小金井公園の芝桜(東京都小金井市)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
悪いことをしたら謝る。
人に迷惑をかけたら、責任を取る。
間違えがあったら改める。
こんなことは言うまでもないですよね。
物心が付いた時からずーっと親から言われている、
人として当たり前の態度です。
しかし、「当たり前のことを当たり前にやる」のが難しいのも、また事実。
人は完璧ではありませんから全て教科書通りにはできませんし、
だからこそ、許し合うことができたりもするのです。
さて。
それなりに罪悪感があれば、それなりに謝罪し責任を取るわけですが、
この「それなりに」というのが難しいのです。
というのも、「謝罪」というのは一つのカタルシス(浄化)だからです。
たとえば、誰かを庇って(かばって)いるつもりが、かえって余計なお世話になってしまったとします。
当然、悪気があればこそ、あるいは相手を大切に思えばこそ、
しっかり謝って誠意を示したくもなるもの。
しかし、その傷つけてしまった相手と二度と会えないとしたら、どうでしょうか!?
そう、どこかで癒されるまで、心の奥でずっと罪悪感が留まり続けるわけです。
だからこそ、「謝罪」というのは精神的コストがかかる半面、
罪悪感を消化できるという、素晴らしい見返りもあるのです。
そこで、です。
「いち早く罪悪感から逃れたい」と、事あるごとに大袈裟に謝る人がいます。
もちろん、「悪いことを謝る」という態度は誉められたものではありますが、
残念ながら、こういう態度は人を遠ざけやすいのです。
考えてもみて下さい。
ちょっと手がかすった位のことで、いちいち土下座をされ、菓子折りを持ってこられたら、
果たしてよい気持ちがするものでしょうか!?
あざとい人なら最初は「おいしい話」と思うかもしれませんが、
結局、鬱陶しくなるのは時間の問題ですよね。
実は、謝罪というのは大袈裟であればあるほど、
周りに罪悪感を覚えさせてしまうのです。
なぜなら、「これこれのことをしたら、この位は謝ってね」という、
ともすれば価値観の押し付けになってしまうからです。
そうならないためには、周囲の相場感覚を知ること、言い換えれば周りと歩調を合わせることです。
どれくらいだと甘くて、どれくらいだとやり過ぎなのかは、その人や土地柄、文化、時代にも左右されます。
つまり、謝罪の適切な度合いというのは、結局は相場感覚を養うしかないのです。
謝罪は人間関係において、大切な礼儀であり、ツールでもあります。
せっかく謝罪するのであれば、相手に気をつかわせないことが大切です。
「謝罪」というのは、やりようによっては毒にも薬にもなるのです。
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
悪いことをしたら謝る。
人に迷惑をかけたら、責任を取る。
間違えがあったら改める。
こんなことは言うまでもないですよね。
物心が付いた時からずーっと親から言われている、
人として当たり前の態度です。
しかし、「当たり前のことを当たり前にやる」のが難しいのも、また事実。
人は完璧ではありませんから全て教科書通りにはできませんし、
だからこそ、許し合うことができたりもするのです。
さて。
それなりに罪悪感があれば、それなりに謝罪し責任を取るわけですが、
この「それなりに」というのが難しいのです。
というのも、「謝罪」というのは一つのカタルシス(浄化)だからです。
たとえば、誰かを庇って(かばって)いるつもりが、かえって余計なお世話になってしまったとします。
当然、悪気があればこそ、あるいは相手を大切に思えばこそ、
しっかり謝って誠意を示したくもなるもの。
しかし、その傷つけてしまった相手と二度と会えないとしたら、どうでしょうか!?
そう、どこかで癒されるまで、心の奥でずっと罪悪感が留まり続けるわけです。
だからこそ、「謝罪」というのは精神的コストがかかる半面、
罪悪感を消化できるという、素晴らしい見返りもあるのです。
そこで、です。
「いち早く罪悪感から逃れたい」と、事あるごとに大袈裟に謝る人がいます。
もちろん、「悪いことを謝る」という態度は誉められたものではありますが、
残念ながら、こういう態度は人を遠ざけやすいのです。
考えてもみて下さい。
ちょっと手がかすった位のことで、いちいち土下座をされ、菓子折りを持ってこられたら、
果たしてよい気持ちがするものでしょうか!?
あざとい人なら最初は「おいしい話」と思うかもしれませんが、
結局、鬱陶しくなるのは時間の問題ですよね。
実は、謝罪というのは大袈裟であればあるほど、
周りに罪悪感を覚えさせてしまうのです。
なぜなら、「これこれのことをしたら、この位は謝ってね」という、
ともすれば価値観の押し付けになってしまうからです。
そうならないためには、周囲の相場感覚を知ること、言い換えれば周りと歩調を合わせることです。
どれくらいだと甘くて、どれくらいだとやり過ぎなのかは、その人や土地柄、文化、時代にも左右されます。
つまり、謝罪の適切な度合いというのは、結局は相場感覚を養うしかないのです。
謝罪は人間関係において、大切な礼儀であり、ツールでもあります。
せっかく謝罪するのであれば、相手に気をつかわせないことが大切です。
「謝罪」というのは、やりようによっては毒にも薬にもなるのです。