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富士周辺五名城と諏訪の旅-9-

2024-03-17 07:20:59 | 取材・旅行

令和6年8日~10日まで、富士周辺五名城(山中城、小田原城、石垣山一夜城、甲府城、武田氏館)と諏訪を廻ってきました。

20回にわたって紹介しています。

今回は、小田原城2 です。

銅門の復元の説明です。

これについては、詳しい動画がありますので、こちらをご覧ください。

【小田原市】史跡小田原城跡銅門枡形石垣復原(1995)1_2

壁を復元したときの説明です。

5層になっています。

その説明です。読めますね。

二の丸跡 の説明です。

文字起こししてみましょう。


二の丸跡

江戸時代、多くのお城では藩主の住まいは本丸にありました。
しかし、小田原城の本丸には徳川将軍家のための御殿があったため、 小田原藩主の住まいは二の丸にありました。
二の丸の建物は「二の丸御屋形(まるお やかた)」 と呼ばれ、藩主の住まいのほか、藩の政治を司る政庁としての役割がありました。
二の丸御屋形は、寛永10年(1632) の寛永小田原大地震で被災した後に大規模に整備され、 唐門や能舞台を備えた御殿(ごてん)造りの壮麗な建物となりました。 しかし、元禄16年(1703)の地震により倒壊・炎上したことが、 発掘調査でも確認されています。 その後、 規模を縮小して再建されますが、 幕末に至って幕府老中や将軍家の上洛が再開されると拡張され、 本丸御殿に代わる将軍家宿所としても用いられました。
明治に入り廃城となった後、 同34年(1901)に御用邸が建て替えられましたが、 大正12年(1923)の関東大震災でほぼ全壊しました。 そして、 その後、昭和4年(1929) に小田原第二尋常高等小学校 (後の城内小学校) が建設されました。 平成4年(1992)に小学校統合に伴い城外へ移転しましたが、 残った旧講堂は歴史見聞館として使われています。


小田原城NINJA館(歴史見聞館)

戦国時代の北条氏を陰で支えたと言われる風魔忍者をモチーフに据え、忍者の存在が学べ、新鮮な体験・体感ができる展示となります。https://www.odawara-kankou.com/topics/article/rekishi_renew.html より

以前は学校の体育館でした。かっこいいですね。

詳しくは動画をご覧ください。

小田原城NINJA館

小田原攻防図がありました。

文字起こししてみましょう。


天正18年(1590) 4月、 戦国大名小田原北条氏の本拠地小田原城は、 全国統一を推し進める豊臣秀吉の大軍に包囲されました。

● 時代を画した小田原合戦
織田信長の死後、 北条氏は従属を迫る豊臣秀吉と交渉を続ける一方、 天正15年(1587) からは、 決戦に備えて小田原の城と城下を囲んで堀と土塁を構築しました (総構)。 また、 各地の支城を整備して迎撃態勢を整えましたが、 豊臣勢の進軍は早く、次々に支城は落とされていきました。
豊臣軍は武器や食料の調達 確保にも長け、 豊富な物量を背景におよそ15万ともいわれる軍勢で小田原城を包囲しました。 そして、3ヶ月の籠城の末、 北条氏直は小田原城開城を決意します。
合戦の終結により、 豊臣秀吉による天下統一が成りました。


他の説明です。


● 戦闘の経過

天正18年(1590) 3月1日、 豊臣秀吉は小田原に向け京を進発しました。 東海道を進む本隊は、山中城 (三島市) を突破し、4月中頃に小田原城を包囲しました。 また、 毛利輝元 (本人は京都留守居) 等の水軍が物資輸送にあたり、 前田利家率いる北国勢が上野国 (群馬県) 方面から北関東に侵攻しました。
これに対して氏直は小田原城に主力を投入しつつ支城の防備を固めます。 長期戦を覚悟した秀吉は、早川 (小田原市早川) 西方の山上に陣城を構え、 6月26日に本陣を移します。 本隊の猛攻に耐え小田原城総構の防衛線を死守するも、 別働隊に主要な支城を撃破された氏直は、これ以上の戦闘継続は無益と判断し、 7月5日に城を出て降伏しました。

