功を収めた背景
 *イスラーム軍が北上し始めた7世紀前半、中東地域の二大勢力であった
 *サーサーン朝ペルシャとローマ帝国は、戦争で互いに疲弊していた
 *新興勢力であるイスラーム軍が登場したとき
 *どちらも効果的な抵抗を示すことができなかった
 ☆イスラーム軍の拡大を支えたもうひとつの重要な要因
 *その寛容な統治方針だった
 *イスラーム軍は征服地の人々に対し
 *「降伏して税金を納めれば、これまでの生活や信仰を保証する」政策
 *政策は、被征服地の人々の抵抗を減らし、スムーズな支配を可能にした
 *イスラーム世界は経済的にも繁栄を享受することができた
 ☆ウマイヤ朝の時代の領土
 *東は現在のパキスタン付近から、西はイベリア半島まで及ぶ
 *イスラーム文化が西ヨーロッパにも及ぶことになる
 *8世紀半ばになると、イスラーム帝国の拡大にも限界が見え始める
 *「タラス河畔の戦い」で唐と衝突し、これ以上の東進が困難になる
 *フランク王国に敗れ、西ヨーロッパヘの進出も阻止された
 ☆9世紀以降、アッバース朝の実権は次第に失われる
 *各地に独立的な王朝が成立し、イスラーム世界は政治的に分裂した
 *しかし、イスラーム文明としての一体性は保たれ
 *科学、哲学、文学などの分野で多くの成果を生み出し続けた
 *例、宗教面ではイスラーム教が世界三大宗教として確立した

⛳地中海を征服し成立した一神教革命
 ☆イスラーム教はアラブの多神教を否定した
 *イスラーム教が北アフリカの沿岸地帯を制圧して
 *地中海の南半分で多神教や偶像崇拝が否定され
 ☆地中海の北半分
 *ローマ帝国が宗教(多神教)に寛容だった頃には
 *ギリシャやローマの神々は絵や彫刻で表現されていて
 *人々はそこから神々のイメージを認識していた
 *テオドシウスー世によるキリスト教の国教化により
 *ギリシャ・ローマの多神教は認められなくなり
 *神話を含んだ数多くの古典も「異教」のものとして排除された
 *ローマ皇帝により、聖像破壊運動行われた
 *教会からイコン(神の絵姿)や像を取り払っていく
 ☆地中海世界では南半分はイスラーム教、北半分はキリスト教で
 *多神教の神々が追いやられ、これを一神教革命と呼ぶ
 ☆完全に多神教の神々が殺されてしまったわけではない
 *アポローンやヴイーナスはルネサンスまで長い眠りに入っただけ
 ☆イスラーム帝国は多神教を否定し、神の図像化も認めなかったが
 *西方からもたらされた書物は捨てませんでした(大翻訳運動)

⛳体系的なイスラーム神学
 ☆大翻訳運動は、8世紀から10世紀にかけて行われた
 *イスラーム世界における知的革命とも言える出来事
 *8世紀に中国から「紙」が入ってきたことも重要な機能を果たした
 *哲学者たちは、ギリシャ哲学とイスラームの教えを融合させ
 *独自の思想体系を築き上げた
 *おどろくべき知の蓄積、いや、知の爆発
 ☆大翻訳運動は書物の生産と流通を活発化させ
 *写本業や製紙業が発達し、新たな産業として栄える
 *学問の中心地となったバグダードには多くの学者や学生が集まり
 *都市の経済発展にも寄与した
 ☆大翻訳運動の影響は、のちのヨーロッパにも及ぶ
 *十字軍がぞろぞろとイスラーム世界にやってきた
 *アラビア語で翻訳、研究されたギリシャの古典、ヨーロッパに持ち帰る
 *ルネサンスや科学革命の基盤となる知識をもたらした
 ☆イスラーム文明は中世、世界最高水準の学問的、文化的達成を遂げた
 *東西文明の架け橋として機能し、人類の知的遺産を保存
 *発展させる上で重要な役割を果たした
                     (敬称略)
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『スンナ派』『シーア派』『ムアーウイヤ』『ウマイヤ朝』

2025年07月17日 | 宗教
🌸原理主義台頭の背景にあるユースバルジ5

教義ではなく派閥で分かれたスンナ派とシーア派
 ☆スンナ派とシーア派の対立
 *教義の違いではなく、指導者の正統性をめぐる派閥の対立から生まれた
 *今もなお続くシーア派国とスンナ派国の対立
 *「宗派対立」なのだと言い切ってしまうのは正確ではない
 ☆スンナ派とシーア派の分裂の起源(ムハンマドの死後)
 *イスラーム共同体を統率する後継者(カリフ)の選出で対立が生じた
 *カリフは預言者の代理人を意味する
 *宗教的な権威は預言者ほどではありませんが
 *イスラーム共同体の政治的、社会的指導者のことです
 *カリフ制は、ムハンマドが死去した時に始まる

