あなたも社楽人!

社楽の会の運営者によるブログです。社会科に関する情報などを発信します。

富士周辺五名城と諏訪の旅-8-

2024-03-17 07:15:59 | 取材・旅行

令和6年8日~10日まで、富士周辺五名城(山中城、小田原城、石垣山一夜城、甲府城、武田氏館)と諏訪を廻ってきました。

20回にわたって紹介しています。

今回から、小田原城1 です。3回に分けて紹介します。

1回目は、入り口から銅門(あかがねもん)までです。

位置関係です。

畑毛温泉から小田原に向かいます。

三島の富士山です。でかい!昨日は、悪天候のため、十国峠も断念しました。

一転して、この日の天候は最高です!

小田原城です。入り口から西へ向かいます。

北は右上です。

上の矢印のように歩きます。

上の絵で「現在地」がここです。

馬出門土橋を渡ります。赤い学橋が見えます。

馬出門です。

説明がありました。

文字起こししてみましょう。


馬出門

馬出門は、三の丸から二の丸に向かう大手筋上に設けられた重要な門で、 桝形(ますがた)の内側に位置する内冠木門(うちかぶきもん)と同様、控え柱にそれぞれ屋根がつく 「高麗門(こうらいもん)形式の門であったと考えられています。
発掘調査によって、 明治34年(1901)に設置された皇族の御用邸時代の石垣や江戸時代の石垣、門の礎石などが確認されました。
これらの成果や絵図をもとに、 平成21年(2009) に高さ約 6.3m 幅約 4.7m の規模を持つ馬出門が復元されました。 復元には、 柱や扉は欅(けやき)、 屋根の下地は椹(さわら)、土塀の控柱には栗を用いました。
御用邸時代の門は、 馬出門土橋から直進して門をくぐることができるように向かって左側に位置をずらすとともに、 石垣を高く積み直しており、 写真で当時の様子を知ることができます。


短い説明もありました。

本来、小田原城は安山岩のはずですが、この石垣は違うのでは?

馬出門枡形です。

文字起こししてみましょう。


馬出門桝形

馬出門桝形は、 馬出門と内冠木門の二つの門と周囲を土塀で囲まれた方形の空間をいいます。
桝形は、江戸時代初期(1645年頃)の様子を描いた正保図には馬出門土橋を渡って直ぐに馬出門が設けられていましたが、寛文12年(1672) の改修で門は、土橋を渡った奥に移動し、土橋との間に広場が設けられました。
明治34年(1901) に、 二の丸一帯が皇族の御用邸となった後、関東大震災で石垣の大部分が崩落し、周囲の堀の一部が埋め立てられましたが、 平成15年(2003) から整備のための調査を開始し、 平成21年(2009) に復元整備を完了しました。
石垣の復元には、安山岩を用い、 馬出門の南側を真鶴産小松石、北側を江戸城の石丁場である早川石丁場で発掘され、記録調査後に廃棄予定であった石を使用しています。


江南市の曼陀羅寺の山門も高麗門です。形が同じです。

高麗門は、2本の鏡柱(かがみばしら)の上に冠木(かぶき)を渡し、小さな切妻屋根(きりつまやね)を乗せ、鏡柱と裏側の控柱(ひかえばしら)の間にも小さな切妻屋根を被せた門のことです。

門の裏に回るとすぐにわかります。

次は、犬山城にもとあった矢来門で、高麗門の形式です。現在、専修院に移築されています。

再び馬出門。

枡形です。

高麗門を内側から見たところです。

小田原城と銅(あかがね)門

小田原城の説明です。

これは大切ですね。


小田原城

小田原城が初めて築かれたのは、 大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。
16世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、 関東支配の拠点として次第に拡張されました。
豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、 城下町を囲む延長9Kmにおよぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。
北条氏滅亡後、 徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、 石垣を築くなど、 北条氏の城郭に改修の手を加えます。 しかし、 大久保氏が改易されると城は破却されます。 その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、 城の姿は一新します。 稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、 小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。
明治3年(1870) に小田原城は廃城となり、 売却された後、次々と解体されました。 城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ、現在にいたっています。
現在の小田原城跡は、 本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁総構 八幡山古郭の一部が、 国の史跡に指定されています。 また、 本丸を中心に「小田原城址公園」 として整備が続けられています。