●小田原合戦の意味

北条氏は、 中世的ではあるものの、優れた領国経営を行っていました。 そして、 その本城である小田原城は、 堀と土塁で城と城下を取り囲む戦国最大規模の中世城郭で、 「土の城」 でした。 かたや秀吉が本陣を構えた石垣山城は、東国で最初に築かれた総石垣の近世城郭であり 「石の城」でした。
北条氏の滅亡により秀吉の天下統一が達成され、 戦国時代は終わりました。 小田原合戦は、 日本の歴史が中世から近世へと動く、 歴史の転換点となった出来事だといえるでしょう。
また、 小田原合戦後、 参陣した武将は国元に戻ります。 そして、 自国を整備し、 城郭の普請を行いました。 普請された城郭の中には、駿府城 (静岡市)や御土居 (京都市)、 岡山城 (岡山市) など、総構に代表される堅固な小田原城の姿を参考に行われたといわれているものもあります。  


わかりやすい説明です。

当時の小田原城は石垣はなく、北条流の障子堀がありました。

 

いつも青々として7本の松があったといわれているので常磐木門といわれています。

文字起こししてみましょう。


小田原城 常磐木門

本丸には、常盤木門と鉄門というふたつの門があり、 本丸にあった徳川将軍家の御殿を守っていました。 そのうち、この常盤木門が小田原城の本丸正門です。
門の名前である 「常盤木」とは常緑樹のことを指し、 戦国時代から本丸に存在した七本の松(通称七本松、現在は1本 「巨松」 のみが残る)に由来しています。 命名には、常に緑色の葉をたたえる松のように、 小田原城と小田原が永遠不滅に繁栄しますようにとの願いが込められていると言われています。 江戸時代初期からありましたが、 元禄16年(1703)の地震で倒壊・炎上し、宝永3年(1706) に渡櫓門に南多聞櫓・北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建されました (「文久図」 、 右図)。

明治3年(1870)、小田原城の廃城とともに解体されましたが、 昭和46年(1971)に小田原市制30周年事業の一環として渡櫓門と南多聞櫓を再建しました。
江戸時代には、櫓や櫓門の内部は倉庫や武具保管庫として用いられていました。 現在、常盤木門の渡櫓は「常盤木門SAMURAI館」 となり、往時のように武具・甲冑を展示しています。 また、日本で唯一の甲冑に投影したプロジェクションマッピングを上映しています。


常磐木門の碑です。このあたりの石垣は古そうです。

常磐木門です。

7本の木の中で、1本だけ残っています。貴重です。

本丸跡の説明です。

起こしましょう。


本丸跡

小田原城の本丸は、 東西83間 (約150m)、 南北63間(114m)ほどの規模があり、 その西端に天守台、 中央には本丸御殿がありました。 本丸の周囲には石垣と土塀がめぐらされ、東と北の2箇所に門が設けられていました。 東側の門は、 本丸正門にあたる常盤木門、北側は裏門で鉄門と呼ばれていました。
本丸御殿は、他のお城では藩主居館(はんしゅきょかん)として用いられます。 しかし、小田原城では徳川将軍家の宿所としての役割を持っており、寛永
10年(1632) の寛永小田原大地震で倒壊したため、 翌年に上洛する三代将軍徳川家光の宿所として再建されました。
その後、将軍家の上洛が途絶えた後も維持されていましたが、元禄16年(1703)の地震により倒壊・焼失してからは、再建される現在、本丸の東南には「巨松」と呼ばれる天然記念物のマツの巨木があります。 元禄年間(1688~1704)の小田原城の姿を描いた 「寛永年間 小田原城 廓総(くるわそうず)図(通称 「宮内庁図」)」には、「七本松」と呼ばれた松の姿が描かれていますが、 巨松は 「七本松」最後の一本で、樹齢は400年を越えています。