⛳イスラム教での多数派の見解
 ☆少数派は血縁関係を重視
 *ムハンマドのいとこで娘婿アリーが正統な後継者であるとした
 ☆多数派のムハンマドの側近たち
 *合議でカリフを選ぶべきだと主張
 *ムハマンドの死後アブー・バクル、ウマル、ウスマーンと
 *血のつながりのあるアリーではない3人がカリフに選ばれた
 *ムハンマドの遺志を継いだ2人のカリフは優秀だった
 *3代カリフのウスマーンのときには内部分裂する
 *ウスマーンはエジプトから来た過激分子に殺される
 ☆4代目、アリーの血縁者が選ばれる(「正統カリフ時代」)
 *イスラーム帝国の基礎が築かれた時期でもある
 ☆ウスマーンの親族であるムアーウイヤ
 *アリーのカリフ就任を認めず
 *自らがカリフの地位にあると主張
 *この対立は武力衝突にまで発展した
 *アリーも3代カリフの座をウスマーンと競い合った人物
 *ムアーウィヤはアリーを見限り、叛乱を起こす
 *アリーは「ムスリム同士で争ってもしかたない」と
 *ムアーウイヤと和議を結ぶ現実主義者だった
 ☆納得がいかないアリー支持者の一部分派をつくって去る
 *これが「ハワーリジュ派」と呼ばれた人々
 *この一派は、アリーとムアーウイヤの2人に刺客を放つ
 *脇の甘かったアリーは殺害された
 * 一方、軍に守られていたムアーウイヤは生き残る

ムアーウイヤが実権を掌握し、世襲のウマイヤ朝を開く
 ☆アリーの支持者たちは、ムアーウィヤの支配を認めず
 *アリーの子孫こそが正統な指導者であると主張し続けた
 *彼らは「シーア・アリー」と呼ばれ、のちにシーア派となる
 ☆ムアーウィヤが死去し、息子ヤズィードがカリフを継いだ頃
 *ムアーウィャが開いたウマイヤ朝の支配を受け入れた人々
 *預言者ムハンマドの言行録(スンナ)を重視する立場から
 *スンナ派と呼ばれるようになる
 ☆現代のスンナ派は、世界のイスラーム教徒の90%を占めている
 *中東、北アフリカ、東南アジアなど、広範囲に分布している
 *しかし同じスンナ派のなかでも、解釈の違いによって
 *さまざまな学派や運動が存在する
 ☆スンナ派が多数を占めるサウジアラビアとシーア派のイランの対立
 *中東地域の政治情勢に大きな影響を与え
 *スンナ派とシーア派の関係は
 *非イスラーム諸国の思惑も交錯し複雑化している
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『クルアーンの異本』『六信五行』『イスラーム教の宗派』

2025年07月16日 | 宗教
🌸原理主義台頭の背景にあるユースバルジとは4

⛳クルアーンには異本がない

 ☆ムハンマドは神からの啓示を受け始めた
 *これらの啓示はムハンマドの生前から
 *信者たちによって暗記され、一部は書き留められた
 ☆ムハンマドの死後
 *これらの啓示をひとつの書物としてまとめる必要性が生じた
 ☆3代目カリフであるウスマーンの時代
 *クルアーンの編纂作業が行われた
 *同時にそれまで存在していた個人的な記録や断片的な写本
 *破棄せよと命じられ、クルアーンの内容が統一された
 *異本の発生を防ぐことができた
 ☆仏教の場合、ブツダの死後約400年経ってから
 *大乗経典が作られ始め、膨大な数の経典が創作れた
 ☆キリスト教の新約聖書も、イエス、キリスト死後
 *数十年から数百年かけて書かれ、多くの異なる福音書が存在した
 ☆クルアーンの一貫性は法解釈の基盤の安定
 *社会秩序の維持にもつながった

⛳聖職者のいないイスラーム教の信仰「六信五行」

 ☆イスラーム教は、聖職者という特定の階級を持たない宗教
 ☆イスラーム教の信仰の核心は「六信五行」
 *六信(アッラー、天使、啓典、預言者、来世、定命)の6つを信じる
 *五行(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)の5つの実践
 *これらの信仰と実践はムスリムに共通するものである
 *聖職者の存在を必要としない

イスラーム教の特徴的な点
 ☆信仰と日常生活が密接に結びついている
 *1日5回の礼拝は、ムスリムの生活リズムをかたちづくり
 *信仰を日々の生活に根付かせる役割を果たしている
 ☆ラマダーン月の断食
 *自制心を養い、貧しい人々への共感を深める機会となる
 ☆聖職者のいないイスラーム教の信仰形態は
 *個々の信者の主体性と責任を重視する一方で、共同体の重要性も強調する
 ☆クルアーンができた時代と現代では社会生活の前提も違う
 *教えをどのように実践するのか
 *現実とどう折り合いを付けるのかという問題も生じている
 *その為、イマーム、ウラマー、ムフテイーなどの、宗教指導者がいる
 ☆イスラーム教には多くの宗派や解釈があり
 *宗教指導者の役割や重要性は地域や宗派によって異なる
 *スンニ派とシーア派では宗教指導者の位置づけが異なり
 *シーア派ではより階層的な構造が見られる
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『藤原4家』『摂関政治』『春日大社』『下り藤』

2025年07月16日 | 宗教
🌸藤原氏、日本の代表的な氏族の一つ

 ☆ルーツは古代中央豪族の中臣氏にある

⛳藤原氏の始まり
 ☆藤原氏の始まりは飛鳥時代に遡る
 *大化の改新で功績を挙げた中臣鎌足
 *天智天皇から「大織冠」という最高位の冠位と「藤原」の姓を賜り
 *「藤原鎌足」と呼ばれるようになった
 ☆実質的な始祖とされるのは、その息子の藤原不比等
 *不比等は臣下として最高位である「朝臣(あそん)」の姓を賜る
 *「藤原朝臣」を名乗る
 *不比等は数々の改革を主導した非常に有能な人物だった
 ☆藤原四家
 *不比等の子である武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4兄弟
 *藤原南家、北家、式家、京家の四家に分かれ
 *藤原氏の発展の基礎を築く