銅門の説明です。

銅門です。


銅(あかがね)門

銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、江戸時代のほぼ全期間をとおしてそびえていましたが、 明治5年に解体されてしまいました。 現在の銅門は、昭和58年から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復原されたものです。
銅門の形式は、石垣による桝形、 内仕切門、櫓門、を組み合わせた枡形門と呼ばれる形式で、 本来の工法で復原されています。


住吉堀の説明です。

文字起こししてみましょう。


住吉堀

住吉堀は、 銅門と馬屋曲輪 御茶壺曲輪の間を仕切る堀で、寛永9年(1632) 以降、 稲葉氏による近世化工事で完成しました。 大正12年(1923)の関東大震災で石垣が崩落し、その後理め立てられ、 小田原高等女学校 (後の城内高等学校) が設置されていました。
昭和58年(1983) から本格的に始まった史跡小田原城跡の整備事業に伴い行われた発掘調査では、石垣の根石と呼ばれる一番下の積石と、その下に敷かれていた松の土台木が堀全体で確認され、江戸時代の絵図と合致することが確認されました。
また、 絵図に描かれていない戦国時代の小田原北条氏による 「障子堀」 (堀底に土を掘り残し障壁とする堀)、さらに江戸時代初期の 「障子堀」や自然石をそのまま使用した野面(のづら)積みの石垣などが検出され、 時代によって異なる堀の変遷が確認されました。
住吉堀の石垣と堀の復元工事は、昭和63年(1988) から発掘調査と並行して、 城絵図や発掘成果と整合させて行われました。
また、 平成2年(1990) に住吉橋を復元しましたが、銅門櫓台(あかがねもんやぐらだい)石垣を含めた石垣までの完成には、 平成7年(1995) までの6年間を要しました。
復元に際しては、 関東大震災で崩落した石垣の石を使い、角石などの一部は、 真鶴産小松(こまつ)石(安山岩)を新たに使用しています。


住吉橋です。

その反対側にあった案内所の内部です。

渡ります。

枡形です。

銅門の説明です。

先ほどの説明と違うので、文字起こししてみます。


銅門

銅門は、 小田原城二の丸の表門にあたる桝形形式の城門で、渡櫓(わたりやぐら)の門扉や鏡柱に耐火を兼ねた銅の装飾がなされていたことから、この名で呼ばれています。 馬屋曲輪から住吉橋を渡って、 桝形正面の埋門(うずみもん)形式の 「内仕切門」 を潜って桝形内部に入ります。 桝形を西に折れると 「銅門渡櫓門」 (あかがねもんわたりやぐらもん)となります。
渡櫓門は、 幅約6m 長さ約23m、 高さ約12mの規模で、渡櫓には 「石落とし」 と呼ばれる敵を撃退するための仕掛けが設けられていました。
銅門は、明治5年(1872) に解体されましたが、 発掘調査により石垣の位置が明らかになり、 城絵図や古写真などから復元設計が検討されて、 平成5~7年(1993~1995) にかけて桝形や櫓台(やぐらだい)石垣が、 平成8、9年 (1996, 1997) にかけて渡櫓門や土塀が、 日本古来の伝統的な工法で復元されました。


銅門です。

これも違う説明ですね。

見事な装飾です。

リーフレット

動画です。

[4K]小田原城銅門フォトグラメリ

今日ももう1本小田原城です。天守の中に入ります。 富士周辺五名城と諏訪の旅-9-へ


このシリーズは

富士周辺五名城と諏訪の旅-1-  -2- -3- -4- -5- -6- -7- -8- -9- -10- -11- -12- -13- -14- -15- -16- -17- -18- -19- -20- 番外編 


このブログでの他のシリーズは・・・
ベトナム・ホーチミン みてある記 -1-  タイ・バンコク 見てある記-1-  シェムリアップみてある記 -1-  香港に来ています  台湾レポート-1-  平成25年度北方四島交流訪問事業 -古釜布湾-   さわやか中欧 見てある記 -1-   美濃 見てある記 -1-  みちのく三陸海岸 見てある記-1- 新城FWに参加しました-1- 碧南FWへ行ってきました -1- 安城へ行ってきました1 -本證寺- 「勝鬘寺と大久保氏ゆかりの上和田城址」(岡崎市)-1- 北陸探訪 -1- 剱神社 近江FW  長久手FWへ行ってきました -1- 遠州FW -1- 小牧FW -1- 末森城周辺FW-1- 「宮宿」-1- 大野城・大草城-1- 「鳴海宿」-1- 富士周辺五名城と諏訪の旅-1- 

社楽の会」HP:中国ODAみてある記 韓国研修その2 ブリスベン

 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。