河津桜(東京都江東区)
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
食べ物を好きになるコツがあります。
とりあえず口にしてみて、「おいしい理由」をひたすら探してみるんですね。
そうすると、次々と理由が浮かんできて、
なぜかまた食べられないか、楽しみになってくるのです。
反対に、嫌いになるにはこれの逆をやる、つまり「おいしくない理由」を考えてみると、
どんどん見たくなくなってくるわけです。
「どうしても好きに慣れない」とか「体質的に厳しい」などという場合はもちろん無理をする必要はありませんが、
どうせなら好きになれるように持っていくほうが、
食事を楽しむ上でも大切なのです。
世の中には「100%」や「絶対」というものは、統計や結果論以外では、そう出てくるものではありません。
「好き嫌い」や「成功と失敗」など、どちらにも転び得る要素や裏付けがあるのが普通なのです。
「これはこうに決まっている」とか、
「間違いなくそうなった」とか、
本当はそうではないかもしれないのに、自分の期待(=「こうなってほしい」とか「自分の読みが正しくあってほしい」という気持ち)が加わると、
根拠の探し方も、どこか偏った決め付けに近いものになってしまうのです。
食べ物の例だと、「これはおいしくないに決まっている」とか、
「見てくれだけで味なんてわかる」と言うと、
それを裏付ける理由がどんどん浮かんできます。
どんなものでもそうです。
したり顔でつまらない下馬評を叩くのは自由ですが、
楽観的なものであれ、悲観的なものであれ、理由なんていくつでも見つかるのです。
勝手に悲観的になって全てを投げ出したり諦めたとして、
本当はきちんと備えれば上手くいったかもしれなかったのだとしたら、
それは勿体ないこと、悔やんでも悔やみ切れないことだと思いませんか!?
自分の読みが当たるとか当たらないという以前に、
勝手に自滅してしまうようなこと、出来ればしたくないですよね。
結局、「どうなりたいか」が重要なんです。
負けが決まっている勝負や特別な準備がなければ失敗するようなものは別にしても、
悲観的になるあまり、打てる手を打てなくなるのだとしたら、
楽観的にベストを尽くしていくほうが、まだ希望も開けるというものです。
決め付けて納得していること、案外あるものです。
どんなことをするにも、「上手くいくだけの根拠」を探していきたいですね。
こんにちは。
今日も皆さん、ありがとうございます。
食べ物を好きになるコツがあります。
とりあえず口にしてみて、「おいしい理由」をひたすら探してみるんですね。
そうすると、次々と理由が浮かんできて、
なぜかまた食べられないか、楽しみになってくるのです。
反対に、嫌いになるにはこれの逆をやる、つまり「おいしくない理由」を考えてみると、
どんどん見たくなくなってくるわけです。
「どうしても好きに慣れない」とか「体質的に厳しい」などという場合はもちろん無理をする必要はありませんが、
どうせなら好きになれるように持っていくほうが、
食事を楽しむ上でも大切なのです。
世の中には「100%」や「絶対」というものは、統計や結果論以外では、そう出てくるものではありません。
「好き嫌い」や「成功と失敗」など、どちらにも転び得る要素や裏付けがあるのが普通なのです。
「これはこうに決まっている」とか、
「間違いなくそうなった」とか、
本当はそうではないかもしれないのに、自分の期待(=「こうなってほしい」とか「自分の読みが正しくあってほしい」という気持ち)が加わると、
根拠の探し方も、どこか偏った決め付けに近いものになってしまうのです。
食べ物の例だと、「これはおいしくないに決まっている」とか、
「見てくれだけで味なんてわかる」と言うと、
それを裏付ける理由がどんどん浮かんできます。
どんなものでもそうです。
したり顔でつまらない下馬評を叩くのは自由ですが、
楽観的なものであれ、悲観的なものであれ、理由なんていくつでも見つかるのです。
勝手に悲観的になって全てを投げ出したり諦めたとして、
本当はきちんと備えれば上手くいったかもしれなかったのだとしたら、
それは勿体ないこと、悔やんでも悔やみ切れないことだと思いませんか!?
自分の読みが当たるとか当たらないという以前に、
勝手に自滅してしまうようなこと、出来ればしたくないですよね。
結局、「どうなりたいか」が重要なんです。
負けが決まっている勝負や特別な準備がなければ失敗するようなものは別にしても、
悲観的になるあまり、打てる手を打てなくなるのだとしたら、
楽観的にベストを尽くしていくほうが、まだ希望も開けるというものです。
決め付けて納得していること、案外あるものです。
どんなことをするにも、「上手くいくだけの根拠」を探していきたいですね。