⛳摂関政治の確立と最盛期
 ☆平安時代中期、藤原氏は娘を天皇の后にして天皇家の外戚となり
 *摂政や関白の地位を独占する摂関政治を展開
 *公家(貴族)として繁栄した
 ☆摂関政治の確立に大きく貢献したのは、藤原良房と藤原基経
 *良房は皇族以外の人物として初めて摂政となり
 *その養子基経は成人した天皇を補佐する「関白」の役職を確立した
 ☆摂関政治の全盛期を築いたのは、10世紀末に登場した
 *藤原道長とその息子の藤原頼通の時代
 *道長は多くの娘を天皇の后とし、外戚として絶大な権力を握る
 *頼通の時代も摂関政治は順調に権力を維持した

摂関政治の終焉と藤原氏の多様化
 ☆後三条天皇の即位など、藤原氏を外戚としない天皇が続いた
 *摂関政治の体制は崩れ、藤原氏の権力は表舞台から退く
 ☆藤原氏は、公家としてだけでなく
 *多くの地方官人を輩出し、武家となる家も生まれた
 *江戸時代に大名として残り、明治時代に華族となった家もある
 ☆藤原氏は日本の歴史において非常に大きな影響力を持った氏族
 *その系譜は多岐にわたっている

🌸春日大社は、藤原氏と非常に密接な関係にある神社

⛳春日大社は、藤原氏の氏神を祀る神社
 ☆四柱の神々が祀られている
 ①第一殿
 *武甕槌命(たけみかづちのみこと) 藤原氏の守護神
 ➁第二殿
 *経津主命(ふつぬしのみこと) 武甕槌命とともに藤原氏の守護神
 ③第三殿
 *天児屋根命(あめのこやねのみこと) 藤原氏(中臣氏)の祖神
 ④第四殿
 *比売神(ひめがみ) - 天児屋根命の后神
 ☆これらの神々は総称して
 *「春日神」と呼ばれ、藤原氏の繁栄と平城京の鎮護を願って祀られた

⛳春日大社の創建
 ☆都が平城京に遷された710年頃に藤原氏の氏神が祀られた
 *藤原不比等の孫、藤原氏の繁栄を祈願して春日大社を造営した
 *春日大社は、藤原氏の威光を全国に知らしめる象徴的な存在となる
 ☆藤原氏と春日大社の深いつながり
 *春日大社に隣接する興福寺は、藤原氏の氏寺であり
 *両者は一体となって藤原氏の信仰を支え、その権力を象徴した
 *藤原氏の力が強くなると、大和国全体が春日大社の神領となり
 *興福寺が春日大社を支配するような関係性も生まれた
 *藤原氏が氏神と氏寺を用いて大和国を支配下に置いた
 ☆「下り藤」の神紋(春日大社の神紋)
 *藤原氏の代表的な家紋である「下り藤」と同じ
 *これは、藤原氏との強い結びつきを示すも
 ☆春日詣と斎女(いつきめ)
 *平安時代には、藤原氏の長者や摂関が春日大社に参詣することを
 *「春日詣」と呼び、重要な儀式として行われた
 *伊勢神宮の斎宮や賀茂神社の斎院にならって
 *藤原氏は春日大社に奉仕する未婚の女性 「斎女」を置く
 ☆神鹿(しんろく)
 *春日大社の神鹿は、武甕槌命が白鹿に乗って
 *奈良の地に来たとされる伝説に由来し
 *古くから神の使いとして大切にされている
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                                                                                          (春日大社)

                                                                                    (下り藤)
『藤原4家』『摂関政治』『春日大社』『下り藤』
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『クルアーンの詠唱』『偶像崇拝』『クルアーン翻訳』

2025年07月15日 | 宗教
🌸原理主義台頭の背景にあるユースバルジ3

⛳神の啓示の言葉こそがクルアーンである
 ☆クルアーンを信じて帰依することを「イスラーム」という
 *イスラーム教の信者のことを「ムスリム」と呼ぶ
 *アラビア語の原義は「アッラーに帰依する者」の意味
 ☆マッカは交易商人たちの中継地
 *町の広場にはカアバと呼ばれる神殿があり
 *神殿前では商人たちが季節の平安を祈る祭礼や
 *旅路の安全を祈る祭礼などを実施していた
 ☆祭礼の中心的な行事のひとつが詩を「詠ずる」ことだった
 *部族の代表や隊商の頭領が体験や願望
 *神様へのメッセージを詠って競い
 *もっともすぐれた詩歌は神殿に捧げられた
 *イスラーム教の聖典、クルアーン「詠唱すべきもの」という意味
 *その様な理由からです
 ☆ムハンマドは、宗教的な指導者にとどまらず行政の長となり
 *多神教を信ずる部族と戦うときには自らが将軍ともなります
 *ムハンマドは無学で字が読めませんでしたが
 *宗教家・軍人。政治家いずれの面でも超一流でした
 *晩年近くにはマッカの多神教勢力に勝利を収めた
 ☆ムハンマドはマッカを征服したとき
 *カアバ神殿に祀られていた多神教の神々の像は排除した
 *神殿自体は壊さずにイスラーム教の神殿とした
 ☆ムハンマドは世捨て人ではなく
 *普通の市民として妻に看取られて死んだ
 *イエスやブッダとは、来歴も生涯の終え方も相当に異なる
 *彼の人生には、イスラーム教の現世的な特徴が反映されている

