すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

波多野誼余夫・稲垣佳世子「無気力の心理学」

2005-01-23 06:30:55 | 書評
「現在の教育をぬるい」とテレビで慨嘆している人を見ると、「あんたはそんなに真面目に勉強したの?」と揶揄したくなるのは、僕だけだろうか?


もともと管理・詰め込め教育への反省から生まれたはずの「ゆとり教育」
バブル期以前には、
 「詰め込み教育のため、独創的な才能が育たない」
 「夜の九時まで電車で塾に通っているのは、とても子供らしいとは言えずおかしい」
 「今の管理教育では、本当の生きる力が身につかない」
てな、ことが言われておりました。が、実際に、管理・詰め込め教育が緩み始めると、
 「九九や漢字の書き取りといった基礎教育は、詰め込みでやらせるのが当たり前だ」
 「こんな学習内容では、世界から取り残されてしまう」
 「今の子供は、自由すぎる」
てな、感じになりました。

教育に王道なし。既成のシステムに安住してしまった時点で終わりなのでしょうから、議論がつきないのは仕方ないんでしょうね。

 今ここに、生後二ヶ月の乳児が一人、ベッドにねかされていると想像してほしい。彼は目をさまし、泣き声をあげはじめた。だが、彼の泣き声を聞きつけて、誰かがそばにやってくる気配はない。少し泣きやんだあと、今度はもっと大きな声をはりあげた。まだ誰もやってこない。さらにもっと大声で泣く。依然として周囲に何の変化もおこらない……。こうして数分間泣きつづけたが、結局誰も彼のそばにこない。彼の泣き声はだんだん小さくなり、ついにはまたねむってしまった。

このような光景に対して、読者はどう思われるだろうか。「これは残酷だ。こんなことを繰り返すと子どもの発達に重大な悪影響があるだろう。」こう思われるだろうか。「いや、赤ん坊は泣くのが仕事だ。あのようにして運動しているのだ。少しくらい泣かせたままにしておいてもたいしたことはない」とお考えだろうか。それとも「幼いうちからがまん強さを身につけさせようとしているのはいいことだ」と思われるだろうか。(波多野誼余夫・稲垣佳世子「無気力の心理学」17頁~18頁 中公新書)

面白い話だったので、ちょっと長めに引用してみました(手打ちです。スキャナーが欲しい……)。

で、どれが、正解だと思いますか?
本書では、最初の「これは残酷だ。こんなことを繰り返すと子どもの発達に重大な悪影響があるだろう。」を正解としております。
子供が泣いたら積極的にあやしてあげる方が、自分のリアクションで外界が反応することを覚え、泣く以外の方法でコミュニケーションをとることを早いうちに始めるそうです。つまりは、泣かなくなるということです。

放置しておくことで、赤ん坊が黙り始めるのは、「我慢強さ」を学んだなんてものではなく、むしろ「諦念」からくる無気力が、そうせているらしいです。

最近の心理学の知見によれば、人間は本来、環境に自分の活動の影響を及ぼしたい、環境を理解しコントロールしたいという欲求をもち、たえず環境と相互干渉している存在であるといわれている。環境とのやりとりの過程で、そうした欲求が充足されることは、人間にとって非常に快適な経験になるのだといえよう。(同書30頁)

本書では、外界に対して積極的に関わっていこうとすることが人間の本能なのであって、それが何らかの事情で達成できないことで人は意欲を失っていく、という前提に立っています(初版が1981年になっているんで、「最新の心理学」がどれほどのものか怪しいですが、まぁ、門外漢なのであまり気にしないでおきます)。そのため、本書では「獲得された無力感」という表現をしています。つまり、「無力感」というものは、人間の本性に根ざしたものではない、ということらしいです。

どうなんでしょう? 水は低きに流れという感じで、安易に自堕落な生活を堪能してしまうタイプの僕からすると、ちょっと性善説により過ぎているような気もしますが。


基本的に、教育者向けの本です。また、ちょっと古い本なので、現状とは相容れない文章や、共産主義に対する一抹の希望が見られたりして、時代を感じてしまう箇所もあります。

が、人間の意欲について考えるには、有益と思われます。
仕事に対して、いつもやる気のでない人などには、面白いのではないでしょうか?

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