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堀川七橋めぐり -7-

2024-05-05 07:25:35 | 取材・旅行

2024年4月29日(月)、愛知ウォーキング城巡りクラブ GW番外編史跡散策会「堀川七橋めぐり」へ行ってきました。 講師は、七種英康先生です。その様子を、7回にわたって紹介してきました。

今回の結論は、次の動画に象徴されています。堀川の視点でご覧ください。

ただし、尾頭橋は新橋と表記されています。

アーカイブス 江戸時代の名古屋CG(古地図と尾張名所図会)

第7回は 五条橋 周辺、最終回です。

当時の図を見てみましょう。

伊藤家です。

伊藤家は清須越の商家で、通称で「川伊藤」と呼ばれていました。江戸時代には、尾張藩の御用商人を務めました。
住宅は、本家、新座敷、南座敷からなる主屋と、蔵、新土蔵、西倉、細工倉等からなり、堀川の水運を利用して家業を営んだ商家の屋敷の典型例として貴重な遺構となっています。
主屋と表蔵は大船町筋、蔵は四間道に面して建ち並んでおり、通りの西側に町家、東側に蔵という四間道の町並み保存地区の特徴的な景観を形成するとともに、町並みにおいて目をひく極めて重要なシンボルとなっています。

https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000108511.html

伊藤家を探してみてください。

図中の①②③の説明です。

①伊藤銀行址です。

「いとう呉服店」の当主第14代伊藤次郎左衞門により明治14年(1881年)に設立された名古屋で最初の私立銀行。 昭和16年(1941)に、名古屋銀行、愛知銀行と合併、東海銀行を設立。平成14年(2002)三和銀行と合併し、UFJ銀行となった後、 平成18年(2006)、東京三菱銀行と合併し三菱東京UFJ銀行となった。

https://network2010.org/article/703

②伊藤屋(茶屋町)

慶長16年(1611)、織田信長の家臣伊藤源左衛門祐道が名古屋の本町で呉服小間物商を始めた。その後、万治2年(1659)祐道の遺児・祐基が茶屋町に呉服小間物問屋を開業。「現金売り正札付き掛け値なし」の商法は庶民の支持を受けた。明和5年(1768)上野の松坂屋を買収、いとう松坂屋と改めた。

https://network2010.org/article/13

③風月堂書林址

上画像は、『尾張名陽圖會』巻之一より「書林風月堂」*。 

説明文は、冒頭で、名古屋書林のはじめなりと書いて、「書林」に「ほんや」と振仮名があります。

此地に書林をはじめ本町一丁目の京町の東南角に小き店を出せしが元来風雅を好て誹名を夕道といふ店は本町一丁目の京町の東南角にあったのであり、誹師ばせをの翁、かの風月堂の店に立寄り珍しき本もありやとしばらく休居帰らんと出かけの折ふし雪のふり出しければ即吟の発句を書て夕道にあたへられし 

芭蕉が訪れ、発句を書いて、主人に与えたことがあったようですhttps://ameblo.jp/pitazou/entry-12341794929.html


今回のゴール、五条橋です。

新しい道標です。

階段は当時からのものでしょう。レンガも渋い!

昭和11年の五条橋です。

説明板です。

文字起こししてみましょう。


五条橋
1610年(慶長15) 尾張の首府が清須から名古屋へ移されることになった。
「清須越」といわれ、翌年にかけて名古屋城築城、 城下町建設資材や、 生活物資搬入のため堀川が開削された。 五条橋はそのとき架けられた 「堀川七橋」の一つで、擬宝珠に慶長七年壬刀六月吉日 (1602) の銘があり、 清須から移された橋である。

「清須越」では城・石垣・橋・寺社・家屋・町名まで移された。現在の橋は1938年(昭和13) にコンクリート製で復元されたもの。
五条橋の西詰を南北に通る道は歴史街道 「美濃路」 である。 東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ官道で、 東海道から分かれて美濃へ向かう街道のため 「美濃路」と呼ばれた。江戸時代、京 大坂と江戸を結ぶ重要な街道として、五街道と同じく道中奉行の支配下に置かれた。 清須越の折、 名古屋の美濃路は現在の位置に定められた。
堀川西岸美濃路に面し、西側に清須越商人の主屋が建ち並び、その裏側に裏蔵が建ち、美濃路と堀川の間には表蔵が並び、 城下の物流を担った清須越商家の豪壮な町並みが形成されていった。 1700年(元禄13) このあたり一帯が焼失し、 堀川を越え延焼した大火があった。 その後、 城下への延焼を防ぐため、美濃路の西側裏道を4間へ拡幅し、 その東側を石垣積で盛土し、塗籠造りの土蔵を奨励した。 そのため 「四間道」といわれるようになり、東側に河戸石の石垣上に土蔵群、西側に町家が並ぶ現在の景観がこのとき生まれた。
堀川の両岸には、いたる所に共同物揚場が設けられた。 ここ五条橋では橋の四隅を石畳とし、護岸と道路を結んだ。 舟運により350年にわたり繁栄したこの地域も、 1960年代から始まる車社会への移行に伴い、物流の役割を終え、清須越の面影を残した町並みも失われつつある。 五条橋は名古屋開府以来、この町を見守り続けている。
                        四間道・那古野界隈まちづくり協議会


当時の様子です。


西は円頓寺商店街です。

賑わいを見せていました。

なに?!

金比羅様です。きれいになりました。

円頓寺です。

読めますね。

江川線十の交差点に、信長像や家康像、秀吉像、水戸光圀公の像がありました。

金シャチ!

久しぶりにお参りしました。

動画を見てみましょう。

清洲越について、このブログの記事を紹介します。

『あなたの知らない愛知県の歴史』(洋泉社)山本 博文 著 の中から、気になるいくつかを紹介します。



Q46 清洲から名古屋への遷府、「清洲越し」はなぜ行われた? 

ここをご覧ください。https://blog.goo.ne.jp/syaraku0812/e/a4b59f55ae0d84c656cdf9ba97748e38

動画です。

以上でこのシリーズを終わります。

歩き慣れた道もありましたが、多くの新しい発見がありました。

新しい発見をさせていただいた七種英康先生そして一緒に学んだAWCの皆さんに感謝申し上げます。

堀川七橋めぐり-1- -2- -3- -4- -5- -6- -7-


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