⛳偶像崇拝の禁止とクルアーン翻訳の忌避
 ☆イスラーム教
 *偶像崇拝の禁止とクルアーン翻訳の忌避の2つの重要な特徴を持つ
 *これらの特徴は、イスラーム教の教えの純粋性を保つため
 *信仰の一体性を維持する上で重要な役割を果たしてきた
 ☆ムハンマドは一神教の信仰を強調し、多神教の慣習を否定した
 *ムハマンドは、マッカを征服した際
 *カアバ神殿から偶像を一掃したことが知られている
 *アラビア半島に広く存在していた多神教の慣習と決別した
 *ムハンマドはそうした多神教の営みを否定した
 ☆ムハンマドの死後も大事なのは
 *クルアーンの言葉を声に出して詠うことでした

偶像崇拝の禁止&クルアーンの翻訳禁止の影響
 ☆イスラーム教の芸術にも大きな影響を与えた
 *人物や動物を描くことを避け
 *幾何学的なパターンや文字を用いた装飾が発展した
 *建築や工芸品に見られる繊細で複雑なアラベスク模様となった
 ☆クルアーンの翻訳を信仰上禁ずることは
 *イスラーム教の教えを統一し、しばらくのあいだ
 *解釈の多様化を防ぐ役割を果たしてきた
 ☆イスラーム教が広がった地域では
 *礼拝や宗教的な儀式でアラビア語が使用され
 *学問の言語としても重要な役割を果たした
 ☆イスラーム教が世界中に広がるにつれ
 *非アラビア語圏の信者が増加し、クルアーンの内容を
 *アラビア語以外で理解する必要性が高まっている
 *これらは正式なクルアーンとは見なされず
 *原文の意味を理解するためのサブテキスト扱いにとどまる
 ☆クルアーンの翻訳が許されていなかったため
 *イスラーム教の教えが他の文化圏に広まるのは遅くれた
                     (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
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⛳出典、『世界は宗教で読み解ける』



『クルアーンの詠唱』『偶像崇拝』『クルアーン翻訳』
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『中臣氏』『枚岡神社』『中臣氏祭祀職』『藤原氏政治』

2025年07月15日 | 宗教
🌸神社が語る古代12氏族の正体』での記載内容

⛳中臣氏に関する記載
 ☆中臣氏は、勝ち残った氏族たちの中で取り上げられている
 *枚岡神社が中臣氏に関わる神社として挙げられている
 *藤原氏も春日大社と関連付けて論じられている
 ☆中臣氏の歴史的役割

枚岡神社(ひらおか)との中臣氏の関連
 ☆中臣氏の祖神である天児屋命を祀る枚岡神社
 *中臣氏の氏神として非常に重要な位置を占めている
 *神社の由緒や祭祀、中臣氏との深い関係性がある
 ☆枚岡神社が古代の中臣氏の信仰や活動の中心であった

中臣氏の祭祀を司る氏族としての役割だった
 ☆大和朝廷において、中臣氏が神事・祭祀を代々担当してきた
 *その役割の重要性と忌部氏との関係や
 *宮廷祭祀における中臣氏の専門性など
 ☆彼らは、朝廷の祭祀権を独占していた

中臣氏、藤原氏への発展と分化
 ☆中臣鎌足が大化の改新で功績を挙げ、「藤原」の姓を賜った
 *中臣氏が藤原氏へと発展した
 ☆中臣氏の主流が祭祀職を世襲する大中臣氏として残り
 *藤原氏が政治の中枢に進出していった
 ☆氏族の分化とそれぞれが発展していった

仏教受容問題における役割
 ☆中臣氏は、物部氏とともに仏教の受け入れに反対し蘇我氏と対立
 *彼らの伝統的な祭祀の守り手としての立場から
 ☆「暗躍し、勝ち残った氏族」としての評価:
 *中臣氏が単なる祭祀氏族としてだけでなく
 *政治的な駆け引きや権力闘争の中で地位を確立し
 *後の藤原氏の繁栄の礎を築いたのが、天皇家との結びつき戦略的
                     (敬称略)
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⛳出典、『神社が語る古代12氏族の正体』



『中臣氏』『枚岡神社』『中臣氏祭祀職』『藤原氏政治』
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『女性の権利の変遷』『ジェンダーギャツプ指数』『合理的な教え』

2025年07月14日 | 宗教
🌸原理主義台頭の背景にあるユースバルジ2

イスラーム教と女性の権利の問題
 ☆誤解や偏見が多いもの、イスラーム教と女性の権利の問題
 *イスラーム教が興った7世紀初頭当時のアラビア社会
 *女性の地位は非常に低く、女児の間引きすら行われていた
 *イスラーム教は女性の権利を大幅に改善する教えをもたらした
 *クルアーンを読めば男女平等に近い発想の内容を含んでいる
 ☆イスラーム教の歴史で
 *女性の権利に関する解釈は時代や地域によって大きく変化していく
 *11世紀以降、女性の権利を制限する解釈が広まる
 ☆例
 ①女性の証言の価値を男性の半分とする解釈や
 ➁女性の外出や教育を制限する慣習が一部の地域で定着した
 *中世のイスラーム世界では女性の社会的地位が一般的には低下した
 ☆オスマン帝国時代にはハンム制度が確立され
 *スルタンの母や妻たちが、政治的影響力を持つようになる
 *「女帝時代」と呼ばれる16世紀後半から17世紀前半
 *スルタンの母親が実質的な権力を握ることもあった
 ☆19世紀に入ると西洋との接触が増え
 * 一夫多妻制の禁止や離婚の司法化など
 *女性の権利を大幅に拡大する改革が行われた
 ☆「クルアーンにある一妻は4人まで持つことを認める」の意味
 *ムハンマドの生きた時代が戦乱のさなかにあり
 *夫が戦死して自立して生きていけない寡婦をめとり
 *苦労をかけないために設けられた規定と考えられています
 *男性側の一方的な権利ではなく
 *2人目、3人目の妻を迎える場合には、妻の了承を得る必要もあり
 *女性に拒否権があった
 ☆20世紀後半から21世紀のイスラムの世界
 *一部の諸国では保守的な解釈に基づく法制度が強化されてもいる
 *インドネシアやマレーシアなど東南アジアのイスラーム諸国
 *比較的リベラルな解釈が主流で、女性の社会進出が進んでいる
 ☆「イスラームは女性差別が激しい」との偏見だけで見るべきではない
 *男女格差をあらわすジェンダーギャツプ指数
 *日本は世界のなかでも下から数えたほうが圧倒的に早い
 *東南アジアのイスラーム教国(インドネシア、マレーシア)
 *中東湾岸諸国(UAE)などは日本よりも順位が上