石垣が二段になっています。古さが違うのも興味深いですね・・・。

写りが良くありませんね。起こしてみます。


小田原城 天守閣

「天守」とはお城の象徴ともいえる建物で、 お城の内外を見張るための物見櫓や蔵などとして用いられました。 江戸時代までは 「殿主」 「殿守」 などとも記され、 「天守閣」 と呼ばれるのは明治時代になってからのことです。 江戸時代の小田原城は江戸の西を守る要の城とされ、徳川将軍家の宿所としても用いられました。 寛永11年(1634) には、京都へと向かう途中の三代将軍徳川家光が天守に登り、武具を見たり展望を楽しんだりしたという記録が残っています。

元禄16年(1703)の大地震で、 天守を含めた小田原城のほとんどの建物が倒壊 焼失しますが、天守は宝永2年(1705) に外観三層内部四階の 「天守櫓」、入り口の「付櫓」、両者を結ぶ「続櫓」の三棟からなる群として再建され、 明治3年(1870) の廃城 解体までその姿を保ちました。

現在の天守閣は、 昭和35年(1960) に市制 20周年の記念事業として鉄筋コンクリート造で復興されたものです。復興に際しては、江戸時代の天守引図 (設計図) や模型を参考に外観が復元され、最上階には周囲の景色を楽しめるように高欄が設けられました。
そして、平成28年(2016)には耐震改修工事と展示の全面的なリニューアルが行われました。 天守閣内部では古文書や甲冑刀剣、発掘調査による出土品などを展示し、 小田原城の歴史を紹介しています。
標高約60メートルの位置にある最上階からは相模湾が一望でき、 晴れた日には三浦半島や伊豆大島、遠く利島や房総半島までを望むことができます。


なるほど。中に入ってみましょう。

5階建てです。

主な展示物を紹介します。全国天守の高さランキングです。

大坂城 41.5m

名古屋城 36.1m

島原城 33.0m

熊本城 32.5m

姫路城 31.5m

小倉城 26.7m

小田原城 27.2m

広島城 26.6m

福山城 26.3m

若松城 25.1m

小田原城には3基の天守模型が残っています。それを元に、復元されています。

小田原城は、唯一2回再興されています。

起こしてみましょう。


小田原城天守は江戸時代を通じて外観3重内部4階の天守櫓に付櫓、 続櫓で構成されていました。
江戸時代の間に2度も天守が再興されたのは小田原城だけです。
初代にあたる慶長度天守は「相州小田原古絵図(加藤図)」に描かれ、 望楼型の天守であったことが確認できます。 完成時期は不明です。
寛永7年(1630) 以前に失われていたと考えられています。

二代寛永度天守は寛永10年(1633) の寛永地震後に再興されました。 「相模国小田原城絵図 (正保図)」 に描かれ、 層塔型を示し2重目3重目には高欄がめぐらされています。 元禄
16年(1703) の元禄地震により倒壊しました。

三代宝永度天守は宝永2年(1705) に再興されました。 現存する模型や絵図によりその姿が確認できます。 初重目2重目の屋根には唐破風と千鳥破風の飾り破風が据えられ、 形式
的には徳川家が居城する天守と共通します。

明治6年(1873) の廃城令を待たず、明治3年(1870) に解体されています。


宝永2年の小田原城再興碑です。

隠岐守 大久保忠増 の名があります。

再興棟札です。

加賀守 大久保忠増 の名があります。9月に受領地が変わっています。

次は、1865年御殿(二の丸御屋形)の棟上式の様子です。

展示物、ひとつひとつがおもしろい!

リーフレットです。


この動画がとても詳しいです!1時間超えます。

【戦国ネットすきらじ】第74回「小田原城 ~天守台はなぜ二段?~」

明日に続きます。小田原城3です。 富士周辺五名城と諏訪の旅-10-


このシリーズは

富士周辺五名城と諏訪の旅-1-  -2- -3- -4- -5- -6- -7- -8- -9- -10- -11- -12- -13- -14- -15- -16- -17- -18- -19- -20- 番外編 


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