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富士周辺五名城と諏訪の旅-11-

2024-03-18 07:20:59 | 取材・旅行

令和6年8日~10日まで、富士周辺五名城(山中城、小田原城、石垣山一夜城、甲府城、武田氏館)と諏訪を廻ってきました。

20回にわたって紹介しています。

今回は、石垣山城1 です。

右上に新幹線小田原駅。その南に小田原城。左下の赤い印が石垣山城です。

高低差を地理院地図で見てみましょう。

石垣山城付近を拡大してみます。文字は読めますね。

下の駐車場の海側(南側)です。

石材の案内がありました。

まさに切り出した石です。矢穴がはっきりと残っています。

下の「現在地」からスタートします。

南曲輪の石垣です。

「東国最初の総石垣城 石垣山城」

説明部分です。


石垣山城は、天正18年(1590) 天下統一を目指す豊臣秀吉が小田原北条氏の本城である小田原城を水陸16万の大群を率いて包囲し、 その本陣として築城されました。 完成と同時に周囲の樹木を伐採し、あたかも一夜のうちに築城したと伝わり、 「一夜城」とも呼ばれています。 しかし、実際には、4月6日から築城に着手し、本陣を移した6月26日まで約80日間、 昼夜問わずに工事が行われました。 また、 塀や櫓の骨組みを造り、 白紙を張って白壁のように見せかけたとも伝っています。 秀吉は、この城に天皇の勅使を迎え、また淀君や千利休を呼んで茶会を開き、 参陣の諸大名をなぐさめたりしました。
東国で最初に造られた総石垣の城で、 白亜の櫓 塀を備えた近世城郭と呼べるものです。 石垣は、 自然石をそのまま使う 「野面積み」 で、 近江の穴太衆(あのうしゅう)による当時の最先端の技術によって築かれました。 大正12年の関東大震災で天守台などは崩落しましたが、南曲輪や井戸曲輪は崩落を免れ、 当時の面影がよく残されています。


一時的に、日本の首都のようになった城でもあります。

もう一つ、年表部分です。


小田原合戦の経過

天正17年(1589)
 11月      秀吉、 北条氏討伐の宣戦布告状を発する
天正18年(1590)
 3月 1日     秀吉軍、 京を出陣
 3月29日      山中城落城
 4月6日     秀吉、 箱根湯本早雲寺を本陣とする
 4月6日     秀吉が築城を指示 (現在の石垣山)
 5月14日頃    北政所 (ねね) に石垣の完成を伝える
 6月9日     伊達政宗、 秀吉に拝謁
 6月26日     秀吉、早雲寺から本陣を移す
 7月5日     北条氏直、 降伏し、 小田原城開城
天正19年(1591)
 8月      天守に瓦が描かれる


年月日が入るとリアリティが増しますね。

案内板です。

南側をみると、こんな感じです。

南曲輪の石垣です。

関東大震災が起こった理由は、次回に紹介します。

石垣山城の案内です。

起こしてみましょう。


石垣山城

石垣山城は、 「笠懸山(かさがけ やま)」 あるいは 「石垣山」と呼ばれる箱根から派生する山上にあります。
関白豊臣秀吉が天正18年(1590) の小田原合戦の際に築いた陣城で、 徳川家康家臣松平家忠が記した「家忠日記(六月二十二日)」に 「石かけの御城」と記されていることから、「石垣山城」と呼ばれています。 秀吉が、 一夜のうちに城が出現したように見せかけたとの伝承から「石垣山一夜城」とも呼ばれていますが、 実際には「聚楽又八大坂の普請を数年させられ候二不相劣様」 と、 聚楽第や大坂城に勝るとも劣らない普請工事であったことを秀吉自身が書状にしたためており、秀吉入城までに3ヶ月の築城期間を要した関東唯一の豊臣秀吉の城郭です。 今も穴太衆(あのうしゅう)により築かれた野面積みの石垣が本丸や南曲輪などの各所に残り、谷を石塁で塞いで井戸とした井戸曲輪の姿は圧巻です。


二の丸に向かいます。

見事な石垣です。

読めますね。

二の丸です。

ガイドさんの説明はとても丁寧でした。

展望台へ向かいます。

小田原市街地を見下ろせます。

小田原城の天守、わかりますか

 

 

この画像です。

中央の鉄塔の先を左に少し行くと天守があります。

 

これは大切ですね。

起こしてみましょう


小田原合戦と石垣山城

戦国時代 五代約100年に渡り領国を広げた小田原北条氏が関東一円を支配していました。 天正18年(1590) 天下統一を目指す豊臣秀吉が総勢21万ともいわれる軍勢を動員して北条領へ侵攻します。 北条氏は、 小田原城と城下の周囲を約9kmに渡り囲んだ総構 (堀と土塁で築いた防御施設) で対抗しますが、 約3か月に渡る籠城の末に降伏し、城を明け渡しました。 小田原合戦に際し、秀吉が本陣として築いたのがここ石垣山城で、東日本で初の総石垣の城とされています。 周囲の樹木を切り払い、一夜にして築いたように見せ、北条氏を驚かせたという伝説から一夜城とも呼ばれますが、 実際には約2か月かけて築城されました。 当時の石垣や曲輪などが良く残り、 また、 物見台からは小田原城も見下ろすことができます。

全国から名だたる戦国大名が集結した小田原合戦。当時に思いを馳せながら見学してみてはいかがでしょうか。


圧巻の井戸曲輪です。

通路があり、これが大手道かも?とも言われています

ならば、小田原城からも見えたはず。

石垣の城を見たこともない北条氏側の人は、さぞかし驚いたことでしょう。

螺旋状で、二の丸からは25m降りていきます。

この井戸では、茶々や千利休も使ったといわれています。

降りていくと

石垣は10mあります。

北側の様子です。丹沢です。

縄張りは誰が?

有名な疑問ですが、肥前名護屋城とそっくりなことから、黒田官兵衛ではといわれています。

本丸の石垣です。

本丸跡です。

動画を見てみましょう。

【城めぐり】意外と本格的な近世城郭 石垣山城 神奈川県【攻略ルート】

【お城紹介】「石垣山城」山中に眠る秀吉が小田原城攻略のため築いた城の跡

明日も石垣城です。 富士周辺五名城と諏訪の旅-12-


このシリーズは

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