⛳イスラム教は、商人ムハンマドがつくったゆえの合理性

 ☆イスラーム教は、ムハンマドが神からの啓示を受けたことに始まる
 *彼は唯一神アッラーの教えを、彼は移住して人々に伝え
 *そこにイスラーム共同体を形成した
 *彼の移住は「ヒジュラ(聖遷)」で、イスラーム暦の元年
 ☆商人としてさまざまな経験を積んだうえで
 *40歳で天啓を受けたムハンマドの教えは
 *とてもわかりやすくて合理的
 *ベースは、普通の人間がどう生きていけば
 *その人個人と他者の幸福につながり
 *弱き者を助けることになるのかを
 *当時の社会的現実に合わせて考え尽くしたものに思える
 ☆ムハンマドは多神教世界で育ち、商人となり
 *裕福な女商人ハデイージャに見込まれて結婚する
 *ふたりの仲はよく、二男四女と子どもにも恵まれました
 *ふたりの息子は幼くして亡くなっている

⛳ムハンマドはヒラー山の洞窟にこもって瞑想を始める
 ☆その洞窟になぞの訪問者があらわれた
 *来訪者は、ムハンマドに「誦め―」と言う
 *ムハンマドは読み書きができませんでしたから
 *「私は読むことができません」と答えた
 *しかし、ムハンマドは「誦め!」と迫られ続けられり
 ☆「私の心に想うことを、声を出して誦むのだ」
 *来訪者が想っていることをムハンマドに声を出して
 *歌のように復唱しなさい、という意味だった
 *そうして来訪者は神の啓示を伝えてムハンマドに復唱させると
 *洞窟の外へ飛翔して消え去ったと伝えられている
 ☆来訪者は、神に仕える大天使ジブリール(ガブリエル)
 *聖母マリアに懐胎を告知した天使
 *ジブリールは神の言葉をムハンマドに預け
 *人々に教えなさいと命じた
 ☆唯一神アッラーはムハンマドに最後の審判の日が近いと告げ
 *その日のために備えるように人々に伝えなさいと
 *アッラーを信じ、教えに従って善行に励みなさいと命じた
 *ムハンマドは神の言葉(啓示)を預かり人々に伝える者「預言者」になる
                     (敬称略)
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
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『中臣氏祭祀担当』『中臣鎌足⇒藤原鎌足』『藤原氏分離』

2025年07月14日 | 宗教
🌸中臣氏(なかとみうじ)
 
 ☆古代日本の有力な氏族の1つ
 ☆忌部氏とともに古くから大和朝廷の神事・祭祀を司ってきた

⛳中臣氏の起源と本拠地
 ☆祖先
 * 天児屋命(あめのこやねのみこと)を祖先と称す
 *天児屋命は、高天原の神話で、祭祀に関わった神として知られている
 ☆本拠地
 *現在の京都市山科区中臣町付近を拠点としていた
 *中臣鎌足の出生地は、大和国高市郡とされている

⛳中臣氏の役割と特徴
 ☆祭祀を司る
 *大和朝廷において、宮廷の祭祀を代々担当した
 *忌部氏と並び、神祇に関わる重要な氏族
 ☆仏教受容問題
 *中臣氏は物部氏と仏教の受け入れに反対し、蘇我氏と対立

⛳中臣氏と藤原氏との関係
 ☆中臣氏から派生した最も有名な氏族が藤原氏
 ☆中臣鎌足(なかとみ の かまたり)
 *中臣氏の出身で、大化の改新の中心人物として
 *中大兄皇子(後の天智天皇)を助け
 *蘇我氏を打倒し政治改革を進めた
 ☆藤原姓の賜与
 *鎌足が病に伏した際
 *その功績を称えて天智天皇から
 *大織冠という最高位の冠位と「藤原」の姓を賜わる
 *鎌足は「藤原鎌足」となり、その子孫は藤原氏を名乗る
 ☆氏族の分離
 *鎌足の子である藤原不比等(ふひと)以降
 *藤原氏は政治の中枢を担い、絶大な権力を握る
 ☆鎌足の子孫以外の中臣氏の者
 *神事・祭祀職を世襲し、奈良時代後期からは
 *「大中臣氏」と呼ばれ、嫡流が神祇官や伊勢神宮の神職などを務める
 
