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愛知の街道を行く シリーズ1「宮宿」-4-

2024-01-31 07:20:17 | 取材・旅行

2024年1月27日(土)、栄中日文化センター主催、「愛知の街道を行く シリーズ1」(2024年1~5月)「宮宿」へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、数回にわたって紹介します。

今日は、「宮宿」の4回目。

今回のルートです。左下の宮から右下の「桜」駅の近くまで歩きます

この画像の出典がすごい!

Network2010 はすごいサイトです!https://network2010.org/article/451

今回説明するのはここ

①の前に、「伝馬町(てんまちょう)」について。

私が住む江南市古知野にも「伝馬町」があります。

どういう意味?

Wikipediaでは

伝馬町(てんまちょう)とは、江戸時代の城下町に置かれた町。伝馬役と呼ばれる領主(幕府・藩)のための伝馬およびそれに関連した夫役を負担していた。

今日でも「伝馬町」と称される地名が日本各地に残されている。

江戸時代は領主の通信・交通・輸送のために伝馬の制度を整備し、本拠である城下町はその重要拠点となった。伝馬町はその城の大手門からほど近い場所に置かれるのが例であった。

江戸幕府の本拠地であった江戸の場合、江戸城の大手門にほど近い日本橋を中心に五街道が整備され、日本橋の周辺に五街道向けの伝馬を担う大伝馬町・南伝馬町と江戸内部の伝馬を担う小伝馬町が設けられた(南伝馬町は現在は京橋の一部となっているが、大伝馬町と小伝馬町は現在も日本橋大伝馬町・日本橋小伝馬町として地名が残る)。

時代とともに、伝馬町の住人で実際に伝馬に関わるのは伝馬役所が置かれた町名主の家などに限定され、多くの地主や家持は金銭などの形で伝馬役を負担した。伝馬町は伝馬役の負担によって城下町の他の地域よりも過重な負担を強いられたが、反面において交通網の整備に伴って商店や問屋などが進出して商業地域として発展する場合もあった。また、地域によっては特定商品の専売権を与えられることで負担に対する見返りが享受される場合もあった。


古知野の伝馬町はここから

 http://match345.web.fc2.com/aichi/kochino/main.html


次は亀谷芳広本店です。

一般に、街道沿いには和菓子店が多いのですが、亀谷芳広は、市内に17店舗ある、名家中の名家です。

HPは

https://www.kameya-yoshihiro.co.jp/about.html

あの美濃忠ですら3店舗、松河屋は2店舗、両口屋は多いのですが百貨店などのが多いのです。

では、亀屋の意味は?

第1回で紹介した、『「語りたくなる名古屋」の実現をめざして』より紹介します。


【熱田神宮と蓬莱島】
 蓬莱島とは、中国の伝説で、東海中にあって仙人が住み不老不死の地といわれる所。熱田神宮を蓬莱島とみる伝承は、すでに平安時代からある。わが国における蓬莱島伝承は各所にあるが、多くは秦の始皇帝と徐福の伝説であるが、熱田ではもっぱら玄宗と楊貴妃のことが語られている。玄宗が日本を攻め取らんとしたとき、熱田明神が美女と成って玄宗の心を迷わせたとするのである。伊勢湾奥の鎮守の森を蓬莱島の聖地とする基盤のうえに、日本武尊が川上梟師(かわかみのたける)を女装して討ったことが附会されたのであろう。近世にはこのことはよく知られ、「玄宗は尾張言葉にたらされる」などの川柳にもなっている。名古屋を蓬左というのは、京都からみて、熱田の左に位置するからである。また蓬莱島はの甲の上にあるということから、熱田神宮周辺の寺院は、山号にの字のつくところが多い
(「名古屋の史跡と文化財(新訂版)(平成 3 年)」などより)


ぜひ、亀を探してみてください。

さて、いよいよ①の説明に入ります。

徳川家康幼時幽居地

テキスト化してみましょう。


徳川家康幼時幽居地
(加藤図書助屋敷跡)
松平竹千代、のちの徳川家康が天文十六年(一五四七)八月、六歳のとき、織田信秀(信長の父)のため人質となって、このあたにあった加藤図書助順盛の屋敷幽閉された。また、このあと、那古野城内天王坊にも幽閉されたといわれる。

天文十八年十一月、竹千代八歳のとき一時岡崎に戻ったが、再び、今川氏の人質として駿府へ行った。


現在は羽城公園となっています。

動画でご覧ください。

No.534_城跡巡り 熱田羽城址(愛知県名古屋市)

 

 


②は裁断橋跡です。

私は大口町に4年間(教育委員会2年、教頭2年)勤務していたので、裁断橋についての思い入れが強いのです。

その舞台がここ。

1590年、小田原の戦いに、18歳の堀尾金助は出発しましたが(松江城を作った堀尾吉晴公との関係はよくわかってはいません)戦地で病に倒れ亡くなりました。裁断橋まで出征を見送った母は、翌年、供養のために裁断橋を架け替えました。(その財力があるということは、かなりの身分だったのでしょうか?)その後、33回忌にも再度架け替えを行い、擬宝珠に刻まれたわが子に対する母の想いが人々に語り継がれました。

