(笑)がついてますけど、笑うしかないです。いや、(呆)でもよかったか。
日本の哲学者にはこの問題は無理なんですかね。まあ、だからこの国は衰退しているのでしょう。
ちょっと永井均氏のツイートを見てみたら、引用リプで妙なことを言っていたんですよ。
「?」と思って引用されている方のツイートを見ると谷口一平というジンブツ。そのツイートだけでは良く分からないんですが、谷口君は「男性差別」とかいっちゃうガラクタさんで、さらに「構造的な差別などない」とか言っているポンコツ君なんですね。個別の「男性差別」や「女性差別」はあるが、構造的な差別はないのだそうです。それは人種差別も同様なのだそうです。
歴史や社会の構造というものを多少なりとも把握する意識や能力がないんでしょうね。そもそも差別というのは構造的なものをさしていうのであって、個別ならいじめや嫌がらせやハラスメントや犯罪などになります。
こんな脳味噌ですからジェンダーについても、テキトーなことを言っていて、一貫性はありません。たぶん本人は一貫しているつもりなのでしょうけどね。ある時は「そんなものはない」、ある時は「それは否定するものではない」みたいな。まあ、ないものは否定もできないから一応筋は通っていると言えば言えるのか(笑)
そしてなんとこの人、自称哲学者なんですが、最近は永井均氏と仕事をしていたりするんですね。だから永井氏が引用したりしているんですが、しょうもないことに同調したり、ある性質の悪い本を読んで良く分かったみたいなことを言っているし。
ジェンダーというのは、さっとネットに出て来るものでは「社会や文化によって作られた男性や女性の役割や特徴、性別に対する考え方を指します。
生まれつきの体の性、生物学的性別(Sex)とは区別される。」とありますね。
「社会や文化によって作られた」ものであれば、普通に脱構築したいとは思わないんですかね。まあ、仮にそう思っても自称哲学者にはそのような能力が伴わないので出来ないという事なんでしょうかね。
構造自体をないものにして終わり(笑)というのが男性差別君の結論なんでしょうね。
歴史改竄主義者と同じですね。こういう安易な人間が哲学者を平然と名乗っているのがニッポソなんですね。
こいつが、女性差別を構造的ではないという理由は(本人の観測範囲の狭さを別にして)、世界中の男性が示し合わせたなんてことはないのだから、とのことです。
「みんなで示し合わせない限り構造化することはない」と言っているんですね。かなり頭が悪いことがうかがえますね。
結局のところ、この手の人間にとっての「脱構築」は単に「バカが勉強しないで出来る事」程度のことでしかないのであろうと思われます。
かつて西欧の各国でアフリカあたりから奴隷を連れて来ることが流行りましたが、別に各国で示し合わせたわけではないでしょう。
マイケル・ジャクソンの「スリラー」は大ベストセラーになりましたが、購入者がみんなで示し合わせたわけではないでしょう(まあ、これはちょっと例がおかしい)
実際にそのような構造があるのかと疑問を持つのは別に悪くありませんが、しかし、それがあることは「見ればわかる」レベルのものです。それが分からない時点でバカです(控えめに言っています)
その構造がどのようなもので、なぜそうなったのかを考える(調べても見る)というのが、哲学するにしても学問するにしても必要な「作業」でしょう。
しかし、ポストモダンなヒトビトはそこがすっ飛んでますからね。自称哲学者が安易な発言をして、それにすぐ飛びつく輩。かなり恥ずかしいですが、ツイッターにもいっぱいいますね。
あ、谷口君、永井氏との共著を宣伝していますね。
〈私〉の哲学 をアップデートする
私の初となる共著『〈私〉の哲学 をアップデートする』(春秋社) が出ます!
永井・入不二・青山先生と共著を出せるような身分では本来ないですが、このシンポジウムに限っていえば、12年の時を経て、ある種の「役割」をきちんと果たせたと思っています。ぜひ手に取ってみてください。
この人、何年もずっとミソジニーなんですけど、アップデート出来ないんじゃないですかね。
本を出すと、ツイートじゃなくて本を読んで批判しろだとか言い出すのが多いですが、哲学や学問系の場合、書いてる奴がバカなら読む価値ないですからね。読みません。ツイートでもだいたいものの見方や考え方は出ますからね。
前にも書いたと思いますが、本屋に行って本を買う時はタイトルと表紙(帯を含む)を見ます。一応著者も。それにツイッターが追加されただけのことです。
小説ならそのセンスが大事で、多少バカな人が書いても面白い小説は存在するかもしれないんですが、哲学系の本は無理ですね。バカが書いてはいけないです。
まあ、「バカが書いた哲学」という分野があっても駄目とは言いませんが、読むのは苦痛だし時間の無駄だと思います。
ちなみに、上記の本のタイトルにある〈私〉は、「なぜこの〈私〉なのか」の〈私〉でしょうかね?「なぜ私は私なのか?」ではなく。知らんけど。
今、日本は衰退しています。
これに対して「衰退していない」と主張する輩がいます。全く現状を把握できないバカですね。
さらに、全て個別の問題で片づける輩もいます。思考力のない(思考を放棄した)バカですね。
衰退してるのは明らかで、それは全体としてそうなっているのだから、理由は構造的なもの、政治的なものなんですが、そこに考えが行く人間が日本では少ないんですよね。まあ、だから衰退してるんですが。