⛳中臣氏の主な後裔
 ☆藤原氏、大中臣氏の他
 ☆中村連、春日神社神主家(社家)、気比神社神主家(社家)
 ☆鈴鹿家(社家)、鹿島氏(社家)などが中臣氏の後裔
                     (敬称略)
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⛳出典、『神社が語る古代12氏族の正体』『ジェミニ』



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『原理主義』『ユースバルジ』『ジハード』

2025年07月13日 | 宗教
🌸原理主義台頭の背景にあるユースバルジ1

⛳原理主義が台頭する原因は「ユースバルジ」
 ☆「ユースバルジ」の問題
  *人口構成で若年層が突出して多い状態を指す言葉
 *ユースバルジは急激な人口増加によって起こる
 *医療の発達により乳幼児死亡率が低下し
 *出生率が高い状態が続くと若年人口が急増する
 *若者の人口増加は、国の活力となると同時に
 *深刻な社会問題を引き起こすリスクともなる
 *多くの若者が安定した職を得られない状況に陥る
 ☆現代の中東諸国では、このような状況が見られる
 *多くのイスラーム圏の国々で急激な人口増加が起こる
 *しかし経済発展のペースはそれに追いつかず
 *若者の失業率が高止まりしている
 ☆この受け皿となっているのが過激なイスラーム主義組織
 *組織は、イスラームの教えに立ち返ることで解決すると主張する
 *ISはイスラーム初期の理想的な統治形態の再現を謳っている
 *IS台頭のような現象はイスラーム圏に限ったものではない
 ☆中国の義和団の乱
 *若年層の不満が爆発した例と言える
 *義和団は中国で起こった民衆運動です
 *中国は、西洋列強の進出で政治・経済的にも圧力にさらされていた
 *人口増加と経済停滞に苦しみ、若者は将来に希望を持てずにいた
 * 「扶清滅洋」(清朝を助け、外国人を追い払う)
 *スローガンに掲げた義和団が台頭した
 ☆十字軍を派遣した西ヨーロッパ
 *気候の温暖化に伴い、自前の領土を持てず
 *食い詰めた部屋住みの次男坊、三男坊があふれており
 *こうした人たちの出稼ぎ的な意味もあった
 ☆フランス革命
 *若年層の不満が一因となっていた
 *人口増加と経済停滞が重なり
 *多くの若者が将来に希望を持てない状況にあった

⛳世界では物理的な占領地域は喪失した
 ☆過激派思想に惹かれる若者を生み出す構造自体は変わっていない
 *ユースバルジ問題の解決には、経済発展と雇用創出が不可欠
 ☆若者たちに希望を与え
 *社会や政治に建設的に参加できるチャンネルを提供するのも重要
 ☆イスラーム教は平和と共生を説く教え
 *過激思想に対抗するには、穏健な解釈を持つ既存の宗教組織が
 *不満や不安を抱える人々を包摂する施策を打ち出す必要もある

⛳ジハード(聖戦)の根底にある寛容と慈悲
 ☆アルカーイダやISなどを論じる際
 *「ジハード」という言葉が用いられ「聖戦」と訳された
 ☆「ジハード」は、「クルアーンか剣か」と並んで
 *イスラーム教の暴力性を象徴するものとして誤解されがち
 ☆本来、イスラームが説くジハードの根底には
 *寛容と慈悲の精神が存在する
 *ジハードの本来の意味は「努力」や「奮闘」を指す
 *必ずしも武力による戦いを意味するものではない
 ☆イスラーム教では
 *ジハードを大ジハードと小ジハードに分けて考える
 ①大ジハードは自己の内なる悪と戦い
 *より良い人間になるための精神的な努力を指す
 ➁小ジハードは外敵からイスラーム共同体を守るための戦い
 *これも単なる武力行使ではなく
 *正当な理由と厳格な規則のもとでのみ許されるもの
 ☆ジハードの概念
 *「武力による防衛」の意味で強調されてきた
 *西洋列強による植民地支配に直面したイスラーム世界では
 *ジハードの概念が反植民地闘争の文脈で用いられるようになる
 ☆しかしイスラム教学者や指導者たちは
 *ジハードの本質が平和と共生にあることを強調している
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「倭氏は氏族」『大神神社』『石上神宮』

2025年07月13日 | 宗教
🌸神社が語る古代12氏族の正体が語る『倭氏』

⛳「倭氏」を氏族として取り上げている
 ☆「倭氏」の起源や系譜に言及している
 *「大和氏」又は「倭氏」として古代の大和国(奈良)を本拠地とし
 *国造などを務めた氏族に焦点を当てている
 ☆大和氏(倭氏)のルーツ
 *彼らが大和王権の成立にどのように関わったのか
 *どのような役割を担ったのかが記述されている
 *彼らが祭祀を司っていた

⛳関連する神社
 ☆大和氏(倭氏)が創建に関わったとされる神社
 *彼らが祭祀を司っていた神社(奈良県内の古い神社)
 ☆大神神社や石上神宮など
 *大和王権と密接な関係にあった神社との繋がりが記載されている
 ☆氏神を祀る神社や、氏族の信仰の中心であった神社が挙げられている

⛳大和氏(倭氏)大和王権との関係性
 ☆大和氏が、どのようにして大和王権(後の天皇)と結びつき
 *その発展に寄与したのか
 *祭祀を司る役割や、朝廷内での地位などについても言及する
 ☆「倭」という呼称の変遷
 *古代の「倭国」という国号や「倭人」という呼称から
 *特定の氏族「倭氏」「大和氏」への変遷についても記載している
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『ヨハネ・パウロ2世』『新しい福音宣教』『ローマ教会』

