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賢治から甚次郎がどやされた日

   そもそも、なぜ私はここまで松田甚次郎の下根子桜の訪問回数とその日がいつかを調べてきたのかというと、甚次郎が賢治から〝どやされた〟と千葉恭の目からは見えた日がいつかを確定したかったからだ。  というのは、千葉恭は追想の「宮澤先生を追つて(三)」において、  詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しさうな靑年が松田 . . . 本文を読む
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甚次郎の下根子桜の賢治宅訪問は2回だけだった

   さて投稿者(鈴木 守)の、この時の新庄行の最大の目的は次のようなもう一つの懸案事項を解決することであった。それは今迄ずっと解明出来ずにいた、松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数とその訪問日を確定することであった。もっと正確にいうと松田甚次郎が盛岡高等農林入学後、甚次郎が下根子桜に初めて賢治を訪ねたのはいつで、その後いつ何回そこを訪ねていたのかを知ることが最大の目的であった。  そこで、『新 . . . 本文を読む
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甚次郞の赤石村慰問は12月25日だった

   まずは、松田甚次郎の日記を見せてもらいに新庄へと思い付いたのだが、問題はその日記を実際に見ることが出来るか否かだ。学者でも研究者でもない私が松田甚次郎の日記を閲覧出来るはずはないよなと思いつつもやはり見てみたいので、厚かましくも駄目元で、『新庄ふるさと歴史センター』<*1>に問い合わせてみる。     「宜しければ松田甚次郎の大正15年と昭和2年の日記を見せていただけないでしょう . . . 本文を読む
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松田甚次郎の下根子桜の賢治宅訪問はいつだったのか

   さて、それでは賢治から「小作人たれ/農村劇をやれ」と強く言われた日は昭和2年3月の何日か。それについては『校本年譜』(筑摩書房)に、 三月八日(火) 岩手日報の記事を見た盛岡高農、農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。「松田甚次郎日記」は次の如く記す。 「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading  9.for mr 須田 花巻町  11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会 . . . 本文を読む
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旱魃に苦悶する赤石村を見舞った松田甚次郞

   さて、千葉恭は下根子桜の宮澤家別宅内であの松田甚次郎を目の当たりにしていたとほぼ断定出来そうだと知ったので、先ずは甚次郞について少し調べてみたい。  それは、宮澤賢治とその作品をいち早く全国的に知らしめたのは、もちろん松田甚次郞だからである。特に、大ベストセラーになった 【松田甚次郞著『土に叫ぶ』(羽田書店、昭和13年5月18日)】 とロングセラーになった 【松田甚次郞編『宮澤賢治名作選』 . . . 本文を読む
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千葉恭の子息等から証言

   もはやこうなると私には為す術もない。すっかり途方に暮れてしまった私はそのことを先輩の安藤勝夫氏にぼやいた。すると同氏は、あの人ならば恭に関して知っているかもしれないと言って牛崎敏哉氏を紹介して下さった。そして牛崎氏を介して、千葉恭の三男である滿夫氏に私はとうとう会うことができ(平成22年12月15日)た。  例えば、三男の滿夫氏からは、 ・父の出身地は水沢の真城折居である。 . . . 本文を読む
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「羅須地人協会時代」は「独居自炊」とは言い切れない

   さて、松田甚次郎は昭和2年3月8日に下根子桜の賢治の許を初めて訪れ、同年8月8日に二度目で最後の賢治宅訪問をしていることを確認出来た。延いては、千葉恭の宮澤家別宅寄寓期間について次のような、  〈仮説〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8カ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。…………☆が定立出来るし、その . . . 本文を読む
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「不都合な真実」だから「賢治年譜」から消された蓋然性が高い

  鈴木 思い返せば、かつての投稿〝チェロの学習は極めて難しい〟で述べたように、  チェリストの西内荘一も、『嬉遊曲、鳴りやまず』の中でが著者中丸美繪の取材に次のように答えているからだ。  西内は元新日本日本フィルハーモニー交響楽団主席チェリストである。…投稿者略…福島県相馬出身の西内は、中学生のころまったく我流でチェロを始めた。桐朋学園大学に入学したいと考えて、高校一年生のとき夏期講習に参加し . . . 本文を読む
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どうやら「不都合な真実」だったのでは?

鈴木 うん、私も、やはりここは改竄が行われていたと判断している。そしてまた、こうまでもして改竄せねばならなかった理由は何なのか、ということを想像しただけで私はちょっと戦慄を覚えてしまった。一方で、この書き変えが意図的なものであったとするならば、その巧妙さに私はただただ呆れるばかりだ。 荒木 となれば、自分の証言がこのように改竄されたことを澤里武治がもし知ったならばどう思ったかが気になる。 鈴木 . . . 本文を読む
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〝このままでいいのですか『校本全集』の杜撰〟の目次

《白い片栗》(2021年4月27日撮影、種山高原) 〝このままでいいのですか『校本全集』の杜撰〟の目次 ・非才な私でも賢治研究が出来た ・友人に新著謹呈 ・「マスメディアの沈黙」も大きな一因 ・たしかに「杜撰」だ ・読者自身が検証するしかない ・「それは読者に限った話ではないべ」 ・強い自恃と厳しい自戒 ・いくら何でも「大正一五年のことと改めることになっている」なんて ・まるで他人事のような言い回 . . . 本文を読む
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関登久也著『宮沢賢治物語』の改竄

  吉田 「こりゃ変だべ!」ってどこが? 荒木 前者では、  どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。となっているのに、それに相当する部分は後者では、  どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。となっていて、一箇所全く違っている箇所があって、    単 . . . 本文を読む
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新聞連載を単行本化した関登久也の『宮沢賢治物語』が変

荒木 さっき、「裏で何かが……、と邪推してしまう」とつい口走ってしまったが、このことについては実は鈴木だってそうなんじゃないのか? 鈴木 実は検証はまだ完全ではないが、ある仮説はある。 荒木 それはどんな? 鈴木 それじゃ、まずは少し私見を述べさせてくれ。  以前、〝関『随聞』二一五頁〟の一次情報を調べるために並べられた、 ⑴ 「沢里武治氏聞書」(『賢治随聞』角川書店、昭和45年2月20日発行)2 . . . 本文を読む
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〝関『随聞』〟は関登久也が著した訳ではない

鈴木 なお、ここで言っておきたいことがある。それはあの註〝*65 関『随聞』二一五頁〟に関してだ。いままでは、この〝*65 関『随聞』二一五頁〟の「関『随聞』」とは、関登久也著『賢治随聞』のことだと言ってきたのだが実は…… 荒木 実は? 鈴木 それはこんな本、       であり、著者は関登久也だと読者は思うだろうが、厳密にはこの本は関登久也が著したものではない。 荒木 どういうこっちゃ? 鈴木  . . . 本文を読む
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賢治を透明人間にした現「賢治年譜」

吉田 そして、筑摩が 一次情報に立ち返らなかった結果、どんな事態を招いたか。その最たるものが、筑摩は賢治を透明人間にしてしまったということだ。 荒木 うむっ? 吉田 「校本年譜」は「羅須地人協会時代」のある3ヶ月間賢治の存在を消し去ったのだ。 荒木 そっか、あの表を見ればいいのか。え~と、先に、 〈仮説2〉賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、しばらくチェ . . . 本文を読む
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一次情報に立ち返らなかった筑摩

荒木 それにしても、『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文編』はどうして一次情報に立ち返らなかったのだろうか、これは基本中の基本だろうに。 鈴木 たしかに。  あの註釈、  *65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。 からは、「関『随聞』二一五頁」を「典拠」としているという . . . 本文を読む
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