なお、愛知県大口町に堀尾一族の屋敷があったことから、同町の五条川にも裁断橋と擬宝珠が復元され堀尾跡公園となっています。

それでは、名古屋市博物館のHPよりその文を見てみましょう。


 元和8年(1622)、この橋の架け替えを行った女性がいる。堀尾金助の母だ。金助は尾張国丹羽郡御供所村(ごくしょむら・愛知県丹羽郡大口町)の土豪出身で豊臣秀吉配下の武将として活躍した堀尾吉晴の一族(長子、従兄弟などの説があるが不詳)。天正18年(1590)の小田原城の北条攻めに18歳で従軍したが戦場で病死したと言われている。これを悲しんだ母は、金助の菩提を弔うため、没後まもなく第1回の架け替えを行っている。その後、金助の33回忌を迎えるにあたり、再度の架け替えを行った。これが元和8年のことで、この時に擬宝珠(ぎぼし)に刻まれた銘文が、わが国屈指の名文として知られている。四基の擬宝珠の内、三基には漢文の銘(ほぼ同文)、一基にはかな書きの銘文が刻まれているが、時代を超え、人々の涙を誘ってやまないのはこちらの方だ。

〔かな銘文〕

てんしやう十八ねん二月十八日に、をたはらへの御ちん、ほりをきん助と申、十八になりたる子をたゝせてより、又ふためとも見さるかなしさのあまりに、いまこのはしをかける事、はゝの身にはらくるいともなり、そくしんしやう ふつし給へ、いつかんせいしゆんと、後のよの又のちまて、此かきつけを見る人は念仏申給へや、卅三年のくやう也

〔書き下し文〕

天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申す、十八になりたる子を立たせてより、又ふた目とも見ざる悲しさのあまりに、今この橋を架ける事、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給え、逸岩世俊(金助の法名)と、後の世の又後まで、此書付を見る人は念仏申し給えや。三十三年の供養也。

 原文の文字はわずか百四十五字。一字一字が丁寧に刻まれ、素朴で清廉な味わいがある。この下書きとなった文章や文字を実際は誰が書いたのかについては確証がない。ただ、この文章を読み、文字をながめていると、金助の母以外にこの文章や文字を書けた人がいたとはとても思えない。それほど率直で深い実感のこもった文章と文字である。

 功徳を施して肉親の成仏、極楽往生を願うことは当時として特別なことではない。しかし、ことさらこの橋、金助らが小田原へ出陣の際は通ったであろうし、また三途橋の名もある橋を選んだのは、「又ふた目とも見ざる」息子に語りかけたかったからではないだろうか。

 出典 https://www.museum.city.nagoya.jp/collection/data/data_34/index.html

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姥堂
延文三年九月(一三五八) 法順上人が亀井山圓福寺の巌阿上人に帰依して、この場所に創建したと伝える。本尊姥像は熱田神宮に在ったものを、ここに移したと伝えられ姥像の衣紋に熱田神宮
の桐竹の紋が金で描かれてあった。旧東海道筋に在ったので古文書や古地図で存在は早くから知られており尾張名所図会にも登載されている。
昭和二十年三月の戦災で堂宇本尊ともに焼失したが、姥像は高さ八尺の座像で、その大きさから奈良の大仏を婿にとると江戸時代俚謡に歌われたほどである。
尊容から奪衣婆と見る説もあるが、両手に童顔の御像を捧持していること、熱田神宮伝来などから日本武尊の母か宮簀媛命の像ではないかとも想定されている。昔から民間では安産や子育て・
家内安全の仏として信仰され「おんばこさん」と呼ばれ親しまれてきた。現在の本尊は平成五年五月に焼失前の写真を元に四尺の大きさで復元した御像である。


そして裁断橋です。

テキスト化してみましょう。


裁断橋

文献では永正六年(一五九) 『熱田講式』に名が見られるのが初見とされている。 姥堂のすぐ東に精進川が流れていて、そこに架けられていたが大正十五年に川が埋立られ、橋の擬宝珠四基は残されて道路脇に保存されてきた。大正十五年出版の『橋と塔』浜田青陵により全国的に存在が知られ、母が子を思う擬宝珠の仮名書き銘文が多くの人々の感動を呼び有名になった。
昭和二十八年三月地元伝馬町の人々の尽力により姥堂地内に擬玉珠四基が移設保存され、後には小学校の教科書に堀尾金助の母の銘文が取り上げられもした。 しかし、青銅の擬宝珠の腐食が進み損耗の恐れが甚しくなったので平成四年三月に名古屋市当局がこの場所より撤収した。

圓福寺では、金助の母が「後の世のまた後まで」と願った思い、子を思う煩悩昇華して万人の為に尽くす行為に替えた菩提心を後代に伝える為に、母の銘文の拓本を取り平成五年五月此処に架設した。


「都々逸発祥の地」の碑もありました。

動画で見てみましょう。冒頭に裁断橋が出てきます。

尾張名所図会で歴史探訪No 3 東海道宮宿[Network2010]

 

③は伝馬町一里塚です。

 

④は、鈴之御前社(れいのみまえしゃ) Wikipediaからの解説です。

熱田神宮の境外末社で、祭神は天鈿女命。地元では俗に「鈴の宮(れいのみや)」と呼ばれる。かつては精進川という川がこの宮のそばを流れており、東海道を往来する旅人が熱田に参拝する時はこの社で鈴のお祓いを受けて身を清めてから参拝する事になっていた。

戦後、旧東海道に面した現在地に遷座した。

⑤は、この日には行っていませんが、ついでに紹介します。

南楠社、笹社、天王社、秋葉社

境内は、明治時代の歌舞伎の名優・中村宗十郎の出生地にもなっています。

画像出典 http://nagoya-sanpo.info/upload/detail/image/kanban-5a1e6-thumbnail2.jpg.html

動画をご覧ください。

中村宗十郎

 

明日に続きます。あと2回です。


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