2025年07月12日 | 宗教
🌸資本王義の原型をつくった予定説6

⛳ヨハネ・パウロ2世の特別ミサ

 ☆ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は特別ミサを執り行う
 *パウロ2世は、ポーランド出身で
 *455年ぶりの非イタリア人教皇として注目を集め
 *伝統的な教えを守りつつも
 *現代社会の課題に積極的に取り組む姿勢を示した
 ☆特別ミサはサン・ピエトロ(聖ペトロ)大聖堂で行われた
 *世界中から集まった数万人の信者が参列していました
 *教皇は教会の過去の行い、とくに十字軍や異端諮問、
 *ユダヤ人迫害、植民地での先住民への暴力
 *女性や少数派に対する差別など
 *教会が関与した不正義について言及し公式に認め、謝罪した
 *これらの行為はキリスト教の教えである
 *愛と寛容の精神に反するものであり、教会はこれらの過ちを認め
 *二度とくりかえさないことを誓いました
 *ヨハネ・パウロ2世が推進の「新しい福音宣教」を象徴する行動

⛳特別ミサは、ローマ教会の歴史において転換点となった
 ☆ローマ教会は自らの過ちを公に認めることがほとんどなかった
 *信仰および道徳に関する事柄について
 *ローマ教皇は間違うことがない存在だとされてきたから
 *非を認めると教義と矛盾が生じてしまう
 *したがって、なかなか謝ることもできなかったのでしょう
 ☆特別ミサの背景には、20世紀後半から進んできた
 *教会の刷新の動きがあった
 ☆2000年のヨハネ・パウロ2世の発言
 *教会の内外で大きな反響を呼び
 *多くの信者が勇気ある行動だと歓迎した一方で
 *教会の権威を損なうものだと批判する声もあった
 ☆特別ミサ以降も、ヨハネ・パウロ2世は和解と対話の姿勢を示す
 *ヨハネ、ハウロ2世の後継教皇であるベネディクト16世
 *フランシスコも教会の過ちを認める姿勢を継続している

⛳数あるキリスト教のなかの一派としてのローマ教会
 ☆現在のキリスト教大きく分ければ
 *ローマ教会、東方教会、プロテスタント諸教会の3つに分類される
 *ローマ教会は信者数がもっとも多く組織的にも強固ですが
 *キリスト教全体から見ればひとつの教派にすぎません
 *ローマ教会が主張する教皇の首位権、ローマ教皇の無謬性は
 *ほかの多くの教派には受け入れられていない
 ☆世界各地にはローマ教会とは異なる伝統を持つ古い教会も存在する
 *エジプトのコプト教会、シリアのヤコブ派教会、アルメニア使徒教会等
 *5世紀の公会議の決定に従ゎず、独自の教義と伝統を守り続けてきた
 *近代以降にも新しいキリスト教の教派や運動が生まれています
 *モルモン教、エホバの証人、ペンテコステ運動などは
 *新しぃかたちのキリスト教と言える
 ☆ローマ教会はひとつの大きな流れですが
 *決してキリスト教全体を代表するものではない
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                     ヨハネ・パウロ2世

                        ローマ教会
『ヨハネ・パウロ2世』『新しい福音宣教』『ローマ教会』
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『倭国』『倭人』『倭氏』『倭漢氏』

2025年07月12日 | 宗教
🌸「倭氏」

 ☆紀元前から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまでの間
 *中国の王朝が日本列島を中心とする地域やその住人を指す際
 *「倭」であり、「倭氏」はその中の人々を指す総称
 ☆倭国 (わこく)古代日本の政治勢力を指す
 ☆倭人 (わじん)倭国の国民だけでなく、日本列島の住人を指す

⛳「大和政権」
 ☆「大和政権(大和王権)」
 *この時代はまだ統一国家としての政府が成立していなかった
 ☆大和国造(倭国造)を世襲した氏族の「倭氏」
 *奈良盆地(のちの大和国)の中部地域を支配し
 *「倭国造(大倭国造)」を世襲した氏族が「倭氏」と呼ばれる

⛳倭氏の歴史と役割
 ☆伝承によれば、神武天皇の東征の際に水先案内を務めた
 *椎根津彦(しいねつひこ)を祖先とする
 ☆倭氏は、大和王権における祭祀を司る氏族としての役割も持つ
 *大和の大王(後の天皇)に近いレベルの神であった
 ☆古墳時代には
 *大王家へ采女(うねめ)を献上することが、恒例となっていた
 ☆奈良時代頃に国名が「倭国」から「大和国」などに変わるにつれて
 *氏族名も「大倭氏」「大養徳氏」「大和氏」と変遷していく
 *子孫には奈良時代の法律家である大和長岡などがいる

⛳渡来系氏族としての「倭漢氏(やまとのあやうじ)」
 ☆「倭漢氏」は「東漢氏」とも表記され、朝鮮半島南部から渡来氏族
 *後漢の霊帝の子孫を称し
 *秦の始皇帝の子孫を称する秦氏と並び称される
 *巨大な渡来系氏族でした
 *彼らは先進の技術や学問を日本にもたらし
 *政治や文化の発展に貢献した
 ☆雄略天皇の時代に直(あたい)姓
 *天武天皇の時代に連(むらじ)姓、忌寸(いみき)姓などを賜わる
 ☆東漢(倭漢)と西漢(河内漢)の2つの系統があり
 *後から渡来した今来漢人(いまきのあやひと)も加わり、
 *大きな勢力を築いた
 ☆「倭氏」は文脈によって指す対象が異なる
 *古代日本の初期国家形成期や
 *特定の有力氏族について言及する際に使われる
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                   (魏志倭人伝倭人)