当然、「なせ少ないのか」と考える日本人はやっぱり少ないと。
女性差別やジェンダー問題も同様で、そんなものはないとかあくまで個々の問題だとか、そういうところに収斂させてしまう(逃げてしまう)のは筋悪というかやはりバカなんでしょうね。
まあ、思考力などがないやつをなんでも「バカ」に収斂させるのはいささか安易ではありますが(笑)
よくいますよね。映画のレディースデーにケチをつけるバカ、女性専用車両にケチをつけるバカが。
それがなぜできたのか調べればいいのに、それすらやらないで「男性差別だ」などというやつ。「脱構築」してるつもりなんですかね。
まあ、世界中の糞オスが示し合わせたわけでもないのに女性差別が構造化した理由だとか構造そのものだとか1万年ぐらい考えて、その上で固定したジェンダーを脱構築してみようぐらいのことも考えられないやつが哲学者を名乗れるのが日本のいいところですね。
いや、今日は日本の衰退について、もうずいぶんやってますが、またやろうかと思ったのですよ。
その中の政治的無関心についてですが、また今度。
しかし、今「日本は衰退していない」と思っている人はどのくらいいるのかは知りたいですね。バカメディアはそれぐらいやれよ(無理)
明らかにほぼあらゆる分野で衰退しているのですが、「逆にどこが衰退しているのですか。知りたいです」みたいな人もいますからね。答えは「その情弱なところが」でもいいのですが、それはおいといて。
雁に衰退していないとすれば、ジェンダーへの意識なんですけけど、もちろん昔の日本より少しはマシになっている(特に若者において)、という程度で、他国にはドンドン抜かれています。世界でも最底辺。
なぜ抜かれているのかというと谷口みたいなバカが大勢いるからですが(笑)
あ、脱構築と言えばあの人ですよね。さっきこんなツイートを見つけました。
ああ、あの人
「歴史修正主義に居場所をあたえろ」とかマヌケな事を言った東浩紀という奴がいまして。
彼が望んだ世界が実現したわけですが、今頃何を思っているのやら。
アホですよね、アズマン。脱構築は有害ですね。元来、意義はあったかもしれないですが少なくとも今の日本では単にバカの隠れ蓑でしかないです。あんまり隠れてないけど。
そうそう、谷口君、雁琳と仲良しの模様ですね。好意的な引用リプgはありましたし。同類なんですかね。雁琳というのは、北村紗衣氏を集団で中傷し続けた集団の中心的なジンブツで、その件で裁判に負けています。北村氏の賠償請求額よりも裁判所が支払いを命じた額の方が高かったという珍しい一件のアレ。訴えられてもクラファンでお金を集めればオッケーな中傷ビジネスに歯止めをかける判決と言えます。
9月1日ですね。
萩原朔太郎
詩人・萩原朔太郎は、関東大震災で被災した親戚を見舞うため上京。そこでの体験をもとに、短い、けれど怒りのこもった詩「近日所感」を翌1924年1月に発表します。「惨虐」はこのときの彼による造語といわれています。
朝鮮人あまた殺され
その血百里の間に連なれり
われ怒りて視(み)る、何の惨虐ぞ
小池百合子は今年も追悼文を送りませんでしたが、教養がない人なのでそういうことでしかアイデンティティを示せない恥ずかしいイキモノなんですね。都庁のヘタレ記者クラブで生まれつきレイシストかどうか誰か質問しないですかね(笑)
選挙中は、スケジュールに「視察」を入れまくって討論会を拒否、当選後は一切視察を入れています。メディアがレイシストを首都の知事に仕立て上げているのですね。
まあ、衰退しますわね、こんな国。
衰退の理由に、ジェンダーギャップもあるんですが、あの谷口君は、そんなものは根拠がないと思っているんですね。かなり頭が悪いと思います。ネトウヨ級。
「おじさんの詰め合わせ」も、その発言に対するバッシングも存在しない「世界」で生きているんですね。
ジャック・ティボー
Beethoven - Romance No. 2
Beethoven - Violin Concerto
Faure - Violin Sonata No.1
1927年の録音ですね。
さらに古い録音が
Debussy: La fille aux cheveux de lin
1925年ですね。「亜麻色の髪の乙女」
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今ある差別は個個別別の差別が現れていて、各差別間に通底するものはないっていうならそれなりの立証責任求められるもんだと思いますが。私が知らないだけでどっかで言ってんのかな?
差別をいじめかなんかと認識している感じかな。東京の学級にあるいじめと大阪の学級にあるいじめになんら関係がない個々のいじめにすぎない、差別もそれと同じだみたいな。
それならそれで「みんなが示し合わせていない」にもかかわらず「自然と」おじさんの詰め合わせになっている権力構造をどう思っているんでしょうか? あ、構造ないんだっけ?
こういう世間には見えないところに目を向けたり、何らかの力学が働いているんじゃないかって仮説を立てたり考察する哲学は彼にはないようですね。
そういう意味では「おじさんの詰め合わせ」と現状を見抜きミソジニストに刺さるように言語化したトラウデン直美の方がよっぽど哲学している気がする。
トラウデン直美の感覚は鋭いと思いますが、こういうのを叩くバカが湧くせいで、おとなしくなってしまわないかと心配ですね。