『倭国』『倭人』『倭氏』『倭漢氏』
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『2つのヤマト(北九州・畿内)』『出雲神』『神武天皇=応神天皇』

2025年07月11日 | 宗教
🌸尾張氏(熱田神宮)3

⛳2つのヤマト(北九州・畿内)
 ☆ヤマトタケルの子・仲哀天皇クマソが背いたから
 *西征に赴いている
 ☆仲哀の妻神功皇后に、神託が下り
 *「クマソにこだわらず、新羅を討て」という
 *仲哀天皇は神の言葉を信じなかったために変死する
 ☆神功皇后は軍勢を率いて南下すると
 *新羅を圧倒して凱旋し
 *のちに応神天皇となる皇子を生み落とした
 *神功皇后は応神を連れて、ヤマトに戻ろうとしたが
 *応神の腹違いの兄たちが
 *「応神は王位を狙っている」と恐れ迎え撃とうとした
 *神功皇后はこれらを蹴散らし、ヤマト入りを果たした
 ☆『日本書紀』の記事を素直に受けいれることで
 *神功皇后が攻め落とした山門県の女首長
 *山門県は、邪馬台国北部九州論の有力な候補地なのだ

 ☆山門県の女首長を殺した神功皇后いたる場面で
 *「海のトヨの女神」とつながっていたことから
 *「北部九州ヤマト(邪馬台国)の卑弥呼」を
 *「畿内ヤマトの台与(神功皇后)」が倒したものと推理出来る

神功皇后の誤算
 ☆江戸時代の国学者・本居宣長も、同様の問題に注目していた
 *邪馬台国は畿内(ヤマト)にあったのに
 *北部九州の女首長が「われわれがヤマト」と偽って魏に報告した
 *これが「邪馬台国偽僣説」である
 ☆山門県の卑弥呼が、外交戦で形勢逆転をもくろみ
 *「倭国のヤマト」を名のって魏に朝貢し
 *「親魏倭王」の称号を獲得することに成功した
 ☆北部九州で神功皇后は敗れ
 *有明海から船を漕ぎだしていない
 ☆「出雲の国譲り」と「天孫降臨」の神話の真相である

⛳神功皇后(トヨ)が山門県の女首長を減ぼした
 ☆「畿内の新生ヤマト」と「北部九州」のにらみあいだったヤマト
 *瀬戸内海の覇権を維持したいキビ(物部氏)の勢力と
 *北部九州沿岸地帯からイヅモ、タニハ、コシと続く日本海勢力との
 *新たな対立軸に変わった
 ☆選択を迫られたオハリ(尾張氏)
 *瀬戸内海の勢力に加担し瀬戸内海側が勝利し
 *物部氏の祖(ウマシマジ)と尾張氏の祖が日本海に進出した

⛳神武―崇神―応神の系譜
 ☆『日本書紀』は、ヤマト建国の詳細を闇に葬る必要があった
 *『日本書紀』は、神功皇后やタニハ連合
 *日本海勢力のすべてをひとくくりにし
 *「出雲」ひとつの問題として表現したので
 *一連の歴史を再現するのは困難だった
 ☆南部九州に退却した神功皇后と応神
 *ヤマトを恨み、呪っていた、ということである
 *ヤマトにすれば、神功皇后との戦いは
 *「裏切り」に等しかった
 ☆「親魏倭王=卑弥呼」を殺しを魏に知られたくないがために
 *神功皇后(トヨ)が、北部九州で新たな倭国を名乗った
 *ヤマトと神功皇后とのあいだに疑心暗鬼が生まれた
 ☆崇神天皇は、吉備系の誰かで、王位にはついたものの
 *相次ぐ天変地異と疫病の蔓延に辟易することになった
 *占ってみると、「出雲神オオモノヌシの祟り」とわかる
  ☆「出雲神」
 *瀬戸内海勢力に敗れた日本海勢力の象徴的存在をあらわす
 *神功皇后やその子・応神天皇であった

 ☆「出雲神の祟り」を鎮めるため
 *神を祀る王としてヤマトに連れてこられ
 *担ぎあげられたのが、神武天皇=オオタタネコであるが
 *オオタタネコは、応神天皇と同一人物なのである
 ☆祟られた崇神天皇のあとに、祟る応神天皇が登場する
 *応神天皇の事跡を、崇神天皇よりも古い神武天皇の事跡として語らせる
 ☆このカラクリによって、神武―崇神―応神という
 *「神」の一字を持つ三天皇の皇統譜が構成されていた
 *神功皇后と応神天皇の事跡は
 *ヤマト建国前後の瀬戸内海と日本海の葛藤の歴史そのものだった
 ☆「天皇と出雲神は、鏡に映した表と裏」
 *タニハ連合の分裂こそ
 *多くの悲劇を生みだすことになった
 ☆タニハ連合に与したイヅモと北部九州
 *ほとんどの場所が、ヤマト建国後に没落している
 *ひとり勝ちしたのは、キビ(瀬戸内海勢力)の物部氏
 ☆神功皇后を裏切った人びとの側にも
 *やるせない気持ち、恨みが残された
 *ヤマトタケルの恨みは、さらに深い謎に包まれていく
                     (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳出典、『神社が語る古代12氏族の正体』



                    (出雲神)

『2つのヤマト(北九州・畿内)』『出雲神』
『神武天皇=応神天皇』
(ネットより画像引用)
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